KAC20246 とりあえずの人生
とりあえず、で産まれたのが僕だ。
両親は、よく周りの目を気にする人だった。お見合いで結婚し、周りに急かされるがままに僕を産んだ。男が産まれたことを大層喜んだらしい両親は、僕を「立派な人」に育てることを次の目標にした。
とりあえず小中学校受験。両親は僕を賢い人間に育てるために、金も時間も惜しまなかった。物心がついたと思ったら、まずは数字の概念を教え込んだ。子どもの発達段階なんぞ無視して、熱心に熱心に、教え込んだ。
「勉強はね、楽しいことなのよ」
それが母親の口癖だった。両親もまた両隣で勉強をするものだから、それが当たり前で、嫌だと思ったこともなかった。
「とりあえず、生徒会長を目指しなさい」
小中ともに、そう言われた。成績も学年で一番、両親に教え込まれた人柄も理想的なものだった。僕は、両親に反発することなど考えもせずに生きた。絶対的に正しいことだと信じてきた。僕は、言われた通り生徒会長を務めあげた。
「とりあえず東大を目指しなさい」
東大で出会った両親は、これまたそう言った。東大に行けば選択肢が多くなるから、と。
「とりあえず、良い
東大に入ると、今度は両親はそう言った。社会に出てから出会うのは難しいからという理由だった。僕は、学内で一番容姿が綺麗で人柄も良い女性を恋人にした。彼女は僕の申し出を、喜んで受けた。
「とりあえず、官僚を目指しなさい」
官僚になれば将来安泰だからと言われた。それもそうかと納得して、経済産業省特許庁へ入職した。年功序列ではあったが、年数を重ねるごとに給与も増していった。
「とりあえず、そろそろ結婚しなさい」
学生時代から付き合っていた女性と、そのまま結婚した。そうしてまもなく両親に急かされるがまま子どもを設け、十数年の月日が経った。
僕の人生は、順風満帆だ。多分、他の誰もが羨むような人生を送っている。仕事も安泰、麗しい妻に可愛く賢い子どもたち。非の打ちどころのない家庭を築いてきた自負もある。
だが時折、どうしてか正体のわからない不安が胸中を占める。やり場のないそれを、見ないふりして今日も職場へ向かうのだ。
「きゃあ」
どん、と肩に軽い衝撃が来た。が、相手にとってはそうではなかったらしい。僕の肩によって固い大理石の床に尻餅をつくことになったその人に手を差し伸べる。
「すみません。大丈夫ですか?」
「ありがとうございます」
僕の手を取って立ち上がったその人の顔を見て、ぎゅうと胸が締め付けられる思いがした。これだ。僕が長年求めてやまなかった、空虚な胸の穴を埋めるもの!
「大変申し訳ありませんでした。僕は佐野と申します。お怪我があってはいけませんから、とりあえず病院へ行ってください。それと、これは僕の名刺です。何かお金がかかるようなことがあれば、気兼ねなくご連絡ください」
「は、はい。ありがとうございます」
僕があまりに勢いよく話したものだから、女性は驚いたようだった。彼女はぺこりと会釈して、そそくさとエレベーターの方へ向かっていった。
僕はあまりの衝撃に、しばらくそこを動けないままでいた。ああ、もしも彼女から連絡が来たらどうしよう。
初めて感じるそのときめきに、足が浮き立つ。佐野さん、今日少し変ですね。と同僚に言われるほどだった。家に帰ってからは妻にも「あなた、今日少しおかしいわよ」と言われる始末。
それから数日後、メールボックスに知らないアドレスからのメールが入っているのを確認した。迷惑メールではなさそうだ。とりあえず開いてみてみると、送り主の名前は女性の名前だった。花堂美智子さん。全く聞き覚えのない名に首を傾げながら本文を読んで、僕はアッと声をあげた。あの時の女性だ!
『先日は転んだところを助けていただきありがとうございました。あの後、佐野様の仰る通りに病院にかかりました。すると医者から大腿骨頸部骨折だと言われたのです。そこでお願いがあるのです。入院が必要と言われたのですが、私のお給料は母の施設代にあてており、入院費を今すぐに払えるだけのお金がないのです。大変身勝手ではありますが、佐野様のお言葉に甘えて入院費を頂戴したいのです』
なんとしおらしいことだろう。彼女はお礼のメールをくれたどころか、こちらに非があったにもかかわらず、入院費を出してもらうことに申し訳なさを感じているようだ。しかも彼女の母は施設に入っていて、それに給料をあてているだって?なんと親孝行な娘さんなんだ。そういえば、名前も彼女に大変相応しい。花のように美しく知性感じる女性だ。
『佐野です。骨折をさせてしまったこと、深くお詫びいたします。入院費用はもちろん全額お支払いいたしますので、振込先を教えていただけますでしょうか』
そうメールを返せば、すぐにまた返信が来る。
『本当にありがとうございます。このご恩は一生忘れません』
僕はメールの下部にあった口座に、とりあえず五十万円を振り込んだ。もちろん、入院だけでそんなにかかるとは思っていない。しかし彼女は母の施設代も払っている。きっと生活もカツカツに違いない。
『とんでもないです。お金に困ることがあればいつでも頼ってください。入院費にあてた残りは、お母様の施設代にでもあててください』
それから彼女とのメールのやり取りは始まった。日常の些細なこと、仕事のこと、そして施設に入院している母のこと。彼女の生活ぶりを聞くたびに、胸が締め付けられるような思いがして、そのたびにとりあえずのお金を振り込んだ。彼女はいつもいつも謙虚にそれを受け取るのがまたいじらしい。
『今度会ってお話できませんか』
一年の月日が経ち、僕は勇気を出してこの一文を送った。彼女なら、きっと。
『ごめんなさい、それはできません』
彼女から帰ってきたのは僕の心を挫く言葉だった。なぜだ、どうして。あんなに親身に向き合ったというのに、彼女の顔を一度拝むことすら取り合ってもらえないというのか。
僕はそれからも彼女にメールを送り続けた。返事が返ってこないときは、とりあえずの十万円を添えて。
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