ep.11 祈り(3)

「俺はここでもう少し話がある」と青を先に帰らせ、藍鬼は執務机の長へ向き直った。


 背後の扉の向こうから「蟲之手形!? 大月君すごいです!」と女教師の驚く声。廊下でのやりとりが目に見えるようによく聞こえてくる。扉の前の門衛も失笑していた。


 次第に教師と生徒の楽しそうな会話が、昇降機方面へ遠ざかっていく。


 声が完全に消えたのを背中で確認してから、藍鬼は改めて長へ口を開いた。


「蟲之手形の手配、感謝する」

「なに。誰が見ても文句がない成績だ」


 長の指が、執務机上の資料の束を徒に捲る。


「君だってそのために大突貫で一級を取らせたんだろう。四種も取ってくるとはさすがに私も驚いたが」

「俺もだ」

 黒い仮面と長の視線がかち合い、両者同時に苦笑を漏らす。


「君もよく入り浸っていたっけ」

 仮面を見上げる長の瞳に、追憶の靄が揺蕩った。


「確かに」

 向き合う黒い仮面の下から、笑み声が零れる。


「あそこは楽しかった。稀覯資料や、珍しい道具に素材…それに、必ずあいつにとって良き師や友との出逢いもあるだろう」

「……」


 執務机の主が口を噤んだ様子に、


「俺が教えられる範囲にも限界がある、という意味だ」

 藍鬼は少しばかりの後ろめたさを乗せ、言い添える。


「……君が禍地(かじ)と出逢ったのも、あそこだったね」

「……」


 今度は藍鬼が声を飲み込む。

 両者の間でしばしの沈黙が降りてきて、


「なあ」

 長の声がそれを破った。

「君、本当は……」


 語尾を遮るように、仮面が首を横に振る。

「俺のケジメでもある。もう決めたことだ」



 二日後。


 明けの六つの刻より少し前。

 青は森の小屋へ向けて小道を足早に進んだ。


 晩春の埃っぽさを洗い流す梅雨が明け、森は夏日を呼ぶ朝雲に霞んでいる。肌に纏わりつく湿気を振り切るように、青は藪をかきわけた。


 藍鬼と修行の約束をした日の朝も、こうして青は森を駆けていた。今日は何を教えてくれるのだろうという、期待と高揚だけに満ちた時間。


「あ、もう来てる!」


 小道が途切れ、木々の向こうに小屋が見えてきた。その前に人影が確認できて、青の足は速まる。


「師……」

 師匠、と呼びかけながら藪を抜け出したと同時に、青の足が止まる。


「あれ……?」

 小屋の前には、藍鬼を含めて三人の人影がいた。


 藍鬼、ハクロ、ホタルの三人。


 いずれも薄青色の、脛までを覆う外套を身に着け、それぞれ荷を背負っていた。

 旅装束の様相だ。


「青、来たか」

 気配で既に察していたであろう藍鬼が、青の姿を見止めて片手を上げる。


「師匠…? どうしたの、そのカッコ…ハクロさん、ホタルさんも」

 恐る恐る一歩ずつ、青は小屋の前で待つ藍鬼の元へ、足を進めた。

 藍鬼から数歩引いた場所で、ハクロとホタルは直立して静かに待っている。


「長い任務に出る事になった」

「……」


 青は頷かなかった。

 口を噤む弟子の前に、師は両膝をついて目線を合わせた。


「任務……どれくらい?」

「わからない」

 仮面はまっすぐ青を見つめていた。


 至近距離からよく見れば、鬼豹の眼の部分には切り込みがあり、その向こうから瞬きする瞳が見え隠れしている。


「手を」


 ふと、その瞳が伏せられる。藍鬼の手が青の左腕をとった。半袖から露出した腕の内側を上向かせる。青はただただ、何が行われようとしているのかを見つめるしかない。


「少しだけガマンだ」

 藍鬼は腰の道具袋から符を一枚取り出すと、青の細い腕に貼り付けた。その上へ手のひらを押し当て、


「印刻」


 短い唱えを口にする。途端、符が赤く発光した。


「あつっ!」

 刺すような痛み。反射的に引こうとした腕は藍鬼に強く掴まれ逃げられない。皮膚を焦げ付かせ、肉を刻むような生理的恐怖を覚える音と共に符は白煙を上げた。


「痛、痛い! ししょ……!」

 体をよじらせ、涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにする弟子の腕を、師はそれでも離さず押さえ込む。背後のハクロやホタルは微動だにせずその様子を見下ろしているだけ。


 一瞬の事が、青には長く感じられた。


 よし、という仮面の奥からの呟きと共に、腕が解放される。煙は消え失せ、痛みも嘘のように治まった。


「あ、あれ」

 あまりの痛みに吐き気さえ感じていたが、それもケロリと退いた。


 青の左腕の内側に、赤黒い模様が刻まれていた。ミミズ腫れのように浮き上がっていた模様が、見る見る血色を失くしてほぼ肌色と同化する。


「消えちゃった?」

 指先で撫でてみるが、傷がついた感触も無い。


「お前の腕に、鍵を刻印した」

「鍵?」

「あるものを開ける鍵だ」

「何を開けるの?」


 それが藍鬼からの贈り物、という事なのだろうか。


「その時が来たら、分かる」

 藍鬼の指先が、青の目許の涙と汗を拭った。


「……師匠?」

 そんな事をされたのは初めてだった。


 修行中に転んでも尻もちをついても、師は絶対に手を差し伸べる事はなかった。 


 その時とは、いつなのか。

 これではまるで――


「課題」

「ん?」

「次の課題は何? 師匠が戻ってくるまでに、タッセイするから!」

「……」


 繋げ止めたい、その一心で口から出た言葉。

 仮面の向こうで、瞳が揺れた気がした。


「課題は自分で探すものだ。お前はもう、それができる」


 藍鬼の両手が、青の肩へ置かれる。

 ズシリと重たい。

 手甲越しに温度が伝わってきた。


「小屋は自由に使っていい。時々は掃除でもしておいてくれ」

「ふはっ」


 何だそれー、と青が思わず笑いを零すと、仮面の向こうで瞳が細められた。


 藍鬼の両手が、青の肩から離れる。


「師匠」

 立ち上がりかけて片膝になる藍鬼へ、

「ご武運を」

 青はつゆりから習った「祈り」を手向けた。


「……」


 仮面はしばらく、真っ直ぐに青を見つめて動かない。

 ざわりと森から吹く湿った風が通り過ぎた。

 仮面の奥から小さな吐息が聞こえた。


 藍鬼の指が仮面の端を掴み、押し上げる。

 涼やかな目許をした男の顔が、そこにあった。


「え!?」

 青は口を開け、


「一師……?!」

 背後のハクロとホタルが初めて反応を見せる。妖鳥の面と白頭巾が顔を見合わせていた。


「行ってくる」

 柔らかい色が灯った色素の薄い瞳が、優しく細められる。


「……」

 青が返事をする前に藍鬼は再び仮面を下ろし、立ち上がった。


「待たせた」

 外套の裾を翻して青から背を向け、ハクロとホタルへ目配せする。


 戸惑いを見せたものの、気を取り直した両名は頷きを返す。

 朝を告げる森の鳥が一声を発した。


 一陣の風と共に、三人の姿はその場から消える。


 西の方角に向けて森の木々が波打ち、揺れていた。


「師匠……」


 朝霧が晴れるまで、青は森を見上げて立ち尽くした。

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