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「……

 唐突に呟いたあたしに、悪魔は振り向いた。

「ねえ。あなたはメフィストフェレスなの? あなたがもちかけた契約は『ファウスト』に出てくるメフィストフェレスの契約とそっくりだわ」

「日本の高校生から悪魔の名前が出るとはな」

「ゲーテの『ファウスト』は世界史の範囲だもの。それくらい知ってる」

 そう言い訳したが、メフィストフェレスを知ったのは実はついさっきだった。先ほど時間つぶしに寄った図書館で、あたしはこの不可解な生物――悪魔について調べたのだ。書架には悪魔に関連する本はいくつもあった。それこそ、読み切れないほどに。

 悪魔はデスクチェアを回転させ、くるりと向き直った。

「『ファウスト』とどこが似ているのいうのだ? メフィストフェレスとファウストの契約は、魂と引き換えに欲望をかなえるというものだろう。だが俺の叶える願いは三つと限られており、おまえの代償は魂だけでなく、その身も奪われるのだ」

「じゃあ、あたしは不利な条件で契約を結ばされたってこと?」

「ファウストとおまえを一緒にするな。あの男は神に目をかけられているほどの男で、そもそもおまえとは価値が違う。そんな男と同条件で契約を結ぶことができると思うのか?」

 悪魔は呆れたようにあたしを見おろし、ふいに口元に皮肉な笑みを浮かべた。

「……そうか、メフィストフェレスは魂を取りそこねたのだったな。おまえも悪魔おれに一杯食わせるつもりなのだろうが、それは無理な話だ。おまえは決して契約から逃れることはできない」

 悪魔の言うとおり、あたしなんかの魂はファウストの崇高な魂と比べて足元にも及ばない下等なものなのだろう。――だが、あたしは知っていた。魂は下等だとしても、価値があるということを。

 男たちが、あたしを見下しながらもこの身体を欲しがっているのをおぞましいほどにわかっていた。しかも、それは人間以外でも通ずるものであるらしい。

 悪魔についての書籍を当たったさいに、しょっちゅう出てきた固有名詞――グリゴリ。旧約聖書偽典『エノクの書』に出てくる天使の一団である。彼らは、人の娘に欲情したことで堕天してしまったという。人間の女に手を出すことは神から固く禁じられていたのに、誘惑に耐えきれず禁を犯したのだ。さらには、武器や天文学、薬学、宇宙の神秘に至るまでを女たちに教えてしまった。

 天使でさえこのようなものならば、このプライドの高そうな悪魔だって色欲はあるはずだ。実際この悪魔は、あたしのことが欲しかったと言っていた。ならば、この身体を使えば契約を反故にできるかもしれない。

 それだけじゃない。天使たちを誘惑して思うままに価値あるものを手に入れた女たちのように、この悪魔を思うままに従わせることができるかもしれない。

 優位に立てるかもしれない。――人間の大人にはできなくても。

 ひっそりと息を吐き、デスクチェアで足を組んでいる悪魔の前に立った。

「学校、苦しかったよね。ごめんね……」

 自分でも笑ってしまうほど媚びを売った声音だった。

「なんだ?」

 悪魔がいぶかしむように眉根を寄せた。

 とたんに緊張が込み上げた。急激に渇いてゆく口内に何度も唾を飲み込むと――あの、と声を絞り出した。

「よかったら……その、一緒に寝ない?」

 声が震えた。

 悪魔はかすかに目を見開いた。その灰色の瞳が、真意を探るようにあたしをひたとみつめ――あざけるようにわらった。

「それがひとつ目の願いか?」

 見透かすような眼差しに、かっと顔が熱くなった。おまえの浅はかな考えなどお見通しだ――目がそう言っていた。

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