冒険と電車

夏場

第1話

 電車に乗っていると不安になる。このまま二度と帰れないところまで連れ去られてしまうような気持ちになる。

 だから、帰りの電車に乗って最寄駅につくといつも無性に安心していた。今日も無事に帰ることができた、と思う。


 裏路地にある居酒屋でサークルの飲み会をしたとき、僕は一人先に帰路についた。

 翌日中に仕上げなければならない課題の用事があったから早く切り上げたのだが、僕は無性に不安になった。

 背中に、ねぇと声をかけられた。後ろを振り向くと女が立っていた。さっき僕の斜め前に座っていた女だ。名前は知らない。

「なに?」

「汗、すごいかいてます。首元」

 僕は首元を手のひらで擦ってから広げて見た。べっとりと濡れた手のひらに小さな水滴がいくつも張っていた。あぁと笑ってから、僕は言った。「大丈夫です」

 女は数秒黙って僕を見つめた後、大丈夫ですか?と聞いた。僕は居心地が悪くなって、語尾に力を込めてからもう一度言った。「大丈夫です」

 女はゆっくりと僕の元に近づいてきた。何をするのだろう、と思って若干のけぞるような体制をとると、女は僕に様子に気づいたのか手を伸ばせば届く位置で止まった。緊張しているのか、女の肩は少し上がってそれと比例するように眉が下がっていた。女は心配そうに僕を見つめて目を細めていた。

「ねぇ、怖いんですか?」

「は?」

「あなた、一人になるのが怖いんでしょう?」

「ごめんなさい。よくわからない」

 言葉が浮遊していた。彼女の言葉は僕の元まで届かず、隣の海鮮居酒屋から溢れ出る煙に巻かれて何処かに消えてしまっていた。

 あちこちで、室外機のブゥーンという稼働音がずっとしていた。酔っ払いたちの大きすぎる喧噪が辺りを包んでいた。とにかく、騒がしくて暑かった。

 わかりますよ、と女が言った。彼女の視線は僕の眼、というよりかは左胸辺りを見ていた。心臓の位置だ。何だか心が見透かされているようだった。

 僕は無意識に右足の踵を上下に何度も揺らしていた。イライラしていた。首元にもう一度手をやると、汗水は乾きただ湿っていた。

 失礼しますと僕は言った。それが少し荒げた口調だったことに、僕は言ってから気付いた。イライラしていた。女の口元が動いて、ねえ、と言った。

「私はわかるんです。一人の怖さを知ってる。例えば……そう、電車。電車です。電車に乗っていると、時々たまらなく怖くなる。一度乗車すれば途方もない場所まで行ってしまって、場所がめまぐるしく変わっていって、気付けばもう二度と懐かしさを覚えられなくなるような気がして怖くなる。そういうことです。わかるんでしょう?」

 女は僕の眼をまっすぐに見つめていた。僕の心臓は、早く脈うっていた。どんどんどんどん、とかつて友達とゲームセンターに行って競馬のゲームをした際、Aボタンを連打していた中学生のころを思い出させる激しさだった。

 僕は、ふうと息を吐いた。肩を落として、れんれんと余裕なく詰め合う店の屋根の隙間から空を見た。赤提灯と重なる白い月は、一つだけ残してしまった米粒のようだった。

 僕は、乾いた喉からなんとか言葉を発しようと口を開いた。長くくっついていた唇が開いて縦に小さな糸をひいた。

「ごめんなさい。僕はあなたが言っていることがさっぱりわからない。抽象的というか、そういうスピリチュアルみたいなものはちょっと」

「そう、ですか」

 彼女は、小さく首を何度か上下に揺らして頷いた。それから急にトーンの明るい声で、ごめんなさい、忘れて、と言った。

 その瞬間、僕と彼女の距離感が一気に離れたような気がした。僕は、彼女とは手を伸ばせば届く距離にいることを改めて思い出した。彼女と僕が話しているあいだ、僕等はひどく近い距離にいた。物理的な距離ではなく、それは精神的な距離でずっと近かった。30センチほどの距離、少し顔を前に倒せば互いが重なってしまうような近い距離だった。 

 不思議な女だ、と思った。気付けばイライラも収まっていた。

 女は、失礼しますと言ってくるりと後ろを向いた。まるで赤の他人のすぐそばを通りすぎる社交的挨拶のようだった。

 僕はひどく寂しくなった。なぜだろう、わからない。あれほど鬱陶しいと思っていた女の後ろ姿がどんどん離れていくのが悲しかった。ちょっと、と僕は声をかけた。気付けばそう言っていた。

「ごめんなさい。電車の話、少しだけわかります。嘘をついた。僕は電車に乗るのを確かに怖がっています。君の言っていることがとてもわかる。けどそれを言うと、みんなは大抵僕のことをおかしな奴だと言って避けていくので今も言えなかった。ごめんなさい」

 女は、2度ほど小さくまた頷いた。そしてもう一度僕と真正面に向いた。明らかに僕等の精神的距離が縮まるのがわかった。慣れない嫌な感覚だった。

「少し、静かなところで話しませんか?」

 女は小さな声で言った。僕の返事も待たず、荷物を持ってきます、と言って居酒屋に戻って行った。


 公園があった。近くのファミリーマートで缶の酒を2つ買った。

 あるサラリーマンの男は滑り台のそばにかばんを置いて道路の方を向きながら立ち電話をしていた。白色のバスケットハットを深く被ったある老人が微動だにせずベンチに座っていた。僕等とおない年ぐらいのある男女が3人で花壇の縁石に腰かけて大声で話していた。自身よりも大きなギターケースを背負ったある男が、タバコをふかしてブランコの鉄柵に腰かけていた。

 それぞれが違うことをしている。公園はそんなところだった。

 僕等もベンチに座った。

「僕等は互いに余裕がない」

「まさに」

「この不安はどういうものなのでしょう?」

「それがわかったら苦労しないです」

 うん、と僕は頷いた。彼女は缶ビールを一口含んで、数秒口内に溜めた後ゆっくりと飲み込んだ。

「でも、不思議なのはここにいると安心する。普通は怖いと思うんです。それは理解できる。普通の人の感性はそれとそれとして理解できる。けどね、それが感情と結びつかない。多分、物事を見て感じる色々なところが他の人と違うんだろうと思うんです。少なくとも、私はそう」

「確かに僕も安心できる。なんでだろう」

 彼女は僕を見た。それから、羨ましいですと言った。「羨ましい?」

「うん。羨ましい。あなたは多分まだ理解してないでしょう?自分のことを、自分の不安のことを」

「あなたは理解しているんですか?」

「わからない。けど構造は理解しています。この感情と自分の恐ろしさを知ってる」

 なんだか難しい話をしている。僕は酒をグッと飲み干してうつむいた。アルコールが回った頭が嵐のごとく渦巻いていた。正常な判断ができない、難しい話なんてとてもできない。

「ごめん、僕は多分とても酔っている。難しい」

「私も。ごめんなさい。酒を飲みながらする話じゃないわ」

 彼女は、酒を一気に飲み干した。前にあるアパートの廊下に等間隔で並ぶ共用灯がダブって見えた。飲みすぎている、と思った。

 今日は一回お開きにしよう、と僕は言った。彼女はすかさず、次もあるってことですか?と聞くから、僕は黙って頷いた。

 彼女に使う駅を聞くと、僕が使う駅とは反対側の位置にあるものだった。僕は、じゃあと言って立ってから公園を離れた。大きく右に曲がる際に彼女の方を見ると、彼女は座ったままただくうを見つめていた。公園ではそれぞれがまだ残っていた。

 僕だけが公園を離れた。


 次に、彼女と会ったのは大学の図書館だった。正確にいえば、一度食堂で彼女を見かけて声をかけたのだが無視されている。

 2月の3週目の金曜日、僕は朝から大学図書館に籠って小説を書いていた。大きなテーブルの右端で作業をする僕の他に、数十人の学生が同じ空間でそれぞれのことをしていた。

 どこからか暖房の音が静かに鳴っていた。午前中、僕は4000字小説を進めた。筆がのっていた。アイデアがふつふつと湧き出てきて、それが枯れないうちにキーボードにひたすらに打ち込んでいた。12時を知らせるチャイムが館内に響き、それでやっと手を休めて今書いたものを何度か読み返してみた。表現が稚拙なところを直していけばよくできたものだった。展開も上手にできている。

 僕は満足して立ち上がり、昼食のために大学を出てファミリーマートに寄り、おにぎり1個とさんこいちのサンドウィッチを買った。大学に戻って適当なベンチに腰掛けそれらを平らげ図書館に戻り席についた。実に上手くできている。今日の行動は文化的生活の手本をトレースしたようだった。

 この調子でいけば、午後も上手くいくだろうと思った。パソコンの右端の時計は「13:00」と表示されて、僕はまたキーボードと向き合った。

 しばらくして、14時を回った。それからは早かった。15、16時と一瞬で過ぎてゆき、気付けば外の町内放送のチャイムがうっすら聞こえた。夕焼け小焼けだ。17時のチャイム。

 ろうみたいに固まった指がキーボードの上から動かなかった。チャイムが終わると同時に、思いっきり力を込めてなんとか動かし、背もたれにグッと腰かけて午後に書いた分を見返してみた。

 1000文字。そのどれもが稚拙で意味のない文字列に見える。

 僕は、はぁと溜息をついた。午後には一文字も書けなかった。午前中の調子を信じたのが間違いだった。才能の欠落、意味のない時間、絶望。

 僕がずっと固まっていた午後の間、この空間から何人かがいなくなり、何人かが入ってきた。それが繰り返された今、17時の時点で残っているのは僕を含めた数人程度だった。

 僕は諦めて散歩にでようと思った。散歩にでたからとって何か変わるわけでないが、それでもとりあえず出てみようと思った。

 ダウンジャケットを羽織ってズボンのポケットにスマートフォンを入れた。一息ついて立ち上がると、両足は細かい電気が走ったように痺れて痛かった。

 角を曲がり出口に向かう。左右が高い本棚に囲まれた一本道を辿る途中、本棚に背を向けて文庫本を読みながら立ち止まっている女の横を通り過ぎた。あれ、と思って僕が振り返ると、女は本をぱたんと閉じて僕の方に向いていた。「久しぶり」

 ふいに彼女と遭遇したことに慣れず、あぁと他人ごとみたいに僕は応えた。彼女が、そっけないですね、と言って鼻から息を少し漏らした。

「何をしていたの?」

「今、勉強していました。君は?」

「見ての通り、本を読んでました」

ほら、と彼女は文庫本の表紙を僕に向けた。小さな黒文字のタイトル「ライ麦畑でつかまえて」。

「世界的名著だ。キャッチャー・イン・ザ・ライ」

「そう、キャッチャー・イン・ザ・ライ」

「どこまで読んだの?」

「まだ、半分くらい。……読んだことありますか?」

「中学のとき、国語の教師に薦められて少し読んだけどやめちゃった」

「それは、なぜ?」

「なぜって……わからないけど多分、共感できなかったから」

「あなたは、本に共感を求めるタチなの?」

「そんなことはない。何が何だかわからない本だって僕は好きです。わからなかった、というのも感想だから」

「じゃあ、どうしてやめてしまったの?」

「……わからない本にも理解できる節々がちょくちょくあって、それを断片的に集めた結果わからなかったという感想になるんだけど、そう、その本にはそれがなかったと思う。全てが理解に苦しむ。まるで、未解読の暗号文字で書かれた古代文書を読んでいるように」

 僕は数十秒考えこんで、はっとした。「ごめんなさい」

 おかしな奴の言動のそれだと僕は思った。

 彼女は、黙って僕を見つめていた。途端にまたあの感覚がやってきた。暑苦しい夜の居酒屋、喧噪、距離感のバグ。

「ねぇ、怖がらないで。私にはわかる。前にも言ったでしょう?大丈夫、理解してます。断片的理解の欠如」

 彼女は、お開きの続きをしよう、と言って本を棚に戻した。とんとんとん、とベージュのトレンチコートを静かに左右に揺らして彼女は僕の横についた。僕は頷いてから、彼女と一緒に図書館を出た。


「散歩に行こうと思ってる。ついてくる?」

 彼女は、どこまで行くの?と聞くから、巣鴨の方までと僕は応えた。彼女は頷き、僕等は大学を出た。

 12時ごろに昼食を買いに外に出たときよりも、空気は冷えていた。僕はジャケットに首をうずめるようにして歩き、彼女は手先をコートの内にしまいながら歩いた。

 右手に、飲食チェーン店が並ぶ緩やかな坂を登る。すれ違うときに、注意しないと振袖が重なってしまうほど狭い坂だった。

 僕の後ろに彼女がついて歩いた。僕のすぐ横を誰かが通り、その後彼女の横を通った。  

 会話はなくただもくもくと坂を登った。坂をすぎ、しばらくまた狭い道が続いた。すれ違う人に注意しながら歩いて行くと、やっと2手に分かれた平坦な道にでた。

「どっちに行く?」

「面白いほうがいいな」

「じゃあ、こっち」

 僕は、右手の方向を指差した。それから、僕と彼女は横並びに歩いた。今までよりも歩くスピードが遅くなる。

 彼女の歩幅は小さかった。僕の1歩の半分、とまではいかないが、0.7歩分ほどだった。確かに彼女の身長からすれば、それぐらいの歩幅になる。僕は無意識に彼女を急かしていたのではないか、と思った。

「ねえ、ごめんなさい。君を急かしていたかもしれない」

 彼女は僕を見て、なんのことだろう、と言わんばかりに顔を傾けた。つまらないことを言った、と言って僕は向き直した。

 蛍光色の看板が目立つカットサロン、いくつもの本のタワーが店外にまで積みあがった古本屋、店前のショーケースの中に食品サンプルを並べる、紺色の暖簾のかかった2階立ての木造住宅のそば屋、24時間営業のコインランドリー、名前を聞いたことがない芸能事務所の雑居ビル。

 様々なものがあるこの道を歩いていると、時々不思議に思う。ありふれる日常の中にも人々の生活がある。皆がそれぞれ違う行動、考えをもちながら同じ空間を共有し今日もそこに生きている。

 甲高い声が後ろから聞こえた。追いかけっこをする小学生がじゃれ合いながら僕等のすぐ横を駆けていく。ある子は両手をいっぱいに伸ばして動き回り、ある子は手提げ袋を肩にかけ直すたびに止まり、また走った。左右に身体をくねらせ縦横無尽に動きながら、子供たちは皆笑っている。

 僕は、ふと横を見た。彼女は小学生をじっと眺めていた。僅かにその口元が微笑んでいるように見えた。

「こういうところは、あんまり来たことない?」

 僕がそう言うと、彼女は黙って頷いた。それから彼女は小さく息を吐いて肩を落とし、不思議ねと言った。

「不思議?」

「うん。こんなところがあることを私は知らなかった。不思議」

「そんなの僕だって沢山ある。それを特に不思議だと感じたことはないな」

彼女は、首は小さく振った。「違うの」

「私だって行ったところがない場所をいちいち不思議に思わない。けどね、空想と現実は違うの。つまり、頭の中にある未踏の場所を今こうして訪れるとき、なんだか違和感がある」

「詳しく聞かせて」

「なんて言うのかな。例えるなら、パズルが上手くはまらない感じ。恐怖とまではいかないけど、不安ではあるの。自分が生きているこの世界とは全く違う場所に連れられてしまった感覚。頭の中で思っていたこの場所と実際のこの場所では、場所、空気、風景、全てに至るまで異なっている」

「……それは、電車と同じ感覚?」

彼女はしばらく黙った後、小さく言った。「そうかもね」

「こんなことを考えて散歩しているのは、きっと僕等だけだろうな」

「そうね。まともじゃない」

「うん。まともじゃない。さらに同じ奇妙な恐怖症をもつ2人が一緒にいるんだ。大分まともじゃない」

 彼女は僕をチラッと見てから、ふふと小さく声を出して笑った。

 多くのものがひしめき合うそこを抜け、横断歩道を1分ばかり待った。ハンバーガー店と千石駅入口を左手に抜け、道なりを歩いた。

 夕暮れを過ぎ、夜が近づいてくる。空は赤色と黒色のグラデーションを描きながら、ゆっくりと辺りを暗くする。中央道路を走る車の風を切る音、子供を後ろの席に乗せて自転車を走らせる母親、俯いて駅の入り口階段を降りてゆくサラリーマン、大きな鉄筋を上下に動かすショベルカー。

 皆、何かに急いでいた。置いていかれぬよう、足を止めずに動かしている。人も、車も、街もみんな同じだった。

「ねぇ」

「……」

「ねぇってば」

 はっとして振り返る。彼女が僕を見ながら何メートルか後ろに止まっていた。彼女とすれ違う人々が僕を一瞥してからすぐに俯いて、僕のすぐ横を足早に去ってゆく。

 気付けば、足を速く動かしていた。さっきよりも大分歩くペースが速かった。僕は何を急いでいたのだろう。

「気付かなかった。ごめんなさい」

 彼女は時間をかけるようにゆっくりと僕に近づく。そして僕の横についてから、行こうと言った。

 僕等はまたゆっくりと歩いた。途中、人々や自転車や車がいくら僕等を追い越しかわからない。僕が足を急かそうとするたびに彼女は僕の方も見ずに、急がないでと言った。

 僕等は時間をかけて巣鴨まで歩いた。子供服を売る洋服屋を抜けた辺りで、辺りは完全に夜となった。

 中央道路を挟んで右手に巣鴨駅が見えた。時間はかかったが確実に進んでいる、と僕は思った。

 アーケードの下に入ると、黄色い光が行き交う人々を照らし顔を鮮明に映した。夜は良かった、暗ければ誤魔化すことができる。しかし、誤魔化しの効かない灯りの元では誰もがくっきりと姿が見えてしまった。だからある者は存在を隠し、ある者は存在を隠さなかった。例えば、学校帰りの女子中学生は大勢とつつき合い群れながらなんとか存在を誤魔化していたが、杖をついてゆっくりと歩く老人は、他に見向きもせずにただ足のみを動かし存在を隠さなかった。

 多くの人々がすれ違い、様々な匂いがした。ファストフードの店内でぎゅうぎゅうに列を成して並ぶ人々が、まとまった一つの生命体に見えた。

 全てが動いていた。街も、人も、この場所も。「生命体」

 少し歩くと、また横断歩道で止まった。車は目の前を走り通り過ぎるのに人々は止まっていた。しかし、そのうちまた動き出すだろう。一時停止だ。「・」中々変わらない赤信号。

 目の前にいる朱色のニット帽を深く被った中年の男が右足を小刻みに動かしていた。貧乏ゆすり、イライラしている。

 僕は男の右足をじっと見つめていた。何か動きに規則性があるのではないかと思ったが何も関係はなかった。

 彼女が、ねぇと言った。僕は振動を続ける目の前の右足を見つめながら、なんだいと応えた。

「うちにこない?」

「構わないけど、どこにあるの?」

 あそこの道をまっすぐ、と彼女は向かいの信号の横にある自動車教習所と信用金庫のビルの間にある小道を指差した。

「いいの?」

「ここじゃ落ち着かないから」

 僕は男の足に視線を戻した。足はもう動いていなかった。空気を振動するメロディーが聴こえた。信号機から鳴る誘導音。人々はまた動きだした。再生。「▶︎」


 小さな細道だった。アスファルトは所々ひしゃげていて、小さな石ころの粒の集まりが点々と脇にたまっていた。

 しばらく歩くと、ぽつぽつと家が並び始めた。しかしどれもが古く年月の経ったものが多かった。ツタが伸び絡まった家や、随分昔の自民党議員の選挙ポスターが、雑草に囲まれた小さな木造平屋の石塀に色褪せて貼ってあった。

 誰ともすれ違うことはなかった。車も人も猫一匹もでないから僕等は道路の真ん中を歩いた。中央に白線で書かれた文字は、擦れて削られ意味を成していない。推測するに、「速度を落とせ」だろうと思った。

 僕は従って速度を落とす。そのうちに彼女はどんどんと前に行って、僕の20メートル先ぐらいで急に止まった。

 僕はペースを保ったまま彼女の元につくと、彼女が、ここと言って先に進んだ。

 3階立てのアパートだった。薄いピンク色のアパート、築年数はおそらく相当経っていた。もうずっと新しい塗装がなされていないそこは、今まで見た家々と同じように死んでいた。放っておかれた場所、見放された街、家。

 階段を登る。カンカンカン、と踵が地に着いて離れるたび大きな音が響いた。2階に止まり彼女は右手の廊下を歩く。一番端の部屋だった。

「こんなところは嫌?」

「そんなことない」

 彼女は、ポケットからキーを出してドアのノブに差しそのまま半回転させた。

 カチャッ、といかにもドアが開いたような愉快な音がして彼女とともに中に入る。

 靴は適当でいいから、と彼女は先に歩いて向こうのドアを開けた。僕は一応、靴を揃えて、お邪魔しますと言った。

 玄関はいたって質素だった。僕と彼女の靴以外、キー掛けのラックが靴入れにかかり、横にもたれるように靴ベラがあるだけだった。

 リビングに入る。玄関からリビングの廊下の境にある銀色の敷居をまたぐとき、もう一度、失礼しますと言った。

 リビングも極めてシンプルだった。いや質素と言った方が正しい。生活感は感じるが、テーブルやソファ、テレビ、スマートフォンの充電コードに至るまでどれもが古く長い間使われているように見えた。使われすぎている、と思った。

 彼女は皺が集まった1.5人掛けぐらいの白色のソファに座り、はぁと溜息をついた。僕が銀色の境のところに立っていると、彼女は、座ってよと言った。

「座って。動物園じゃあるまいし」

「あぁ。ごめん」

 僕はソファから少し離れた床に座った。少し出っ張った壁のところにシンプルなかけ時計があった。

7時10分。黒色の短針は、今だってずっと休まず針を動かしている。

「何か飲む?」

「いいや、大丈夫」

「じゃあ、テレビでも見る?」

 彼女は、リモコンをとってTVをつけた。小さな画面に映されたのはクイズ番組だった。芸人が大声でボケて、その言葉が青色のテロップで表示された。タレントたちが笑う顔にカメラが切り替わり、彼等の背後にはボケた芸人が悔しそうに斜め上を睨んで立ち尽くしていた。

 僕等はしばらくそれを眺めていた。彼女は時々音量をあげて、3回目に音量をあげるときには、15まであげていた。

 室内に何者かの笑い声が響いた。僕たち以外の何者かが、この場所を動かしていた。


 僕は我慢できずに、少し気分が悪いと言った。彼女は眺めたまま、私も、と言ってリモコンをとって番組を消した。

 ここから何分立っただろう。僕と彼女はずっと黙っていた。ただ静けさが流れた。

 誰の笑い声も聞こえない。完全に死んでいた。生命体ではなくなったこの街に紛れたアパートの一室で、僕らは無言でただ時が流れるのを待った。

 僕はそのうち無言で立ち上がり、冷蔵庫まで行って紙パックのオレンジジュースを取り出した。カウンターにぽつんとあるグラススタンドに掛けられたグラスを2つ出して、オレンジジュースを注いだ。

 テーブルに持っていて、一つを彼女の前に置いて、もう一つを僕は床に座る前に立って飲み干した。

 きゅうと乾いて引っ付いた喉が、ゆっくりと開く感覚があった。彼女もガラス窓の方に目をやりながらグラスに口をつけた。

 そこでようやく、僕は口を開いた。

「今、僕は死んでいた」

「……うん。私も死んでいた」

「でも、不安じゃなかった。ねぇ、なんだろうこれは。僕は今凄く不安なんだ。動き出してしまった」

「止まってから動き出したからよ。仕方ないこと」

「ねえ、もし知っていたら教えてほしいんだ。君は知っているの?この正体を。僕はわからない」

 彼女は、僕を見つめた。黒いその目が僕を見つめる。途端に、またあの感覚が僕を襲った。不安、恐怖、距離感のバグ。

 心臓が太鼓を叩くように大きく響き、速く脈打つ。苦しくなる。

「知っているよ」

 彼女は少し微笑んだ。そうして、ゆっくりとトレンチコートを外した。彼女は、わかるでしょうと僕のことを見つめながら、白色のブラウスボタンを外していく。

 止まったものが動きだす。さすれば、動いたものをまた止めなければいけない。それも、長い時間止めていたい。死んだもの同士の交流、不可逆的な一時止。「・・・・・・」


 彼女と同じ順序に従って僕もダウンジャケットを脱いだ。ブラウンの長袖を脱ぎ、上半身はシャツ一枚になって彼女を待つ。

 黄色の光沢が反射するシルクのキャミソールを身に纏う彼女は、ゆっくりとロングスカートを脱いだ。僕も同じくズボンを脱ぐ。右ポケットに入ったスマートフォンが床について、ゴンと音を立てた。

 彼女は、ソファに寝転がって僕を待った。  

 僕は彼女の両足の隙間から入り、彼女の顔の横に手をついた。

 近い距離にいた。精神的な距離ではなく物理的な距離だ。しかし、もっと近くなる必要があった。

「きて」

 彼女の口元にキスをした。それから首筋にキスをしていって、段々と下半身に移動させていった。顔、首、胸、両手、指、腹、腰、足、指。「ねえ、慣れているでしょう?」

「初めて」

 彼女は、嘘ねと言って笑った。僕が脇を舐めると、くすぐったいとまた笑って身体をくねらせた。

 君は?と彼女に尋ねた。彼女は何も言わず、私の番だからと言って僕の乳首を舌で舐めた。

 それから彼女も僕と同じ順序を辿り、最後にペニスを咥えた。彼女は口内でそれを溶かしながら僕を刺激する。僕はあっという間に射精し、力なく彼女に抱きついた。

 幅の狭いスペースで僕等は横になって抱き合う。彼女の目が僕をじっと見つめていた。

 時間が溶けていく。短針は動いて時間を刻んでいるはずなのに、街は死んで、部屋が死に、僕等が死んでいた。

「まだ大丈夫?」

 うん、と僕は頷く。彼女の前髪に僕の目元が被さり、僕は彼女に覆い被さる。彼女はもう一度言った。「きて」

「でも、つけてない」

「いいの」

 もっと近い距離になる必要があった。僕は頷いて彼女の中に入った。彼女は、小さく喘ぎ僕も小さく腰を振った。

 数分で僕等はそれを終えて、そしてまた抱き合った。不安は感じなかった。恐怖もない。僕等は死んでいたのだ。

「ねぇ、良かったでしょう?」

「うん。だけど、また動き出すと思うととても怖い」

「いいの。それは、それでいいの。一度死んだことに意味があるんだから」

 彼女は額を僕の額につけて、僕の鼻先を舌で舐めた。「わからないことだらけなの」

「ねぇ、不安の正体は掴めた。けど僕は飢えている」

「そう」

「だから、君じゃないといけないと思うんだ。これから他の人と交わったところで僕はまた不安になる。どこにもいけない」

「それは私もそう。でも、もう動き始めたからしょうがないよ」

 彼女が掛け時計を指さした。短針が動いている。8時30分。

「結局動いていないとダメみたい。私も、あなたも」

 彼女は裸のまま立ち上がり、グラスの底に溜まったオレンジジュースを飲みほした。それからソファに座って、しばらく窓ガラスの先を見ていた。

 僕も彼女に従った。ソファに座り、くうを見つめた。

 彼女が順序通りに服を着始めた。僕も従って服を着る。最後に彼女はトレンチコートを着込んで僕はダウンジャケットを着た。

「駅まで送るよ」

僕は、うんと頷いた。


 僕等はそれから無言で歩いた。死んだ街を抜ける間、帰りも誰ともすれ違うことはなかった。

 やがて、駅前に出た。

 皆が動いていた。人々は窮屈そうに駅に入り、駅を抜けた人々は心地悪そうに去っていった。酔っ払いの声が聞こえて誰かが叫んでいた。街頭やネオンが空を濁らせ街を灯していた。誰しもが入り、去って、すれ違い、そして皆が生きていた。

 駅の入口前では、ウイグル人の人々が募金活動を求めて声を張り上げていた。拙い日本語で、私たちを救ってください、と声をそろえて去っていく人々に声をかけていた。

 人々が交差する駅前で、僕は止まって彼女を見た。「じゃあ、ここら辺で」

 彼女は、頷いて、じゃあねと言った。

 また会えるだろうか?と僕が言うと、さあね、と彼女は言って駅を行き交う人々を見た。

「動いていたら会えると思うよ」

「もし死んでしまったら?」

「当然、会えない」

 僕は、わかったと言ってから前を向いた。それから駅に入って行く。

 行き交う人々に僕は紛れた。ようやく僕も動き始めた。

 改札を抜け、電車を待った。不安は波みたいに寄せたり引いたりして僕を揺さぶったが、僕はじっとこらえて電車を待った。

 しばらく経って電車が到着した。多くの人が降車し多くの人が乗車した。

 皆が動いていた。僕も動いた。

 生きていた。不安をこらえて僕は電車に乗っていた。

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冒険と電車 夏場 @ito18

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