第6話 近付く距離
小籠包、水餃子、レバニラ、麻婆豆腐、チャーハン、八宝菜、油淋鶏、どれも出来立てで、ほこほこと湯気が立っていた。
(どれから食べよう……?)
中々判断ができずに目移りをする中、
「羽衣石社長、食べながらで構いませんのでプロジェクトの件についてお話ししてもよろしいでしょうか?」
如月先輩が至極真面目に切り出した。永冶があの時の場の記憶を改竄しても、元々あったプロジェクトの記憶自体は改竄されず、忘れてもいないようだ。
「勿論、構わないよ」
羽衣石社長は頷き、如月先輩の話を促した。
「単刀直入に申しますが、異世界執行プロジェクトは不可能ではないでしょうか? 魔導執行省が何を考えているかは知りませんが、危険だと俺は考えています」
如月先輩は居ずまいを正して言及した。
確かに如月先輩の言う通り危険なプロジェクトだ。根本的におかしい。永冶の話だと魔族会議に出席しなかった魔王は人間の子供と共に暮らしていた、それが理由だったと。子供は拐われた子供の可能性が高いとも言っていた。永冶と関係しているかは分からないが、人間界にきた時の移動手段の記憶が俺にもひかりにも全くなく何も覚えてないことだ。重大な何かを忘れているのは、何か理由があるに違いない。羽衣石社長とは異なるが、永冶は妙に魔王に拘っていた節がある。それに病気、
(永冶はじめは一体、どこの異世界の魔族なんだろうか……?)
気になるもそれは頭の片隅に置いた。折角、羽衣石社長が近くにいるのだ、思ったままの意見を言おう。
「羽衣石社長、俺も危険だと思います」
「メシア君、君もかい。ふむ、困ったね」
だが羽衣石社長はにこにことしていた。
「そうだね、どうするのが一番だろうね」
食い違う意見を否定せず、にこやかに笑った後「先ずは食べてから話し合おう」と言って羽衣石社長自らが食事を始めた。
「そうですね、この場の空気を悪くして申し訳ございません」
如月先輩も食事を始めた。
(そうだ……結局、何を食べよう?)
何を食べるか決めてなかったが、目の前にある甘辛な油淋鶏を箸で取り、それを口にした。
「――!? 何ですかこれ、めちゃくちゃ美味しいじゃないですか!」
こんなに美味しい物が世の中にはあるのかと、今まで食べていた油淋鶏は油淋鶏ではなかったと感激した。
「良かったね」
羽衣石社長は笑っていた。
「オーバーだな……」
如月先輩は苦笑し「そんなに好きなら俺のもやるよ、ほら」と油淋鶏を俺のお皿に載っけてくれた。
「え、いいんですか……?」
「ああ」
「ありがとう御座います!」
「メシア君は美味しそうに食べるね。それなら私のもあげよう」
如月先輩に続いて羽衣石社長までもが油淋鶏を俺の皿に載っけてくれた。
「羽衣石社長、甘やかしてはダメです」
如月先輩が制したが「まぁまぁ、いいじゃない」と笑っている。
和やかな食事会が終わった頃、 改めてプロジェクトについて話し合う場が設けられた。最近まで魔王を抹殺すると宣言していた如月先輩を見遣れば、神妙な面持ちをしていた。
(考えが変わったのかな……?)
そこも気になるところだが、社長が先に口を開いた。
「今回、魔導執行省が提示していることは確かに危険かもしれない……だけどね、それは向こうに、異世界に行けるチャンスがあるということだよ、そしたら魔王に会えるだろう?」
社長の根本は変わってなかった。矢張り魔王に会いたい一心だ。
「社長、もしも魔王を亡き者にしようと考えている者が現れたらどうするおつもりですか?」
それは如月先輩自身に当てはまりそうだが、永冶も同じことを考えているかもしれない。如月先輩は半分本気で半分冗談な気がしたが、永冶は本気かもしれない。永冶の言う執行は魔王を抹殺し、俺がいる異世界をなくすことしか考えていないように感じた。
羽衣石社長は魔王にぞっこんで、なんなら魔王的立場になりたいと考えている。如月先輩は羽衣石社長にぞっこんで、魔王を抹殺したいと思っていたが、その考えは払拭したようだ。
(どうすればいいんだろう……?)
全てを丸く治めるにはどうするのが一番いいのだろうか?
「魔王は簡単には殺されたりはしないんじゃないかな、魔王だもの」
思考する中、如月先輩の問いに羽衣石社長はにこやかに返した。
確かにその通りだ、頂点に君臨する魔王は簡単には殺せない。しかし如月先輩が不可能でも魔導執行省はできるかもしれない。そもそも魔導執行省自体、やっていることが謎で、この件は法から外れた場所で動いていそうだ。
「そうですね」
如月先輩は肯定したのち黙ってしまった。もう話すことがないのか、微妙な空気が漂っていた。
(魔王のことで深刻になるぐらいならいっそ、俺が情報を提示したほうがいいのだろうか? 魔族であることを打ち明けたほうがいいのだろうか……)
だが言えば、羽衣石社長と如月先輩に利用され、板挟み状態になりそうだ。
「メシア君は、何か意見はあるかな?」
不意に社長に訊かれた。意見――あるにはあるが、言えない。
「いえ、ありません……ただ、魔導執行省がやろうとしていることは危険だなって思うぐらいで……何となくですけど」
「そうかい。うん、貴重な意見をありがとう。如月君、メシア君、また良かったら一緒にご飯を食べに行こう」
それから羽衣石社長の運転で会社に戻ることになった。
社内ではプロジェクトは違うイベントの話に移行したが、如月先輩の声は何時もより覇気が無かった。羽衣石社長は再び外回りに出掛けるとのことで途中までお見送りした。如月先輩は一応秘書だが、常に社長の後をついて回る秘書ではないので俺との通常業務に戻った。
(しかし如月先輩って、真面目なんだよなぁ)
粗っぽいが真面目で気遣いがあって、それでいて優しい。そこが良いところで、好きな要素……なのかな。魂が惹かれるのと、愛は似ているような気がした。
(如月先輩の為にも何とかしたい!)
「そうだメシア、午後からはひかりの研究室に行ってくれ。俺はプロジェクトの案件についてもう一回、精査する」
「了解です」
➴➴➴
ひかりの研究所に行けば、ひかりは治験薬作りではなくデスクに座り、何やら必死に本を手繰っていた。その形相が凄まじいので中々声が掛け辛いが、俺の気配に気付いたようで、ひかりと視線が合った。
「メシア君! ちょうど良かった! ちょっときて!」
手招きで呼ばれて向かえば本の頁を見せつけられ「これよ、これ! どう?」と訊かれた。
だが主語がない。主語が無いので『どう?』と訊かれても困る訳で、疑問ながらも本のページを覗けばこのように記載されていた。
・一つ、この先に未来はない。
・一つ、この先に希望はない。
・一つ、この先に思考はない。
たった三行だけだが、書かれていたことが妙に恐ろしい。
「何ですか、これ……? ていうかこれ、何の本なんですか?」
魔導執行省の永冶が意思を持ち、明確に意思を示しているほうがまだ分かりやすかった。だがこの本の頁に記載されていることは意味不明だ。他の頁もこんな感じなのだろうか?
「ふふふふっ、これはね? 魔術書で私達魔族が持っている本来の魔力や本能を全解放する方法よ!」
「なるほど……って、全解放したらやばいじゃないですか!?」
「そうね、でも魔王や私達がいた異世界を魔導執行省がどうにしかしようってなら、黙っておけないわ!」
確かにひかりが言うことは一理あった。しかし魔力や本能の解放をしたらそれこそ人間界が大変なことになるだろう。全魔力解放で本来の魔族的部分の性質が全面的に出てしまえば今度こそ魔王のお叱りレベルでは済まされないだろう。
「ひかりさん、話し合う方法はないんですかね? ……って、ひかりさん、訊いてます?」
俺の投げ掛けに一切反応せず、ひかりは詠唱を始めていた。
(何だろ、とてつもなく嫌な予感がするのは気のせいかな……?)
その嫌な予感は的中した。ひかりが詠唱した言葉は俺に向けられている。
「我はここに解放する名を呼称する――新山メシア!」
やっぱりそうきたかと考える間も無く、俺の中でまた魔族としての本能が疼きだしている気がした。だが幸いにも治験薬と飲まされた時と同じ状態になっているだけで、誰かを殺したいという物騒な気にはなってない。
「さぁメシア君! 先ずはあなたで実験よ! 手始めに魔導執行省の永冶はじめを殺っちゃいなさい!」
「いえ、そんなことはしませんよ……」
「あら変ね……。解放したのに暴れる様子もないし、何時もと変わらないし……メシア君って、特殊な体質なのかしら?」
ひかりが疑問をぶつける中、研究室の扉が開いた。
「クラゲいるか? お前にも手伝って欲しい案件が……」
如月先輩の声だった。如月先輩の声が聞こえただけでぴくりと体が反応し、秒で如月先輩の側に向かっていた。
「どわっ!??」
急接近で現れた俺に如月先輩は驚いていた。魔族としての本能が解放されたからなのか、嗅覚が何時も以上に上回り、如月先輩の匂いが刺激的だ。
「如月先輩、俺、何でもしますよ? 何でも言ってください!」
言葉がつかえることなくすらすらと出ていた。如月先輩は怪訝な表情で見ていたが、それすら発火材になってしまった。変な目付きで見られていることに興奮を覚えた。
(もっと汚い目で見て欲しい……)
本能の解放は俺の性的な部分を大いに刺激していた。
「如月さぁん、俺、何でもするって言ってるじゃないですかぁ」
あろうことか、甘ったるい声で如月先輩に自ら抱きついてしまった。本来ならこんなことはしないのに、何故か今は止められない。
「おい――ひかり、またクラゲに治験薬でも飲ませたのか?」
「ええ、まぁ……うん、そうねぇ? 今後の為にも必要だから、後で実験結果を知らせてちょうだい。私は新しい新薬の研究をするから」
ひかりは俺と如月先輩を部署から押し出して、扉の鍵を閉めてしまった。
「ったく、ひかりの奴……」
「如月さん、早く仕事くらさぁ~い」
段々と呂律が回らなくなってきた。これではまるで、酒を飲んで酩酊しているのと一緒の状態だ。
「これで仕事できんのかよ……?」
「できますからぁ、早く仕事ぉ~」
如月先輩に引っ付いたまま元の部署に戻ってきたが、とてもじゃないが椅子に座れずフロアにへたりこんでしまった。足の力が抜けて上手く立つことができなかった。気持ちはフワフワして心地良いのに、全身脱力して動けない。
「しょうがねぇな」
如月先輩に再び起こされそのままソファに寝かされた。
「とりあえず仕事はいいから、その症状が回復するまで暫くそこで寝てろ、な?」
如月先輩が離れて行ってしまう――咄嗟にスーツの裾を引っ張って止めた。
「おいっ」
「置いていかないで下さい、俺を置いていかないで……」
何でこんなことを口走っているのかが分からない。だが次第に悲しくなって、視界が滲んでいた。
「置いていかれるのが、嫌なんです……」
本能的部分が解放されたからなのか、思い出したのは、母親が俺の元から去ったことだ。
俺の母親は幼い頃にいなくなった。それからずっと一人っきりだった。低級魔族で馴染めず、一人で暫く過ごしていた。心細く感じていた時、部屋の鏡が光った。最初は怖くて何が起こったか分からなかった。勇気を振り絞り覗いて見れば、この世界とは違う世界がそこに映っていた。こことは違う世界は煌びやかで、俺の心を刺激し明るくしてくれた。
鏡越しに映る世界がどういう世界か分からなかった。だが鏡越しに見えた世界のおかげで寂しくはなくなった。鏡越しから映る世界が別世界で、実際にある世界だと知ったのは随分と経ってからのことだった。
ある日、俺がいた世界に見知らぬ者がやってきた。その者は人間だった――誰かに連れてこられたと言っていた……。誰かは思い出せない、だが魔王ではなかった気がした。そこまで思い出すも、魔族で一人ぼっちで過ごしてきた頃の記憶が、悲しい気持ちが沸き起こっていた。
「一人にしないで……」
「分かった、暫くここにいてやるし、この部屋にいる。メシアを一人にはしない、安心して寝ろ」
不意に俺の頭に温かくて大きな手が載った。それから薄いリネンケットを掛けてくれて、背中をさすってくれた。
如月先輩が近くにいる、俺の傍にいてくれる――不思議と落ち着き、そのまま眠ってしまった。夢を見ることはなかったが、次に目覚めた時には室内が暗くなっていた。
➴➴➴
「あれ……?」
ソファから体を起こせば、部屋は暗いがカーテンが開いたままになっていた。カーテンが閉まっていないので、窓から差し込む月の明かりで薄ぼんやりとだが部屋の様子が分かった。
暗いが如月先輩は室内にいた。如月先輩はデスクの上で突っ伏して寝ていた。俺が寝ていたせいで、如月先輩に仕事の全ての負担がいってしまったのだろう。俺はといえば一眠りしたおかげで何とか本能的な感情は治まっていた、体力も思考も元通りだ。
一先ず俺に掛けてくれたリネンケットを突っ伏して寝ている如月先輩に掛けた。如月先輩のデスクに載ったPC端末を見ればデスク処理が途中で終わっていた。PC端末を自分のデスクに置き、それから未処理のデータの入力を開始した。
カタカタと打ち込み三十分、何とか処理は完了した。部屋の明かりを点けようとしたが如月先輩が気持ち良く眠っている。点けるのを躊躇い、起こすのも気がひけた――というより可哀想だ。如月先輩は間違いなく疲れ果てている。
(どうしよう……)
悩んだ末、如月先輩が起きるまで待つことにした。
如月先輩の隣に椅子を置き、如月先輩の寝顔を見てじっと待った――……うん、実に良い眺めである。暗いがアングル的に良い角度だと染々と感じた。
(如月先輩、その角度をどうか保って下さい)
それからスマホを取りだし、連写することに決めた。音を消すアプリをセットしてからスマホを構え、良いアングルの角度で寝ている如月先輩の顔をドアップで画面に収めていく。
(ここだ! いざっ!)
タップしようとしたが、如月先輩がうまい具合に角度を変えてしまった。
「ちょっ、何で!?」
再び良い角度を探し最高の寝顔ショットを収めようと構えたが、今度はリネンケットを被り、顔全体が見えなくなってしまった。なんというタイミングなんだと突っ込むも俺は諦めない。リネンケットをそっと剥がせば先程と同じ角度の如月先輩が見えた。
そう、この角度だ。この角度が欲しかったのだ!
再びカメラを構え、今度は寝返りを打たないように如月先輩の頭にそっと手を添えるようにして押さえつけ、それからタップを押した――……ミッションコンプリート、如月先輩の可愛い寝顔を見事、十連写で収めることができた。
(ありがとう御座います、如月先輩)
スマホを仕舞い、寝ている如月先輩に向けて合掌した直後だった――
「んぁ……? 何してんだぁ、クラゲ……?」
如月先輩はパチリと目を覚ました。
「あ、えっと……おはようございます」
「あ? おはようじゃねぇだろ……真っ暗じゃねぇか――って、やべぇ! 処理!?」
「処理なら終わりましたよ」
PC端末の画面を見せれば、如月先輩はそれをチェックし、
「そうか、ありがとな――つぅかクラゲ、お前、体調はどうなんだよ?」
と訊いてきた。
「もうすっかり良くなりました。迷惑掛けて、すみませんでした……」
その場で深々と頭を下げ、心内でも頭を下げて謝罪した。
俺にとって魔族の本能的部分の解放は幼い頃の嫌な記憶を思い出すだけだった。魔力が解放されるも身体能力が少し高まり、嗅覚が敏感になるぐらいだ。
(如月先輩からはどう映ったのだろう?)
今更ながらだが気になってしまった。本能に抗えず、甘えてしまったことが急激に恥ずかしくなった。
「あの、俺、薬でおかしくなってて……」
「ああ、分かってるよ。気にすんな」
「はい……」
「今日も飯行くか?」
「行きたいです」
「ははっ、素直だな」
それから部屋の電気を点けた。日報を書いて、帰り支度をしてから再び消し、部屋を出ようとした刹那、如月先輩に手首を掴まれた。
「……?」
「そういやクラゲ、寂しいとか言ってたな。食事した後、俺の家に泊まってくか?」
「――!!?」
如月先輩のまさかの申し出に心臓が跳ね上がった。
(如月先輩の家にお泊まり……二人っきり――いやいやいやいや! 何を想像してるんだ、俺は!?)
邪な妄想が思い浮かんでしまいそうになり、慌てて煩悩を消していく。
何を考えているんだ俺は!? 正気に戻れ、俺!
「えっと……」
「遠慮するな、泊まってけ」
「はい……」
結局強引に押しきられ泊まることが決定し、俺の心は浮かれまくっていた。
何という幸せ、今日、死んでもいいかもしれない。いや死なない! 死んだら如月先輩が見れることができなくなってしまう、生きる! なんてことを考えながら如月先輩の行きつけのカフェで食事をした後、そのまま如月先輩の車で如月先輩の家に到着した。
マンションでもアパートでもない洋風の一軒家、グレイッシュな色合いでシックな感じが如月先輩の雰囲気とマッチしていた。
「すご……」
「遠慮なくあがってけ」
「はい、お邪魔します」
如月先輩が玄関の扉を開けると、家には如月先輩の匂いが充満していた。俺の鼻腔を擽り、幸せホルモンが噴出した。靴を脱いで玄関の三和土を上がり、フロアの廊下を歩いていけば洋風の扉が見えた。その取っ手を回せばリビングとキッチンがあった。
「本格的なキッチンがあるんですね」
「ああ、だがあんまり使ってないがな。ほとんど外食ばかりだし」
「なるほど」
如月先輩の行きつけのカフェは美味しい。あそこのカフェがあれば作るよりにも食べに行きたい気持ちになる。
「そうだ、汗かいてるだろう? 先、風呂使っていいぞ。沸かしてやる」
如月先輩はお風呂のスイッチを入れてくれた。甲斐甲斐しく世話をしてくれるので申し訳なくなる。
「ありがとう御座います」
「服は洗濯機に放り込んどけ、明日には乾いてる。あと着替えは引き出しから適当なの着とけ……っつうか、出しとくか」
如月先輩はバスルームに向かった。
(そうだ、服は良いとして、下着まで如月先輩のを借りてしまっていいのか……!?)
如月先輩の下着――! そこで妙な背徳感が沸き起こる。
それから暫くして如月先輩が戻ってきた。如月先輩の手にはビニールのパッケージに入った真新しい上下のスエットと、同じくビニールのパッケージに入った真新しい下着があった。
「これは俺が一度も着てない物だから安心して使え」
「はい……」
そう来ましたか、そう来ますよね……と、俺の心は風船が萎んでいくようにして萎んだ。そんな簡単に如月先輩が着ていた物を着ることなんてできない――そう、人生はそんなに甘くはないのだと。
風呂が沸くと如月先輩に勧められて先に入ることになった。真新しい下着とスエットを着てリビングに戻れば――
「おっ、ちょうど良かったか。それサイズを間違えて買ったやつだからクラゲのサイズなら着れるなと思ってな。良かったぜ」
「そうなんですね」
「おう、じゃあ俺も浴びてくるわ。ソファがあるから適当に座って寛いでりゃいい、テレビのリモコンはそこにある」
如月先輩は説明したのち風呂場に向かった。俺はテレビの前に座ったがテレビを付けて見る気にはなれず考えが巡っていた。
俺の頭の中では羽衣石社長のプロジェクトでもなく、魔導執行省でもなく、どうやって如月先輩の裸を見るか――それだけを必死に考えていた。
(先ずは様子見だ!)
ソファから立ち上がりリビングの扉に移動しそっと開けてみた。するとシャワーの音が廊下に反響して聞こえてきた。間違いなく、如月先輩はシャワーを浴びていた。再び扉を閉めて思考した。
(どうすれば極自然を装い、如月先輩の生まれたままの姿を見ることができるのだろうか?)
俺にとっては壮大なテーマだが、他の視点から見れば実に下らないテーマだろう。
だがこれはチャンスなのだ。必死に思考を巡らし五分が経過した頃、バスルームの扉が開く音がした。
(えっ……?)
まさかのカラスの行水並にお風呂タイムが終了してしまったのだ。
(そんな……)
ショックで心が折れそうだ。それから暫くして廊下を歩く足音がし、リビングの扉が開いた。
「なんだクラゲ、そんなところに突っ立って、どうした?」
「――!?」
目の前にはお風呂上がりの如月先輩、肩にタオルを掛け、黒のボクサーパンツ、いわゆるパン一姿の如月先輩が立っていた。
「神が現れた……」
「はぁ? 神……??」
如月先輩は不可解な視線を俺に寄越して訊いてきた。まさか見れるとは思っていなかった姿に感激したが、バレる訳にはいかない。
「如月先輩、トイレはどこにありますか?」
「なんだ、トイレを探してたのか。トイレならリビングを出て、突き当たりを左に行ったところにあるぞ」
「分かりました」
トイレで誤魔化し、心を落ち着かせてから再びリビングに戻った。
➴➴➴
「クラゲ、何か飲むか? ツマミならあるぞ」
リビングに戻った頃には如月先輩もスエット姿になっていた。一瞬だけだがあの瞬間は忘れまいと心に刻む。如月先輩はワインや日本酒のボトルを取り出すが、
「あ、そういやお前、治験薬でおかしなことになってたし、ノンアルコールの飲み物の方がいいのかぁ……?」
そう呟きワインと日本酒のボトルを引っ込め、代わりに缶ジュースを取り出したが――
「これも微妙にアルコール入ってんな……まぁ強くはないし、問題ないか?」
と独り言ち、如月先輩はグラスと共にツマミをお盆に載せて運んできてくれた。
「これなら飲めるか?」
「はい、問題ありません」
そもそも今回やられたのは薬でも何でもない、魔力や本能解放の魔術を掛けられたのだ。
(そういえば、ひかりさんに報告するのすっかり忘れてるような――まぁ、明日でもいいよね)
恐らく如月先輩も忘れているだろう。大した報告にもならないので明日に回すことにした。
リビングに備え付けられているテーブルの近場のソファに並んで座り、如月先輩と共にグラスに飲み物を注いでいく。注いだのはカシスオレンジでアルコールが微弱に入ってるが、恐らく問題はないはずだ。グラスに口を付け流し込むと柑橘系の爽やかな香りが口の中で広がった。
(うん、美味しい……)
酸味も丁度良く、風呂から出て火照った体を冷やしてくれた。
「如月先輩、このお酒美味しいです」
「そうか、それなら良かった――って、クラゲ、お前の髪の毛、半乾きじゃねーか! 風邪ひくだろが!」と言い、ドライヤーを持ってきて乾かしてくれた。如月先輩の大きな手がわしゃわしゃと俺の頭や髪の毛を行き来していく。
(甲斐甲斐しく、お世話されてしまっている……)
社会人としてどうなのかという話だが、如月先輩にお世話されている今現在の状況に顔の筋肉が次第に緩んでしまった。
(やばい、幸せ過ぎる……)
「なに笑ってんだクラゲ、お前ってなんかアレだな――癒されるわ、色々と」
不意に如月先輩がフッと笑った。それだけで心拍数が上昇してしまう。
「そ、そうですかね?」
髪を乾かしてもらい、お酒を飲みつつ、ツマミを食べつつという時間が続いた。大した会話は無かったが、苦じゃない時間だった。
「しかしそれにしても、今日は疲れたなぁ。中華は旨かったが……」
如月先輩が珍しく愚痴をこぼした。羽衣石社長のランチタイムのことだ。確かに中華は美味しかったが、今後の会社の方針が気になるところだ。
この先、魔導執行省と同じ経営理念に沿って歩んでいくのだろうか――? そこら辺は不明だが、先行きは少し不安だ。
「クラゲ、お前はどうするんだ?」
「えっ」
「まだ若いし、何もこの会社だけじゃない。この企業に骨を埋めなくてもいいって話だ。色々な可能性はあんだろ?」
「俺は……」
そもそも人間界に憧れて人間界に来た。羽衣石化学の理念や仕事内容が今一分からない、ただ淡々とこなす毎日だった。しかし如月先輩に会い、羽衣石社長の理念や思想、会社が抱える問題を知り、見てみぬ振りはできなくなった。特に魔導執行省がやろうとしていることは俺の世界でも、この世界でも今後、悪い意味で影響しそうな案件だ。
「俺、この企業のこともまだよく分かってないし、それに仕事も楽しいので続けていきたいです」
「そうか」
「如月さんは、違うんですか?」
「そりゃお前、この企業にいるに決まってんだろ」
「そうですよね、羽衣石社長もいますしね」
「――そうだな」
何時もなら即答するのに、即答しなかった。矢張りプロジェクトの件があるからだろうか?
「そろそろ寝るか……。そうだ、俺のベッドを好きに使っていいぞ」
「えっ!? いやいやそれは流石にできませんよ! 俺、このリビングの床で寝ますから……」
「床なんかで寝たら体や腰を痛めるし風邪もひくだろ、ベッドで寝とけ」
「え、でもそしたら如月先輩はどこで寝るんですか?」
「俺はその辺で適当に寝る。ソファでもいいし何でも、好きなとこで寝るからよ」
「なっ!? それこそダメですよ!」
「じゃあ、一緒に寝んのか?」
「ふぁっ!?」
声が裏返った。一緒に寝る……? 一緒に寝るということはつまり、一緒の空間のベッド、そして同じ布団を共有するというシチュエーションな訳で……
「ベッドは広い。まぁ、お前が嫌じゃなければの話だが」
如月先輩は至極普通に提案してきた。
(どうする、俺……?)
選択肢に迷う俺の動悸は煩く鳴り続けていた。
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