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 あたしは音楽科準備室から逃げるように退出した。

 階段を駆け下り、小走りで渡り廊下を通りすぎる。生徒玄関の下駄箱前でようやく足をとめた。

 屈辱で、頭が沸騰しそうだった。あまりの怒りに震えがとまらない。

(……それでもあたしはあの女の言葉に従うんだ)

 高校生にとって受験は、自分の価値観さえ屈服させなきゃならないほどの重大な試練だ。これから半世紀以上続くであろうはてしなく長い人生がかかっている。失敗できないのだ。

 受験に失敗したら……どうなるのかは誰も詳しく教えてはくれないけれど、きっと社会の底辺をさまようような人生が待っているように思う。教師たちのかもし出す雰囲気がそう言っている。

 だから、どんな理不尽な仕打ちも耐えなきゃならない。情けなくて悔しくて、唇を噛んでうなだれた。

(どうせあの女は一介の高校教師で終わる。でもあたしには、前途洋々な未来が待っている。医者にだって弁護士にだって、なんにだってなれる。あんたはしわくちゃのババアになるまで馬鹿なガキの相手をしていればいいんだ)

 成功を勝ち取るためには勉強しなければいけない。難関大学に合格して、高額所得者の仲間入りをしなきゃならない。それがあたしを見下し、虐げようとしてきたやつらへの復讐だ。

 そしてお母さんへの恩返しなんだ。

(そのためには……この髪を……)

 あたしは腰近くまで伸びる髪に触れた。ふわふわと柔らかな感触が指や頬をくすぐるようにまとわりついた。

 自分の髪がとても好きだった。陽があたるとはちみつ色に輝き、風が吹けばふうわりと揺らぐ。

(この髪を焼きごてで伸ばし、真っ黒に染めろというのか。そんな残酷なことをあたしに科すのか)

 あまりにもひどい――ぎりっと歯を食いしばった。

 大人の意味不明な価値観のせいで、素のままの自分を醜く捻じ曲げなければいけない。

 自分たちだって、かつては同じだったはずだ。大人になってしまうと忘れてしまうのだろうか。それとも、自分もやられたからとあたしたちにやり返しているんだろうか。――逆恨みなんてばかで幼稚な人間がすることだ。

(髪型なんかで云々言わせないためには、圧倒的な点数で合格すればいい)

 志望大学の受験科目はセンター試験が五教科七科目で、二次試験は国語、英語、数学、理科の四教科、そして面接である。点数配分は、センター試験の合計九百点を百十点換算し、二次試験が四百四十点。そして面接が百点だった。面接の百点をないものとして、それでも合格するには、センター試験と二次試験で満点に近い点数を取ればいいのだ。

 そのためには、勉強しなきゃならない。

 怒りをたぎらせながら靴を履き替え、昇降口を出た。校門を出てまっすぐ県立図書館に向かう。あたしはふだん、図書館の学習スペースで勉強をしていた。そこは高齢者がたまに新聞を読んでいるくらいで人が少なく、勉強するには穴場だった。

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