白狐の花嫁 ~治癒の令嬢は白狐憑きの貴公子に溺愛される~

佐倉ロゼ

第1話:日陰者

六花りっか! 早く食べなさい!」


 叔母の夏恵なつえ叱咤しったに、六花は怯えたように体をすくめた。


「は、はい……!」


 いつものように急いで朝食をかきこむ。

 少量の麦飯に具のない味噌汁、漬物という粗末な朝食はあっという間に薄い腹に消えた。


 十七歳の六花にとってはようやく空腹を満たす程度の食事だ。

 だが、仕方がない。

 叔母の家の居候いそうろうなのだから。


 食べ終えた食器を手早く洗う。

 水仕事でガサガサになった手が痛むのをこらえ、六花はほうきを手に取った。

 言いつけられている家の掃除をするためだ。


 世話になっている叔母の夏恵は、里長さとおさである倉品くらしな家へ嫁入りしていた。


 地主でもある倉品家の敷地は広く、二階建ての屋敷は二十部屋以上ある。

 使用人も大勢いるが、夏恵はいつも六花に細々こまごまと家事を課す。


 ――おまえみたいな日陰者ひかげもの、働き者でなくては嫁にもらってくれる人もいないだろうからね!


 庭の掃き掃除、窓掃除、廊下のぞうきん掛けなど、数人で手分けしても何時間もかかる。

 昼前にようやく掃除を終えた六花は、裏庭の片隅に立てられた離れへと向かった。


 ――ここがあんたの部屋だよ。


 母を亡くし、孤児となった六花に叔母である夏恵が与えたのは、離れとは名ばかりの粗末な小屋だった。

 ほつれた着物の袖を気にしながらとぼとぼと歩く六花に、夏恵が足早に近づいてきた。


「六花! 仕事だよ! 亮介りょうすけ様が治癒ちゆ呪符じゅふをご所望しょもうだそうよ!」

「えっ……昨日届けたばかりですが……」

「傷が痛むんですって! おまえは言われたことをやればいいの!」

「は、はい……」


 呪符作りは気力と集中力を要する作業だ。

 格別呪力が高いわけではない六花にとって、一枚作ると動くのも億劫おっくうになるほど負担がかかる。


「まったく……もっとシャキシャキ働けないのかしら。日陰者のおまえを引き取ってやったっていうのに!」

「……」


 吐き捨てるような夏恵の言葉に、六花はうなだれるしかなかった。

 日陰者――その言葉が容赦なく突き刺さる。


 六花の母である竜胆りんどう――夏恵の姉――は、里で一番優秀な令嬢だったという。


 推薦を受けて皇都こうとの第一女学校へと進学し、卒業後はぜひにとわれて名のある貴族の屋敷で家庭教師をしていた。


 だが、竜胆の輝かしい経歴もここまでだった。

 22歳のとき、竜胆は突然赤ん坊を抱いて帰ってきた。

 もちろん、結婚などしていない。


 子爵ししゃくとはいえ爵位持ちの令嬢の驚くべき行状に、里は騒然となった。

 だが、どんなになじられても竜胆は決して父親の名を言わなかった。


 子爵家の娘というのに口にもできないような男の子どもをはらんで産んだ女として、竜胆は爪弾つまはじきにあった。

 竜胆は口答えすることなく、一心に娘である六花を育てた。


 幸い、竜胆には皇都でおさめた学があった。

 もちまえの薬学の知識で治癒師として家計を支えていたが、無理がたたったのか竜胆は35歳で病死し、六花は13歳にしてひとりぼっちとなった。

 そして、叔母の夏恵のもとに引き取られることとなったのだ。


 だが、父なし子の日陰者である六花に対する風当たりは強かった。

 子爵家の血を引く娘とはいえ、母は実家から縁を切られており、誰も守ってくれる人などいない。

 自然とうつむいて暮らすようになった。


「呪符を作らなきゃ……」


 離れに入った六花りっかは、文机ふづくえの上に呪符と墨を取り出した。

 呪符作りは、六花の唯一の収入源だ。

 報酬の半分以上を叔母たちに取られるものの、最低限の生活用品を得ることができる大事なすべだ。


 六花の使う呪術はいわゆる『で物』を応用したものだ。

 撫で物とは紙で作られた符を患部に当てて、邪気や病魔を祓う術だ。


 いわゆる医術の治療との違いは、痛みがなく呪術という性質上、あらゆる傷や疾病に対応が可能ということだ。

 特に妖魔に関する傷病は、圧倒的に呪術の治癒が効く。


 一見、便利で万能に思えるが、確実な効果を上げられる術師は極端に少ない。

 そもそも呪力を持つ人間が少ないうえ、治癒に落とし込むには鍛錬たんれんと技術が必要だ。

 おまじないに毛が生えた程度の治癒師が大半で、六花の治癒もその程度である。


「ふう……」


 六花は長い黒髪を後ろで縛り、軽く息を吐いて雑念を払った。

 毛筆に墨をつけ、用意した呪符にすっと筆を置く。


(まずは名前……そして年齢)


 朝倉あさくら亮介りょうすけ、二十二歳、と丁寧に書いていく。

 呪符を書くときには、渡す相手のことをできるだけ詳細に想起することが肝要かんようだ。


 ――我願治癒傷病也。

 呪符に願いを書きつける。


 亮介は三年前、森で狩りをしているときに妖魔に襲われた。

 風の刃を使う妖魔で、おそらく鎌鼬かまいたちだろう。

 亮介は命からがら逃げたものの、背に深い傷を負ってしまった。


 傷はなんとかふさがったもののじくじくと痛むらしく、治癒の呪符を定期的に求められている。

 呪力を筆にのせて、書き上げるとどっと疲労が込み上げてきた。


「できた……」


 これほどの集中をして作っても、六花の呪符にさほどの効果はない。

 ほんの少し、痛みがやわらぐ程度だ。

 それでも治癒の術師は田舎では珍しく、六花の呪符を求める者は少なくない。


(この力がなかったら、私、どうなっていたか……)


 わずかだが呪力があった六花は、母にせがんで呪符作りを習得した。

 皇都で様々な学問に触れた母は、呪力こそないものの符作りの知識があったのだ。


 六花が呪符を作ることを快く思っていないのは感じ取れたが、母の薬師くすしの仕事だけでは食べていくのがやっとだった。

 家計を助けるために始めた呪符作りが今、六花を生かしている。


「お母さん……」


 しん、と静まり返った離れに一人でいると、孤独が身に染みる。

 呪符を手にした六花の目から、涙がぽろりとこぼれ落ちた。


 亡き母はとても六花を愛してくれた。

 まるで父の不在を埋めるかのように。


 すっきりした一重まぶたの控え目な顔立ちの母と、目が大きくくっきりした顔立ちの六花は似ていなかった。

 そのため、六花は自分の顔に父の面影おもかげを見る。

 だが、一度も会いに来ず、便たよりも寄越さない父を頼るつもりはなかった。

 そもそも生死すらわからない。


(私の家族はお母さんだけ……)

(でも、もういない……)


 母を亡くしてもう四年になる。

 だが、寂寥感はつのるばかりで、胸にぽっかり穴がいたままだ。

 呪符をそっと布で包み、六花は小屋を出た。

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