ep.35 翡翠の扉(6)

「風神…三日月鎌!!」

 横から現れた巨大な風鎌が、青の鼻先で薙いだ。


『ゴォオオオオ!』


 獏の咆哮。

 地面から生えた獏の尾が切断され、鎌の尾先が錐揉み状で中空に跳ね上がる。


「こっちだ!」

「っわ…!?」

 突如現れた何者かに強く腕を引っ張られる。

 直後に鎌の尾先が落下して地面に突き刺さった。


「貴方は…」

 青の目の前に、大きな背中。

 馬の首でも切り落とせそうな幅広な巨大刃の大刀を、肩に乗せて低い重心で構えている。


 村の自警頭の、コウだ。


「た、助けていただき…」

「貴殿は娘の恩人だ」


 巨大な刃の刀を構え獏に対峙したまま、コウの低い声が応える。


「……」

 問いたい事は、ある。


 コウが用いたのは確かに、神通術だった。

 神通術は東方の神通祖国が確立した術式。西方で用いられているはずがない。だが今最優先にすべきは、目の前の妖魔だ。


『ゴフゥ…』

 獏は体を震わせ、蒸気のような唸り声を漏らしている。眉間に生えた角はいつの間にか鼻の長さほどに伸びていた。


「妖獣の獏は以前から翡翠周辺に棲息していたが、妖魔の顕現はオレも初めて見る」

 コウの鋭い眼光が、獏を見据える。


 獏は一部の伝承において悪夢を喰らう善き聖獣と描かれているものもあるが、一方で子どもを喰らう、魂を喰らう悪鬼として伝わる種も存在している。その中でも、眉間に角を有する種は獰猛な魂喰らいの魔獣と類されていた。


『ゴゥッ!』

 鼓膜を震わす咆哮と同時に、皮膚に痺れが走る。


「天蓋!」

 コウの咄嗟の唱え。

 青とコウの頭上に土の天蓋が弧を描き、そこへ雷が直撃した。


「!」


 低い姿勢から地を蹴って砕け散る天蓋の砂煙を突き破り、コウが大刀を斜めに構え獏に突進する。獏が首を震わすと角から雷撃が放たれた。鞭のごとく何度も地を叩きつける長い鼻先と雷撃を左右に飛び避け、


「っああぁ!!」

 コウは咆吼と共に大刀を一閃。


 獏の顔面下から斜め上にかけて振り抜かれた刃が、太く長い鼻を切り落とし獏の片目を抉るように掠めた。


『ブゴォッ!』

 くぐもった獏の悲鳴が上がる。


「すごい…あんな重たそうな大刀を軽々と…」


 怪我をしているはずの事実を忘れてしまうほど。

 思わず見惚れかける一方で、青は獏の弱点を探した。


 眉間の可能性は消えた。

 足が短く重心が低い肉体故に腹側から心臓を狙うのも難しいだろう。

 残るは、首を切り落とすか、脊椎を狙うか。


 同じ考えに及んでいるようで、コウは振り切きった大刀を再び構え、獏の側面へ移動しかけた。


 が―


「離れて!」

「!?」


 咄嗟に地を蹴った青は、斜め後ろからコウに体当たりして逆側へ引き離す。


 直後に耳を劈く(つんざく)破裂音。獏が全身から妖気を発散したのだ。周辺の土が焦げ付いている。あのままコウが突っ込んでいれば、大火傷を負っていたところだ。


『グゴゴゴゴ…』

 獏は全身から妖気の熱を発散しながら、小刻みに震えていた。

 角が紅潮している。


「鼻と尾が…!」


 切断された尾と鼻が持ち上がり、切断面の肉がむくむくと膨らんだかと思うと、たちまちのうちに再生した。

 片目を縦に刻んだ傷も、消えていく。

 顔から背中にかけての体毛が逆立って硬化し、針山に化した。


「ち…っ。急所の守りを固めやがった」

 コウの舌打ち。


「あの角が、妖力を生み出しているようですね」

「ならば、角を落とすまで」

「援護します」

「頼めるか」


 大刀を担ぐコウが肩越しに青を見やった。


「足止めをして鼻と尾の動きを封じます。ですが、あの怪力です。長くは保たないでしょう」

「承知。スキが出来るだけでありがたい」


 コウの頷きを受けた直後、青は式符を掲げた。

「シユウの名に命ず」

 符が炎に包まれ黒煙が上がる。


 質感のある煙は風向きに逆らい獏へ一直線に伸び、徐々に大蜥蜴へと姿を変えた。大蜥蜴は地面を這い、獏の足元に向けて突進。


『グウゥ!』

 獏は短い前足で地面を蹴り、迫る式蜥蜴を踏みつぶした。濃緑の液体が噴き上がり、獏の足元を浸す。


「地神…針地獄」

 青の唱えに応じて獏の足元の土や砂利が一斉に濃緑に変色し、激しく波打った。泥のように変質した砂利と土が飛び退こうとする獏の脚へ絡みつく。


「水泡!」

 続けて青が次の術を発動。

 獏の足元から腹、胴体へと強粘着の毒泥が這い上っていく。毒泥は次第に尾へ絡み、口、そして鼻の付け根に到達。


「何だあの術は…」

 驚くコウの目の前で、獏の体の半分以上が毒の泥に包まれて動きを止める。


「今のうちに!」

「!」

 弾かれるようにコウは地を蹴った。


「風神、斬鉄!」

 コウの唱えに応じて風が大刀を纏う。

 低い重心で獏の顔面下へ滑り込み地を力強く踏みしめて下から大刀を牙の根本目掛けて振り薙いだ。


 ガキィッ


 不快な金切り音と、獏の絶叫が同時に轟いた。風の力を得た刃が角に減り込んで行く。


「っ…、固い…!」


 地を踏みしめるコウの左膝が、がくりと折れかかる。怪我の影響で踏ん張りが利かないのだ。それでも刃は妖魔の角の根本、半分ほどに到達していた。


「く…」

 青は片手を地面につき、術を発動し続けている。気を抜けば、獏に毒泥の拘束が一瞬で剥がされてしまうのだ。助太刀に向かえない歯がゆさに、奥歯を噛み締める。


『ゴォオオオオッ!!』

 ひと際大きな咆哮が轟いた。


「ぅあ!」

 地脈を通じて強烈な痺れが青の手から体を走る。


 一瞬の怯みが、獏に好機を与えた。


 荒い一息で獏の半身を拘束していた地術が弾け解け、自由になった鼻先と尾がしなる。


「ぐあ!」

 固い鼻先がコウの体を横薙ぎに叩き飛ばした。

 土に叩きつけられ転がるコウを狙い、尾鎌が振り上げられる。


「コウさん!」

 青は地を蹴った。庇うようにコウの前に滑り込み、無意識に左手を尾に向かい突き出す。


「止まれ!」


 一喝と同時に、獏の全身が戦慄いた。

 振り下ろされかけた尾が中空で止まり、震顫(しんせん)する。


「な、何だ…」

 起き上がろうと顔を上げたコウの目が、不可思議な現象を映した。


 獏の足元に浸っていた濃緑の液体から、黒い靄(もや)が立ち昇り始める。


 それはまさしく地獄の亡者のごとく、無数の黒い触手が獏の足元から這いずりあがり獏の全身へ侵食せんとしていた。


 コウからは青の背中のみで面持ちをうかがう事はできないが、まるで獏が青に萎縮しているようにさえ、見えるのだ。


 そこへ――


「煉獄鳥!」


 藪をかき分け駆け込んだ声が、唱えを発した。

 瞬時に周辺の空気が沸騰し、肌を焦がすほどの熱が立ち込める。


 獏の頭上に業火の渦が生まれ、不死鳥が羽を広げるが如く瞬く間に膨張した。


「峡谷上士!」

 炎術の使い手はキョウだった。

 透ける清流色の髪が熱風に靡く。


「離れましょう!」

 青が素早くコウの肩に腕を回し、強引に引っ張り上げる。悪化した左足を引きずり、からくも数歩分の距離を後退した。


 直後、キョウは空へ掲げた両手を組み、地に叩きつけるように振り降ろす。術者の動きに応じて煉獄の不死鳥が地上の獏を目掛けて急降下、業火の翼で妖魔を包んだ。


 断末魔も熱風の轟音にまかれて搔き消える。


「っつ…!」

 翻る炎の羽が目の前を掠って火の粉を撒き散らした。


 獏に向かって駆けざまにキョウは転がっているコウの大刀を拾い上げ、振りかぶって地を蹴った。

 煉獄の不死鳥に抱かれて悶える獏の、半分まで折れかかった角の根本を分断、返す刀で獏の首下から全身をしならせて斜めに斬り上げる。


「!」

 炎幕の向こうで、獏の巨影が分断された。


「……キョウ…さん」

 夢現で幻想を見たような錯覚に、青は呆然と呟く。


 それはまるで、妖魔を屠る神獣。


 斬られた首と体が崩れ落ちる間もなく、空へ昇る業火の不死鳥と共に妖魔は塵となって吹きあがった。


 瞬く間に炎は消失し、後には何も残らない。


 ただ、肩に大刀を担いだキョウの後ろ姿だけがそこにあった。


「妖魔を一瞬で……まるであれは…」

 コウの独言が、青にはやけに遠い声に聞こえていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る