15

「そこはお母さんの席だよ」

 あたしが睨むのもどこ吹く風で、悪魔は腕を組み、灰色の目でじっと見つめてきた。

「見られると、気になるんだけど」

「おまえの体が何からできているのか知るのは大切なことだ。最終的には俺のものになるのだから」

 それ、前も聞いたし。

あたしは悪魔を無視してお茶漬けを啜る。

 そういえば、悪魔と食卓を囲むのは久しぶりだった。高校生のころは家での食事のさいにはいつも一緒にいてくれた。

 あの頃、あたしにはこの悪魔しかいなかったのだ。

 でも今は違う。大切な家族もいて、あたしなんかを好きでいてくれる彼氏もいて。かけがえのない親友と過ごす幸せな時間も、知ってしまったのだ。

 あたしは空になった丼をことんとテーブルに置いた。

「あたしはもっとこの世界を体験したい。生まれ変わりがあるのなら、何度でも」

 悪魔は目を細めた。

「俺のものになるのが惜しくなったか」

「最終的にメフィストフェレスはファウストの魂を奪えなかったよ」

「俺との契約から逃れたいがために『ファウスト』を参考にするのはよすんだな。おまえには何の参考にもならない」

 悪魔は身を起こすと、悠々と足を組んだ。

「メフィストフェレスは、にて言うであろう言葉を契約満了の鍵に設定したというのに、ファウスト博士はそれをを願う中で言ってしまった。これは契約の趣旨とは対極にあるものだ。ゆえにメフィストフェレスはファウスト博士を手にすることができなかったのだ。――おまえは世界の求める公共の喜びを己の喜びとし、数多あまたの人々の幸福を成就するために、願いを使うことができるのか?」

 ――そんなこと、無理に決まってる。

 悪魔は低く笑った。

「だろうな。そもそもおまえにとって世界は敵だった。そうだろう?」

 かつてはそうだった。――でも今はもう、そうじゃないのだ。

 かといって、自分がそうゆうこころざしを持てるかどうかは別だ。自分のことで精いっぱいなあたしは、おのれを犠牲にして世界平和や人類の幸福などといった御大層なもの願うなんて、とうていできやしない。

 そんなあたし見ながら、悪魔は目を細めた。

「メフィストフェレスはファウストの無垢な善意に欺かれたようなものだ。おまえも俺を欺いてみるがいい。無垢な善意などなくとも、この小賢しい頭を使えば俺から一本取れるかもしれんぞ」

 悪魔はあたしの額に人差し指を突きつけた。あたしはその灰色の目を見返した。

「三つ目の願いを言わなければいいんだわ。死ぬまで。そしたらあんたは契約を履行することができなかったってことになるもの」

「やってみるがいい」

 あたしは、その余裕ぶった顔を憎たらしく睨む。

「契約を反故ほごにせずとも、俺から逃れる手ならあるぞ」

 驚いて見返すと、悪魔はうっすらと笑った。

「願いを三つ、さっさとかなえ終えればいいのだ。さすれば俺はいったんおまえの前から消える。――ただし、お前が死ぬまでの間だがな」

(……そうか。このまま粘って願いを言わなければ、その間、この悪魔に付きまとわれ続けることになるんだ)

 それこそ今際いまわきわまで。そしてあたしはまだ平均寿命の四分の一ほどしか生きていない。

残りの長大な年月をこの悪魔と共有するなんて。

 ぞっとした。これから築いてゆく家族や大切な人との時間の中で、常に悪魔が隣にいるのだ。

 いっそ終わりにしたい――そんな思いが胸を過り、あたしはかたく目をつむった。

 この悪魔は、三つ目の願いをかなえあげずに死んだ者はいなかったと言っていたが、それは残りの生だけでもこの悪魔から解放されたいと願ったからなんじゃないのだろうか。それこそが悪魔の思う壺なのだろう。

 でも、刹那の今世と悠久の死後をはかりにかけるなんて――あたしにはとてもできそうにない。

「……さっさと願ってしまって楽になればよいものを」

 悪魔がテーブル越しに身を乗り出してきて、あたしの耳元に囁いた。

「せめて結婚式は教会で挙げるがいい。さすればおまえにとって幸福の絶頂の時間だけは、俺から自由になれるであろう」

 その時。廊下の方からスリッパの音が近づいてきた。

 あたしは顔を上げた。キッチンのドアが開き、入ってきたのは母だった。

「声がしたから、お父さんが帰ってきたのかと思って……」

 言いながら、母は、はっとしたようにあたしの顔を見た。あたしはよほど追い詰められた顔をしていたに違いなかった。

「……お母さん」

 心が弱っている中で母の姿を見てしまい、あたしは泣き出したくなった。

 そしてたちどころに後悔が身を襲う。母の前では、悩みなど知らず楽しく過ごす女子大生でいなければならなかったのに。

「お母さん、あたし……」

 母が小走りにあたしのもとに来た。あたしの肩をぐっとつかむ。

「何でも言いなさい。何でもしてあげるから」

 母の真摯な眼差しに――思わずすべてを吐き出してしまいたくなった。

(悪魔に憑かれているだなんて言ったら、どんな顔をされるだろうか)

 言えない。言えるわけがない。やっと生活も落ち着いたというのに、娘のあたしがここでおかしなことを言い出すわけにはいかないのだ。

 その胸に縋りつきたくなる衝動をこらえ、あたしはかすかに笑みを見せた。

「大丈夫。もう、疲れたから寝るね」

 食器洗っとくからね、とお盆を手に席を立つ。母はあたしの一挙一動を硬い表情で見つめている。背中に強い視線を感じ、胸が詰まるようだった。

(あたりさわりのない言い訳を考えないと。西森くんと喧嘩したことにしようか……)

 悪魔に目をやると、あたし以外に姿が見えないのをいいことに腕組みをして堂々と母を見ていた。ぎくりとした。悪魔のその眼差しが、暗く、沈むようだったのだ。

 あたしは手早く食器を洗うと、母に「おやすみ」と告げてキッチンを逃げるように後にした。

母の姿をこれ以上悪魔の目にさらしたくなかった。

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