2、修道院の成り立ちについて①

 本格的に修道院が成立した4世紀は、禁欲思想が地中海地域を席巻していました。


 前ページで紹介したアウグスティヌスは、マニ教という宗教に一時期ハマっていたのですが、このマニ教は厳格な禁欲主義をとる宗教でした。

 また、キリスト教徒に厳しい政策を採ったため、「背教者」と呼ばれたユリアヌス帝も禁欲思想の持ち主で、生涯妻としか関係しなかったと、周囲から褒められています。たぶん、ユリアヌス自身、政略上の都合から婚姻+子作りしただけで、皇族でなければ結婚せず、自らの信条にしたがってDTを貫いたものと思われます。

 古代ローマの前期はカエサルが元老院議員の妻の三分の一を寝とった(当時の元老院議員の定数は六〇〇なので二百人の女性と関係したことに……、カエサル、マジ? 元気になるお薬飲んでたのか?)とか、初代皇帝アウグストゥス(超絶美貌)が美人の妊婦・リウィアに惚れて政敵の妻だった彼女を寝とったとか、三代皇帝カリギュラは妹たちと関係があった……などなど性的にけしからん話をよく聞きますが、後期ローマは皇帝に真面目な人が多く、当時の禁欲主義の広がりを感じます。


 そういう時代背景もあり、キリスト教にも禁欲の波がきます。キリスト教自身もユダヤ教のうち、禁欲的なエッセネ派と親和性が高かったことから、すぐに禁欲主義を受け入れました。

 聖書にも、財産を手放したり、隠棲したり、禁欲生活を送ることを是とする文言が、「コリント人の信徒への手紙」を中心に「マタイ福音書」にもちょろりと記されています。


 なぜローマが禁欲の波に染まってしまったのか、これは佐藤彰一先生の『禁欲のヨーロッパ』にヒントが書いてありましたので、いずれ。


 禁欲の波が人々を襲う中、ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認します。それによって、キリスト教は迫害を受けることがなくなり、以前のように虐殺されることもなく、残虐な殺され方をする必要もなく、信仰を隠して生きることもしなくてよくなりました。

 しかし、長い迫害の歴史の中で、キリスト教徒たちは迫害こそが信仰の証明となっていたのだそうです。けれどももう、信仰の証明を死によって立てる必要は無くなります。


 そこで、禁欲生活を送り、隠棲し、ひたすら祈ることが、信仰の証明となっていきました。ちょうど4世紀ごろから、そういった人たちが増えてきます。


 というわけで次回は修道院の成り立ちに欠くべからざる人材の働きをメモできたらと思います。

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