異世界でのんびりしたいと言ったけど、どうやらそれは無理そうです

もち

第1章

1 のんびりしたい

 夜道に若い女性が一人、急ぎ足で駅へ向かっている。

 時間はとうに二十二時半を過ぎ、もうじき二十三時になろうとしていた。


「早く家に帰らないと、寝る時間が~!!」


 彼女が住んでいるマンションへ帰るには、電車で三十分以上はかかる。はあ、とため息を吐きながら、夜空を見上げる。

 

 藤山葉子ふじやまようこはごくごく普通の会社員。年は二十代後半、アラサーにさしかかっていた。 

 彼女が務めている会社は日々残業を強いられており、定時で帰ろうとすれば、上司から睨まれることなんて当たり前。有給もなかなか使わせてもらえない。


 葉子は日々、こう思っていた。

 

『有給取ってのんびりどこかで旅行したい! かわいい動物に囲まれて癒されたい!!』


 そして今は――。


(こんな会社、早く辞めてやるわ……!!)

 

 これまで何度思ったことか。


 給料は同い年に比べれば少なかったが、仕事のやりがいも感じているし食堂のご飯もおいしい。

 上司はパワハラ気質だったが、同僚や後輩はいい人たちで人間関係にも恵まれていた。

 今、会社を辞めてしまうと、収入がなくなってしまう。また両親に心配をかけたくなくて、実家に帰ったときは仕事のことを適当にごまかしていた。


「このままじゃだめね。転職する勇気が必要……よね……」


 葉子は独り言ちると、自販機で暖かいミルクティーを買って、駅のベンチに座る。スマホで転職サイトを開くと、目ぼしい求人を見始めた。

 その途端、視界がぐらりと揺れる。


「めまいかしら……」


 次にそのまま後ろに倒れていく感覚があり、彼女は持っていた荷物を落としてしまった。


「ああ……っ」


 落ちた物を拾おうとして気付いた。視界の端に何か光るものが落ちていることに――。


「葉っぱ? 綺麗な色でキラキラしてるわね……」


 ふいにそれを手にした瞬間、先ほどよりめまいがひどくなる。慌ててそれを離したが、今度は真っ逆さまに落ちていく自分自身を、上からぼんやりと眺めていた。


(あれ……? 一体何が起きて……)


 次第に、葉子の目の前は真っ暗になり、やがて何も聞こえてこなくなった――。


「もし……」


(……)


「聞こえますか?」


(……?)


「あのー……」


 先ほどから女性の声がする。

 彼女が起き上がろうとした途端、頭がズキズキと痛んで思わず呻いた。


「うぅ……!」

「先ほど頭を打ったのですね。そのまま横になっていてください」


 葉子は言われたようにすると、声の主は彼女の頭に手をかざし、聞き取れない言葉を呟いた。

 ふわっ、と温かい光に包まれると、頭から痛みが引いて身体も軽くなった。


「あれ? 痛くない……?」


 そのまま起き上がって辺りを見渡す。さっきまで自分は駅にいたはずだが、ここは見覚えのない場所だ。


「うふふ」


 声の方に視線を向けると、そこにはとても綺麗な女性が立っていた。

 色白で髪が長く胸も大きい。手足もすらりとしている。だが、その姿は現実離れしており、葉子は思わず後ずさってしまった。


「怖がらないで、藤山葉子さん」

「どうして私の名前を……?」

「私は女神なので! えへん!」

「は、はあ……?」


 女性の恰好は、やたらファンタジーな雰囲気だった。葉子はその姿を見て、ぼんやりあることを思い出していた。


(ああ、これって。今流行ってる異世界もの……)


 以前、会社の同僚におすすめされたのがライトノベルで、内容は異世界チートものだった。

 葉子はそのとき1巻だけ借りて読んでみたが、いまいち物語に入り込めなかった。同僚は面白いからと次巻以降も貸してくれたが、彼女が断ると残念がっていたことを思い出す。


「さあさあ願いを叶えますよ。何でも言ってください」

「急に言われても……。それにリスクとかあったら怖いですし」

「大丈夫ですよ。私はホワイトなので!」

「女神に、ブラックもホワイトもいるんですか……?」

「ふふふ」


 何かが怪しいが、葉子はせっかくの機会だと思うことにした。何しろこれは夢なのだから。


「世界を救う勇者でも、皆に愛されるお姫様でも何でもござれですよ!」

「私、そういうのいいんです。ただのんびりしたいです。かわいい動物と一緒に……」

「……なるほど」


 女神はそこで言葉を切った。葉子は気になって質問した。


「これは夢ですよね?」

「現実です。葉子さんの魂は今ここにありますが、肉体の方は先ほどあなたの部屋に届けたところです」

「は!?」

「あなたは、遅かれ早かれ過労死する運命なのです。そうなる前に私は、あなたを救いたいと考えています」

「う、嘘でしょ。私がそんな……」

「それと会社は不祥事を起こし、そう遠くない未来に倒産しちゃいます」

「ええーっ!?」


 この女神、未来予知能力でもあるのだろうか?

 葉子は、目の前の女性をまじまじと見た。相手は照れたように微笑んでいる。

 彼女は一見優しそうだが、怒らせるととんでもない災いをもたらせそうな雰囲気があった。


「どうします? あなたは、どちらの道を選びますか」

「私、死にたくない……。のんびりしたい……!」

「それでは私とともに来てください」


 にこりと微笑むと、細くて色白の手を葉子に差し伸べる。


「これまで私はあなたをずっと見ていました。頑張ってきたあなたに、ふさわしい居場所を用意しますね」


 ためらいながら彼女は、その手を取った。


 こうして藤山葉子は女神にいざなわれ、新天地での生活が始まる。

 彼女は希望と不安でいっぱいだった。そして、己を待ち受けている運命をまだ知らない――。

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