昔物語ーナギー

 これは、天埜凪が依代になる前、伊邪那岐命と出会った時のお話。




 諦めることを強いられた。諦めることしかできなかった。それしか、選択肢はなかった。

 一つ、また一つ、日がすぎるのと同時に、蝋燭の火が消えていく。その「ひ」を無駄にしたくないのに、何も出来ずに消えていく。

 それを何度も繰り返して、二ヶ月がすぎた頃にはもう、疲れてしまっていた。

 同じ天井を何度見ただろう。どれだけの時間見ただろう。徐々に身体をうまく動かせなくなった。唯一の楽しみだった散歩も出来なくなった。今の楽しみは、窓から外を眺めることだけ。咲いた花を数え、散った葉を数え、枝に積もる雪を数え。


「あと一ヶ月、か……」


 凪は感情を失った目で、落葉の軌道を追う。視界は色彩を感じず、全てがモノクロに見えるほど、眺め続けた景色。

 あと一ヶ月、という月日を考えただけでも、もはや長く感じる。

 十五年しか生きずに、しかし何度も希望を打ち砕かれて。

 きっと、十六年目はやってこないんだろうな、などと感傷に浸る。

 いっそのこと、早く終わってしまえばいいのに。

 その時だった。目の前に突然現れた、暖かな光。それから声が聞こえた。


『諦めている少年よ、お前は次の依代に選ばれた』


「……はい?」


 ありえない光景に、思わず目を擦り、耳を弄り、何度も目を瞬かせる。


『我が名は伊邪那岐命。その身体、我に貸す気はないか?』


 凪は思わず黙り込んだ。これは何かのトリックだろうか。


『ふむ。この姿ではやはり警戒されるか』


 言葉が聞こえた刹那、光は苛烈に輝き始めた。


「この姿ならどうだ」


 目の前には男が立っていた。みずら結の髪に、真白な布の服は古代の物。首には管玉と勾玉の飾りを身につけている。

 明らかに、人間ではない。


「えっと……イザナギノミコトって、日本神話の……」


「いかにも。私は国の父。神の父である。我を納めるだけの素質が、お前にはあるのだ」


「僕に……?」


 でも、素質はあっても、身体は。


「案ずるな。器があれば十分だ」


 そっか。良かった。……良かった。


「……良いですよ。どうせ、もう直ぐ死んじゃうから、僕の身体で良ければ、好きに使ってください」


 凪は淡く微笑んだ。伊邪那岐は表情ひとつ変えずに、真っ直ぐ凪を見つめる。


「まだ頑是ない子供よ。夢はあるか。希望はあるか。その陽の想いは私の力となる」


 夢、希望。そんなもの、とっくの昔に捨ててしまった。

 握った手に、僅かに力が入る。


「ごめんなさい。無……」


「あるだろう?」


 凪が息を呑む。伊邪那岐は相変わらず淡々と続ける。


「お前の溢れんばかりの望みに、我は呼ばれたのだ。夢の一つや二つ、希望の一つや二つは持っているだろう?」


 何もかも、見透かされていたのか。

 神だからかな、と凪は思う。

 ああでも、夢に、望みに想いを馳せてしまったら、きっと。


「言ってみろ。ここには我しかいない」


 思い出してしまったら、きっと。


「思い出せ、まだ幼き少年」


 凪は、身の内から溢れそうになる何かを必死に堰き止めようとする。しかし、少しずつ、少しずつ、零れ落ちる。


「……た、い……」


 叶わないことだと知ってしまったから、その想いだけは、望みだけは、奥底に封じ込めていたはずなのに。

 堪えきれない。

 布団を握りしめる手の甲を、大粒の真珠のような雫が濡らした。


「まだ……生きていたい……!」


 振り絞った声に、伊邪那岐命が僅かに瞠目した。


「それが、お前の望みか」


 凪はこくりと頷く。

 どうしよう、止まらない。溢れないようにと思うほどに、夢が、望みが湧いてくる。

 本当は、また散歩がしたかった。いつか旅行にも行ってみたかった。いろんなところに行きたかった。いろんなものに触りたかった。いろんなものを食べたかった。いろんなものを見聞きしたかった。遊びたかった。友達が欲しかった。

 叶うことのない夢。それに恋焦がれて、前を向いてなんとか生きようとした。現実は残酷だったけれど。


「生きたいと言ったな?」


 伊邪那岐命が問う。凪はまた一つ頷いた。


「死にたくない、というのではなく、生きたいと」


 伊邪那岐命は、そっと凪の頭に手を乗せる。


「些細な違いだが、死の拒絶ではなく、生の冀求をお前は口にした。……慈悲だ。お前の望みを叶えてやろう」


 凪は顔をあげる。眉ひとつ動かさなかった伊邪那岐命が、うっすらと微笑を浮かべた。それは、父親のような慈愛に満ちている。


「本来ならば、依代になる者の人格は封じ込められ、人としてではなく神の物として死を迎えることとなるが……今回ばかりは特別だ。私は必要な時にだけ、顔を出そう。普段はお前が思うままに、望むままに行動するとよい。代わりに、我にも外の世界を見せるのだ」


 わしわしと、凪の頭を撫でる。


「良いの……?僕だけが、そんな……」


「良い。我の器に選ばれたのだ。それくらいの優遇は許される。それに……我は生を司る神でもある故、な」


 伊邪那岐命の瞳は凪いだ海のように穏やかで、温かい。

 凪は、ぽろぽろと涙を溢しながらその温もりを噛み締める。諦めていた想いを、もう一度掴むチャンスが訪れた。

 うまく動かないこの身体が、また自由に駆けることができるようになる。

 じわり、じわりと奪われる日々は終わるのだ。


「……っ、ありがとう、ございます……」


 その後、天埜凪は正式に依代となった。








ーーそれから約十年の月日が流れ、今に至る。


「ところで。ちょっと気になってたんですけど、産屋って建てないんですか?」


 伊邪那岐命といえば、毎日千人殺すという伊邪那美命に対して、千五百もの産屋を建てると対抗したことで有名だ。

 伊邪那岐命は、一つ嘆息した。


『天敵などという概念からもはや遠のいてしまったからな、人間は。それどころか、我の国は、そも、産まない人間、粗末にする人間などが増え、結局次代が少なくなっているではないか。使われもしない産屋を建てる為に労力を消費するより、子孫繁栄の生物としての意識を再度植え付けることの方がよほど効果がある』


「でも、子育て環境がーとか嘆いてますよ、国民は」


『それは人間の問題であろう?わざわざ神が出向いてやるほどの問題ではない。自分達でなんとかしろ』


 神様は辛辣だなあ、と凪が独りごつ。書類を整理しながら次の仕事を確認する。


『お前は何故この仕事を選んだのだ?』


「うーん、やっぱり誰かを幸せにする仕事がいいなーって思って」


 専門学校まで通い、メンズコーディネーターになった理由だ。


「僕は命を永らえさせて貰ってるから、仕事くらいは自分のためっていうよりは、誰かのお手伝いがしたかったから……。幸せそうな人を見るの、好きだし」


『……お前は本当にお人好しだな』


 凪くーん、と奥から先輩社員が凪を呼ぶ。元気よく返事をして、凪は仕事に戻った。


『……ふ、あの時の選択は、正しかったようだ』


 伊邪那岐命はどこか楽しそうに、今日も凪を見守っている。

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美まくほし岐ー神代の頃から夫と仲直りが出来ていない件ー 胡蝶飛鳥 @kotyou_asuka1231

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