8

「あんた……わざと校舎の中にまでついてきたのね」

「ああそうだ。潔癖なおまえが、自分があの下衆げすと同じ生き物だと気づいたら、どうゆう顔をするのか見たくてな」

 悪びれなく言うさまに、あたしは唖然とした。

「そんなことのために、あんなつらい目にあったの?」

「お前にとっては程度ではなかっただろう?」

 切り返され、あたしは絶句する。

「そう、それだ。お前のその顔のためなら、あの程度の苦しみくらい何でもない。むしろおつりがくるほどだ」

 悪魔は声もなくわらった。

怒りがむらむらと湧いてきた。さっきまでの悪魔に対する罪悪感はすっかり消えていた。

「三つ目の願いをかなえ終わるまではただかたわらにいるだけの仕事と思っていたが……、おまえのように矜持ばかり高く無力な娘であれば、手は出せなくとも存分に楽しませてもらえそうだな」

「手を出したじゃない! 学校であたしを操ったよね? この身体を好きにできるのは死後って約束だったじゃない! 噓つき! もうこの契約は無効だから!」

 あれか、と悪魔はそっけなく言った。

「俺はおまえを操ったりなどしていない。契約履行中の間は、契約主の身体にも魂にも手出しをしないだからな」

「じゃあ、あれは……学校でのあれは、何だったのよ?」

 自分の筋肉が意志を介さずに動く感覚を思い出し、あたしは思わず身震いした。

「俺はただ、だけだ。つまり、あの部屋から逃げ出したのだ」

「それを操ったっていうんじゃないの!」

「違うな。おまえの理性が感情に負けたのだ。強固な意志があれば、悪魔おれの誘惑など跳ねのけてあの場にとどまったはずだ。実際、逃げ出したくてしかたがなかったのだろう? 俺もあの場にいたくなかった。利害が一致したんだ。問題なかろう?」

「問題おおありだよ! ……中島に目をつけられたじゃない」

「目をつけられていたのはもとからだろう」

 身を強張らせたあたしを見て、悪魔は忍び笑いをした。

「あの男、最後の最後に自分の欲望を口に出していたな」

 おぞましさと屈辱に、あたしは拳を握りしめた。

「……殺してやりたい」

「まあそう言うな。奴も悪魔おれが近くにいたせいで、身体が望む行動をとってしまったのだ。おまえが操られただの騒いだ状態と同じだ。そもそも人間にとって悪魔われわれは、欲望を肥大させ、理性を弱める効能がある。中島のような男が我慢がらなくなるのはしかたのないことだ」

 結局あんたのせいなんじゃないの――ぐっと悪魔を睨みつける。

「直接動かしたわけじゃなくても、あんたがあたしの身体に干渉したのは事実じゃない。こんど同じようなことがあったら契約は無効だから。魂も体もあげない。いいね?」

「俺は何もしていないのだがな」

 悪魔は腕を組むと、灰色の目をあたしに向けた。

「数学準備室、行くのか」

「行くわけない」

 脱いだ部屋着を箪笥にしまうと、乱暴に引き出しを閉めた。腫れあがった腕がじんと痺れた。

 悪魔の言うとおり、あたしは、あの穢い中島や卑劣な大人たちと一緒だ。

(……だからなんだというの)

 でも、あたしにはやる権利があるはずだ。ずっと虐げられてきたあたしにだけは。

 男はみんなあたしを傷つける。女はみんなあたしを嫌う。物心つくころから、ずっとそうだった。

 契約で縛りつけているこの悪魔でさえ、始終あたしを下に見ている。そう、それこそ初めて顔を合わせた瞬間から。悪魔などという不確かな存在のくせに、まるで生身の人間の男と一緒なのである。

(許せない……)

 悪魔は、あたしを傷つけて笑っていたことなどもう忘れたように、本棚に並ぶ参考書の背表紙を物珍しげに眺めている。その横顔を、睨みつける。

 人間を殴ることはできない。――だがこの悪魔になら。

 思えば、相手が悪魔なら何をしたって問題もならない。しかもこいつはあたしに手を上げることはできない。

 なら、やり返してもいいのではないか?

 この悪魔に一矢報いるとしたら、あたしとの契約を御破算ごはさんにすることだろう。死んだ後にどうなろうと正直どうでもいいが、代償を取りはぐれたならばこの悪魔はさぞ悔しい思いをするに違いない。

(この悪魔に一泡吹かせることができたなら……)

 殴らなければ、殴られっぱなしなのだ。

 あたしはごくりと唾を飲み込んだ。

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