ep.13 手紙

 青は独り、闇を走っていた。

 わずかな星明りも月明りもない、完璧な漆黒。

 手を延ばしても触れる物は何もなく、足裏は地を踏みしめる感覚もない。

 前に進んでいるのかも分からない。前後左右の感覚もなくなってきた。

 息を吸えば吸うほどに、闇が頭の中を侵食する。

 なぜ走っているのか理由も分からない。

 立ち止まり後ろを振り返るが、何かが追ってくる様子もない。

 いっそ妖獣であっても、自分以外の気配があってくれた方が気持ちが楽であった。


 青


 声がした。

「師匠…?」

 口から漏れたつぶやきが、闇の静寂の中で耳障りに響く。

「師匠、どこ?」

 水をかき分けるように両手を動かし、辺りを見渡す。

 背中に温度を感じた。

 振り返るとそこに、涼やかな目許の男が立っている。

 出立直前に見た、藍鬼の素顔。

「師匠!」

 柔らかい笑みをたたえた影へ、青は左手を伸ばした。



「待っ…!」

 自分の声で目を覚ました。

 最初に視界に入ったのは、宙へ突き出した己の手、その向こうの白い天井へ徐々に焦点が定まってきた。

「大月君!」

「青!」

「セイ!」

 三人の声が同時に降ってくる。

「え…」

 手を下ろし、首を左へ僅かずつ傾けると、横に並んだ大月先生、つゆり、トウジュの顔があった。

「ここは病院ですよ。大月君、本の下敷きになったって」

 記憶が定まらないような顔の青へ、大月先生が状況を説明してくれた。

 蟲之区の資料室にて躓いた青が書架へぶつかり、落ちてきた重たい図鑑や書籍の下敷きになって気を失ったという。

「その場にいた方たちが医院へ運んで下さって。お医者様のお話では、ケガは無いようだけど、頭を打ったかもしれないので念のため様子を見る事になりました」

 経過観察のための入院措置とのことだ。

 ゆっくりと体を起こして周りを見渡すと、そこは白い壁と天井に囲まれた小さな病室で、青が眠っていた寝台の他は小さな箪笥と机だけの簡素な空間だ。格子柄の硝子窓を秋雨が打ち付けて、トツトツと心地よい拍を刻んでいる。

 病院に運ばれてから丸一日眠っていたようで、学校も欠席となっていた。病院から連絡を受けた霽月院経由で小松先生に報せが行き、心配したトウジュとつゆりを伴って見舞いに来てくれて今に至る。

「それにしても、本につぶされるとか、セイらしいよなー」

 寝台の脇に座るトウジュが、がははと笑う。青が目を覚ました安堵感から、つゆりも「笑いごとじゃないってば」と言いつつ、笑みが零れた。小松先生も二人のやりとりに苦笑している。

「…大月君、どこか痛いですか?」

 二人のやりとりを遠い目で見つめている青の様子へ、大月先生は怪訝な面持ちで顔を近づける。

「う、ううん、ちょっとまだ混乱してて」

 迷惑をかけてごめんなさい。お見舞いに来てくれてありがとう。

 言いたい事があるはずなのに、うまく口に出せずに黙り込むしかなかった。

 俯いて、掛布を握る両手を見つめる。入院着の袖が捲れて左腕の赤黒い模様の端が覗いた。

「!」

 二の腕まで袖を捲り上げると、左腕の内側には赤黒いミミズ腫れのような模様が浮かび上がっている。夢や幻ではなかった。

「ああ、それ、病院の方も不思議がっていましたよ」

 すぐ隣にいるはずの小松先生の声が、やけに遠くに聞こえる。

 青は指先で模様を撫でる。痛みはなく、触れた感触も見た目ほど凹凸はなく、肌組織に模様が浸透しているように見える。

 あるものを開ける鍵。

「その時」がくれば分かる、今がその時。

 その意味は―

「!」

 布団を剥ぎ寝台を飛び降りて、青は壁際の小さな箪笥の上に置かれた自分の鞄を引っ手繰った。

「大月君?」

 どうしたの、と三人の心配そうな様子を背中で感じながらも、青は寝台の上に置いた鞄の中を探る。指先で固く乾いた感触を探り当て引き抜いた。長方形の木片、いつも御守代わりに持ち歩いている、森への血判通行証だ。

「!」

 そこに書かれていたはずの血文字と龍の血判が、消えていた。

 俺が生きている間は使える。

 そう言って藍鬼に渡されたもの。

「そ、そんな…」

 木片を凝視し肩を震わせる青。

「大月君、どうしましたか」

 異変を感じた小松先生は青の両肩に手を添えて呼びかける。トウジュとつゆりも口を噤んだ。

「行かないと、僕」

「え??」

 言うが早いが青は駆けだした。三人の間を抜けて部屋を飛び出し、院内の廊下へ出る。

「大月君!?」

 背後から先生たちの慌てた声。廊下にいた他の入院患者や医療職員たちが足を止めて振り返る。それらを無視して青は廊下を駆け抜けた。

「誰か!その子を止めて下さい!」

 先生の声で我に返った職員が立ちふさがろうとするが、小柄な体を活かして脇をすり抜ける。休憩所のような広い区画に出る。半開きにされた大きな出窓へ飛び上がり、秋雨が降る外へ飛び出した。

「青!」

「どこ行くんだよ!」

 つゆりとトウジュが追いかける。

 窓から飛び出した場所は医院の表玄関だった。来院する患者や医院職員が、二階の窓から飛び出した子どもたちにぎょっと足を止める。

「風神、神足!」

 着地と同時につゆりが風術を発動する。風の力で跳躍したつゆりの体が、一気に青との距離を縮めた。

「どうしたの!止まって!」

 つゆりの手が青の背中に届きかけた、瞬間、

「!」

 秋雨の粒が束となって奔流となりつゆりへ横殴りに降り注いだ。

「きゃっ!」

 つゆりがひるんだ瞬間に風術が消え失速。その横を、トウジュが駆け抜けた。再び雨粒が意思を持ったまるで大蛇のようなうねりを作り出す。

「これ、水術なのか??」

 トウジュは青の背中を見据える。術を唱えた様子もなく、雨がまるで青を護るかのように渦を巻く。

「んなら、全部吹き飛ばす!風神!」

 青の背を追いながらトウジュが術を唱える。青を護るようにうねる水の奔流へ、トウジュが風術で作り出した大蛇がぶつかる。凄まじい飛沫が八方へ霧消した。

「よっしゃ!」

 トウジュの確信はだが直後、目の前に隆起した土壁によって遮られる。

「っうわ!」

 追いついた小松先生ともども、二人は足を止める。

「雷神!」

 渾身の雷術が小松先生から放たれ、土壁を打ち崩す。だが崩れた壁の向こう、すでに青の姿は消えていた。

「っくしょー!」

 トウジュの足が泥を蹴る。

「青…どうしちゃったの…」

 びしょ濡れになったつゆりも二人に追いつく。

「セイのやつ…あんなに術うまかったっけ…?」

 呆然とするトウジュの呟きが、静けさを取り戻した秋雨と共に流れて消えた。



 どこをどう走ったか、青は都の大正門広場まで来ていた。

 晴れの日は白く輝く白い石畳が、今日は秋雨に濡れて灰色に沈んでいる。

 ここは森への転送陣を利用するために、もう何十回と通った場所だ。病院着で濡れ鼠で立ち尽くす子どもの姿は、行き交う人々の奇異な物を見る視線を集めた。

「…どうしよう」

 青は白紙となった通行証を見つめる。転送陣を使わずに森までたどり着ける術を知らない。

「あ、あの…」

 恐る恐ると、青は陣を護る門衛へ声をかけた。

「ああ、いつものボウズか。どうしたそんなびしょ濡れで」

 何度か顔を合わせた事のある門衛だった。事情を説明して頼み込めば通してくれるだろうか。後ろ手に隠していた白紙の通行証を差し出そうとしたとき、

「ん?」

 門衛の後ろの陣が淡く光った。同時に、青の左腕も同色の光に包まれる。正確には、腕に刻まれた模様が発光しているのだ。

「おや。通行証から手形刻印に変えたのか?」

「え?」

「通っていいぞ。村で風呂にでも入れてもらえ」

「あ、ありがとう…!」

 理由はよく分からないが、腕の模様が作用したのは確かだ。礼もそこそこに、青は陣へ飛び込んだ。

 雨のせいか、陣守の村の人出は少ない。いつもならば「飯食ってけ」「おやつはいるか」と四方八方から声がかかるが、今日は雨が幸いした。駐屯兵の数も少ない。それでも誰かに声をかけられては面倒だと、裏口から村を抜け出し森へ入る。

 いつもの道をひた駆けて、小屋へたどり着いた。

 小屋を隠す幻影術を解いて中へ入り、後ろ手で引き戸を閉めた。

 誰もいない室内。

 ここに藍鬼がいれば「来たのか」と奥の部屋から声がかかるのに。

「はぁ…はぁ…」

 息を整え、土間で体の水を落とす。犬のように頭を振ると四方八方へ盛大に滴が飛び散った。土間の瓶に貯めてある水で足の泥を落とし、手拭いで水気をとって居間へ上がる。

 考えなしにここまで駆けてきたものの、少し冷静になってみれば何をすれば良いのか分からない。

「…何の鍵なの、師匠…」

 腕に刻まれた模様を見つめる。雨に濡れて冷たくなり、肌色は血の気を失っていた。

「…くしゅっ」

 小さいクシャミ。

 少し埃っぽい臭いに気づく。

 空気を通そうと、居間の格子窓を少し開けた。それから奥部屋へ続く扉を開く。

 と、無人のはずの室内に、淡く輝く光源が見えた。

「?」

 首だけ出して中を覗く。光の元は、壁際の文机の上に置かれた箱だった。

 工芸品の箱の表面を飾る蒔絵と螺鈿の細工が、模様に沿って光を帯びているのだ。

 それに呼応するように、腕の模様も同じ色に光る。

「何かを開ける鍵」

 結論にいたる前に体が動いた。箱を部屋から持ち出し、居間の真ん中、窓から入る光の中に置く。箱と向き合う形で、青もかしこまって腰をおろした。

 箱の表面には一枚の符が貼られていた。「封」と藍鬼の筆跡で書かれている。蓋へ手を伸ばし、螺鈿に指が触れた瞬間に、二つの光は共鳴しあうように白く強烈に発光した。眩しさに目を閉じて、恐る恐る開くと光はおさまり、符は消えていた。両手の指先を箱に添えると、何の抵抗もなく蓋は開いた。

 中身はごく簡素なものだった。

 まず目に入ったのは一番上に置かれた、七つ折の書状が一通。

 その下に、木札や革袋、布袋等が重ねられている。

「手紙…かな」

 手が濡れていない事を確認して、青は一番上の書状を手に取った。

 不思議なほどに、心は凪いでいる。

 紙を開く音が、外からの雨音に重なった。


  ―大月青 殿


「何だよそれ」

 書き出しの堅さに思わず青は苦笑を零す。

 手紙の本文は、詫びる言葉から始まった。


  ―まず、凪へ戻る事ができなかった俺の不甲斐なさを詫びる

  ―多くを語れないままである事を、許してくれ


「何…」

 それは青にとって、師自らの死亡宣告に他ならない。

 通行証の血文字や血判が消えた時点で覚悟はしていたが、糸一本で繋がっていた僅かな望みが断たれてしまった。

 手紙は、懇願と悔いる言葉へと変わる。


  ―誰を恨むことなく生きてほしい

  ―全ては俺が自分で決めたことで

  ―生きて帰る事ができなかったのは、俺の力不足でしかない


「……」

 青の目は黙々と、手紙の文字を追った。


  ―聡いお前の事だ、俺が置かれた状況に気づいている事であろう

  ―お前には、俺と同じ轍を踏まないで欲しいと願う


「え……」

 手紙を持つ青の手が、強張る。

 くしゃりと紙が縒れる音がした。 

 

  ―今後はハクロを頼るといい。ハクロは善き人間だ

  ―奴は必ず生きて凪へ戻す

  ―必ずお前の力になりえる男だ


「何…だよ、それ…」

 指先が意思に反して震え始める。

 手紙の後半は、作業小屋および小屋内のあらゆる道具、素材、薬品、資料を青に譲渡する旨について、事務的な事項が続く。また、長が未成年後見人となる承諾を得ている事も明記されていた。

 最初からこうなる事が分かっていて、全ての準備を終えていたのだ。

 これは、遺書なのだ。


  ―最後に


 長々と事務的な話が続いた後に、遺書は短い言葉で締めくくられた。


  ―青 お前と出会えた事に、感謝している

  ―藍鬼


「何…何だよそれ…」

 青は遺書を箱の上へ投げつける。感情にまかせて破ってしまいそうだった。

「何だよそれ何だよそれ!」

 他に言葉が思い浮かばず、ただ疑問を繰り返した。

 問いただしたい事が山程ある。

 その相手はもう、いない。

「はっ…、はぁ…、っく」

 青はその場に倒れ込んで体を丸めた。

「師匠…ぉ」

 涙まじりの吐息は、強さを増す秋雨の音に掻き消されていった。



 それから三日、青は霽月院に戻らず、学校にも姿を現さなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る