第191話 黒鬼ごっこ2




 鬼ごっこ開始から数分。

 ズシン、ズシン、と少しずつ大きくなる地響きを聞きながら、俺たちは崖沿いを仕掛け橋に向かって走り続けた。


 隣を走るティアの動きに、今のところ乱れはない。

 『黎明』で唯一の純後衛であり、他のメンバーと比較して体力面で後れを取りがちな彼女は、意外なことに柔軟やランニングを日頃から頑張っているという。

 本人に理由を聞けばダイエットのためだと言うからその必要性は甚だ疑わしいのだが、そうした努力がこんな場面で役に立つのだから何がどう転ぶかわからないものだ。

 

 そして前を走るエルザも、足の動きは軽やかだ。

 彼女は護身程度に剣を使えると言っていたから、訓練の一環として体力づくりもしていたのかもしれない。

 正直、こんなに動けるとは思っていなかったので少し驚いているし、嬉しい誤算だ。


 しかし――――


「はあっ……!はあっ……!」

「アデーレ!背負うか!?」

「大丈夫っ……!まだ、走れるっ……!」


 やはり、というべきか。

 アデーレの速度が緩やかに落ち始めた。

 オーバンは鍛えているだけあって、この程度のマラソンで疲弊することはなさそうだが、女一人背負ってもこのペースで走れるかというと怪しいところだ。

 

「エルザ!前を向いて走れ!」


 時折、気遣うように背後の様子を振り返るエルザに檄を飛ばすと、エルザは後ろを振り向かなくなった代わりに、走る速度をほんの少し落とした。


 俺は舌打ちをグッと堪える。

 エルザに当たっても仕方がない。

 今はどうすればあのデカブツから逃げおおせることができるか、考えるのが先決だ。


 俺は向かって右手に広がる森を睨みつけた。

 鬱蒼と茂る木々は、その合間を縫って歩く者を拒みはしないが、遠くを見通すことまでは許してくれない。

 巨大な黒鬼の所在は、おおよそ一定間隔で聞こえる地響きが伝えるのみ。

 それにしたって、奴がここにたどり着くまでどの程度の時間が残されているのか、肝心なところは見当もつかない。

  

(追われてることはわかるのに追手の姿が見えないって、ホラー映画じゃありがちなシチュなんだが……!)

 

 次の瞬間にも木々に交じって大鬼の足が見えるかもしれないし、このまま仕掛け橋を渡り切るまで大鬼に接近されることはないかもしれない。

 ただ、こういう状況は追われる者の精神力を大きく削り取る。


 俺はそのことを、身をもって理解した。

 

「おい!橋までもう少しだ!くたばるなよ!」

「わかってる!アデーレ、もう少しだから、頑張れ!」

「……っ、……っ」


 もうそろそろ見えるはずだ。

 そう思って祈るように前方を見つめても、仕掛け橋は中々その姿を見せてくれない。


(くそっ!まだか!)


 川はほぼ真西から真東に流れているといっても、それはあくまで地図上の話。

 実際の川が定規で引いた線のように一直線であるわけもなく、行く道は蛇行に蛇行を重ねている。

 どうやら、俺たちが走破しなければならない道のりは、思った以上に長いようだ。


「きゃ!?」

「っと!大丈夫か?」

「はい!ありがとうございます、アレンさん!」


 木の根に足をとられて転びそうになったティアを横から支えた。

 道が十分に整備されていない森の中、左手には断崖が口を開けている。

 谷底は川になっているとはいえ落ちればただでは済まないことは明白で、油断は文字どおり命取りだ。


「見えた!もう少しよ!」


 先頭を行くエルザから待望の声が届けられた。

 前方を見やると確かに見覚えのある吊り橋の姿。

 森の奥から聞こえる巨大黒鬼のものと思われる足音はまだ距離があり、俺たちが橋を渡り切る方が絶対に早いと確信した。

 

「ふう、間に合ったか」


 先頭を行くエルザに俺とティアが続き、少し遅れてアデーレを抱えたオーバンも橋を渡り切った。


「アレン、手伝って!ここの杭、真ん中から切り倒して!」

「おう!」


 吊り橋を落とすなら縄を切るのではないのか。

 落とさなくても吊り橋ではあのデカブツの体重を支え切れないのではないか。


 そんな疑問を口にする時間すら惜しい。


 俺はエルザに言われるがまま、彼女が指す一本の杭を横なぎに斬り飛ばした。


「次は!?」

「もういいわ、これで大丈夫」


 エルザが言うや否や、頑丈そうな吊り橋のこちら側半分がバラバラに崩れ落ち、向こう側半分も支えを失って崖下に垂れ下がった。

 こちらとあちらの距離は目測で20メートル以上。

 これであのデカブツがこちらに来る手段はなくなった――――はずだ。

 

「……なあ、この近くに向こうからこっちに渡れそうな場所ってないよな?」


 不安を覚えた俺は、傍らで息を整えているエルザに問う。

 彼女は額の汗を拭いながら笑った。


「ないことはないけど、かなり距離があるから当面の心配いらないわ」

「そうか。ならいいんだ」


 そんな会話の最中――――響く足音は加速度的に大きくなっていき、俺は対岸を注意深く見つめながら自然と身構える。

 ガサゴソと大木が揺れ、最初に見えたのは漆黒の腕。

 鬱蒼と茂る森をかき分けるようにして、ついに大鬼がその巨大な姿を現した。


「なっ……!?」

「そんな……」


 初見となるエルザたちは、そのあまりの巨体に声を失った。

 

 二階建ての家より高いところにある大きな頭。

 足を踏み出すだけ、腕を叩きつけるだけで人間の命を奪う頑丈な体躯。

 鎧や盾が意味をなさない圧倒的な攻撃力は亡き女騎士が証明済み。

 その威容は、二度目の対面である俺ですら思わず後退りしてしまうほどだ。


「…………」


 巨大な黒鬼は、自らと俺たちを分かつ渓谷を静かに見下ろしている。

 無感情な瞳から俺たちへの敵意を感じることはできない。


 ここまで俺たちを追いかけてきた執念は何なのかと疑問に思うほどだ。


「頼むから諦めて帰ってくれよ……」

「シッ!静かにして!」


 ついつい口からこぼれた願望をエルザが咎める。

 

 たしかに、ここで黒鬼を刺激してもいいことはない。

 この橋が渡れなくても、こちら側に来る手段は存在する。

 俺たちと巨大黒鬼を分かつ渓谷もずっと東に下ればいつかは平地になっているはずだし、そこまで行かなくても黒鬼が渡れるくらいに崖の両端が狭くなっている場所があるかもしれない。


 しかし、そうしてまで俺たちを追ってくる理由などないはずだ。

 他の生物に対する攻撃性は多くの妖魔が有する性質として広く知られているが、知能が低めの妖魔が長距離を移動してまで積極的に人里を襲撃することはあまりない。

 例外も妖魔に追われた人間が近くの人里に逃げ込んだときなど、妖魔を誘導するような動きを見せた場合に限られており、一旦逃げ切ってしまえば執拗に追われることはないというのが一般的な認識だ。


(だから、帰れ……!)


 そんな願いが届いたからではないのだろうが。


 しばらくして、大鬼は俺たちに背を向けて森の中へ戻って行った。


「ふう……」


 大鬼は苛立ちをぶつけるように大木をバキバキと圧し折りながら森へと戻って行く。

 来る時よりもゆっくり、しかし確実に、その姿は遠のいていった。

 

「助かったわね……」

「そうだな」


 そう言いながらも、足音が聞こえるうちは安心できない。

 じっとその大きすぎる背中から目を逸らさずにいると、ふと大鬼は振り返った。

 

「…………?」


 何を見ているのか。

 そう、思っていられたのは一瞬だった。


 ドシン、ドシン、ドシン。


 大鬼がこちらに歩いてくる。


 思わず頬が引きつり、腰が引けた。

 あれだけの質量が迫ってくれば恐怖を感じるのは当然だ。

 アレがこちらに来られないという純然たる事実がなければ、冷静さを保つことができたか甚だ疑わしい。


 そんなことを考えていられたのは、そこまでだった。


「は……?」


 大鬼が早足になった。

 

 なぜ、いや、まさか――――

 

「ウソだろ!?あいつ、渓谷を飛び越える気か!!」


 驚愕を抑えきれず、俺は叫んだ。


 もはや疑いようもない。


 大鬼は俺たちを諦めてなどいなかったのだ。

 

「無理よ!!あんな巨体で渓谷を跳び越えられるはずないわ!」


 エルザの悲鳴がどこか懇願のように聞こえた。


 たしかにエルザの言うとおり、この世に存在する何者も物理法則からは逃れられない。


 それは妖魔とて変わらないはず。


 20メートルは、<強化魔法>を全開にした俺が十分に助走して届くかどうかという距離なのだから、あの鈍重な体で跳べるとは到底思えな――――

 

「――――ッ!!ああ、くそっ!!そうか、<強化魔法>か!!!」

 

 残されていたわずかな余裕は、今この瞬間に消し飛んだ。


 思えば、あの質量が普通に歩いていること自体がおかしかったのだ。


 あの巨体が何らかの方法で強化されていることは明らかで、その強化によってこの距離を跳べるだけの身体能力を獲得している可能性は十分にあった。


 俺が動揺している間に大鬼の動きは早足から小走りへと変わり、もう渓谷の目前に迫っている。


「全員、左右に退避しろ!!轢き潰されるぞ!!」


 大鬼との戦闘は避けられない。

 そう判断した俺は大鬼の突進をやり過ごすべく、エルザを小脇に抱えて大鬼の予想進路から素早く避難する。

 オーバンもアデーレを抱えて逆側に逃げ――――しかし、ティアだけはその場から動かなかった。


「ティア!早くこっちに!!!」


 俺の焦燥をよそに、彼女は迫りくる大鬼に向けてワンドを向けた。

 彼女の周囲には攻城兵器と見紛うほどの氷の槍、その数6本。


 巨大な黒鬼が渓谷を越えるために跳躍する。


 それと同時に、彼女は小さく呟いた。


「――――当たって」


 彼女の魔法が、空を切り裂く。

 放たれた氷の槍は吸い込まれるように巨大黒鬼の腹に、胸に、肩に、額にぶち当たる。


 全弾命中。


 そして――――氷の槍はけたたましい音を立てて砕け散った。


「――――ッ!!?」


 ティア渾身の<氷魔法>。

 俺が知る限り、彼女の全力。


 それを以てしても、大鬼の体躯を貫くことはできなかった。


 しかし、俺が驚いたのはそこではない。


 氷の槍が着弾したとき、大鬼の体は宙を舞っていた。


 その巨躯を穿つことこそ叶わなかったティアの必殺。

 だが、大岩を破砕するほどの衝撃と質量は跳躍した大鬼の勢いを削ぎ落し、さらにはその体勢を崩すことに成功していた。

 

 その結果――――


「あっ……」

 

 エルザが小さく声を上げた。


 その視線の先で、大鬼が渓谷に墜ちていく。

 

 漆黒の巨体が空中で溺れるようにもがき、しかし、その両手が何かを掴むことはない。

 

 重力の楔は自らの役目を思い出したかのように大鬼を縛りつけ、深い渓谷の底へと引きずり込んだ。


 そして――――


「――――ッ!!!」


 轟音が響き渡り、大地が揺れる。


 足元から全身に伝わる衝撃は、俺たちを圧倒した大鬼の質量が極大の落下ダメージとなって大鬼の巨躯を打ち据えた証左。 

 

 少し遅れて、黒い煌めきが谷底から吹きあがり、俺たちに降り注ぐ。

 

 それが意味するところはひとつだ。


「ふふっ!依頼完了ですね、アレンさん!」


 全員が呆然と佇む中、ティアだけが眩いばかりの笑みを浮かべていた。



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