夕陽の差す電車にて

 夏の日の夕方。疲れた人を運ぶ電車は、今日も混んでいる。 



(ああ、いやだな)

 部活帰りの絵梨花の斜め前に、おじいさんが立った。こういう時、絵梨花はどうしたらいいかわからなくなる。

 おじいさんがこちらを見ていないのを横目で確認して、絵梨花は寝たふりをした。


 絵梨花が小学生の時、遠足の帰りの電車に、おばあさんが乗ってきた。絵梨花は「ここどうぞ!」と元気に言って席を立った。先生が、『電車では、一般のお客さんが来たら席を譲りましょう』と言っていたのを実践したのである。他の子が座っている中、おとなに席を譲るのはちょっとお姉さんになった気分で清々しかった。

 しかし、おばあさんは絵梨花に困った顔を向けた。

「いいわよ、私は」

 そして、そそくさとドアの前に場所を移動する。

 近くの男子が「ダッセー!」と言う声がして、絵梨花は自分の顔がカッと熱くなるのを感じた。リュックを抱きしめるようにして座り直す。うつむいていると、誰かに話をするおばあさんの声が聞こえた。

「私まだ席を譲られる年じゃないのよ? ショックだわ」

 なんだか、自分が悪いことをしてしまったような気持ちになって、そのまま学校の最寄り駅まで寝たふりをした。


 それから、絵梨花は電車でおじいさんやおばあさんが乗ってくると、寝たふりをするようになった。



 新入社員の俊明は、おじいさんが自分の前に立った時、心の中で舌打ちをした。

(俺の前に立たないでくれよ)

 彼女とLINEしていたスマホの電源を切って、スッとカバンに入れた。

 右隣の女子高生は寝ているらしい。

(ああ、こういうときは、起きてた方がいいのにな……)


 中一の春。俊明は野球部の練習帰りでとても疲れていた。小学校の頃とは違うハードな運動についていくのがやっとだった。だからその日も、電車に揺られてうとうとしていたのだ。

 それが突然、誰かが怒ったような声がして目が覚めた。気がつくと、おじいさんが俊明の前に立っていた。先程の音は、どうやらおじいさんが咳払いをしたらしかった。

 恐る恐るおじいさんを見上げると、おじいさんは怖い目で俊明を見下ろしていて、バッチリ目があってしまった。ビクッとして、思わず目をそらした。それがいけなかったのかもしれない。

「最近の学生は、自分のことばっかりで、思いやりの心ちゅうもんがないんかい!」

 俊明は最初、自分に向けられた言葉だと認識できなかった。しかし、自分の制服の袖が視界に映り、(あ、俺に言ってるんだ)と理解して、急に背中が冷たくなった。反射的に立ち上がり、隣の車両まで逃げた。おじいさんが、「遅いわ!」と怒鳴っているのが聞こえた。


 大学生の時には、座席で携帯を取り出したら、前に立っていたおばさんに「ペースメーカーを使っている人がいるかもしれないんですよ!」と、長々とお説教された。「ここは優先席じゃないし携帯の電波がペースメーカーに影響を与えるのは15㎝程度の至近距離で……」と反論したら、おばさんはヒートアップして余計面倒くさいことになったのだった。


 そういうことが積み重なって、俊明は電車で高齢者が近くに来るのが苦手だった。

(ネット見ると、席を譲ったら譲ったでキレる年寄りもいるらしいし、勘弁してくれ。せめて優先席に行ってくれよ)

 貧乏ゆすりしそうになるのを堪えて、腕を組んで視線を膝に落とした。


*★


「おとうさん、ここ座ってください!」


 近くで上がった声に反応して、絵梨花と俊明はハッと顔を上げた。

 声がしたのは俊明の左隣。ガッチリした体格の若い男性が席を立って、椅子を手で示している。

 おじいさんは、顔の前で手をパタパタと振った。

「いや、まだ譲られるようなトシじゃないから」

 それを聞いて、絵梨花は内心でホッとした。

(ほら、やっぱりそうだ。席を譲ろうとしても、損をするだけなんだから……)

 俊明も、やれやれと首を振った。

(席を譲るのを強制する年寄りよりはマシだった。けど、何もしなくて正解のパターンだったな)

 しかし席を譲った男性は、「いえ!」と返事をする。


「人生の先輩を立たせておくわけにいかないですから!」


 その言葉は静かな車内に響いた。男性の眼差しはにこやかで、日焼けした肌にマスクの白さが際立っていた。

 おじいさんは、照れたように笑う。

「そうか。じゃあ、座らせてもらおうかな」


 絵梨花は、まるで自分が声をかけた時みたいに胸がドキドキしているのを感じた。断られても気にも留めずに、あんなにかっこよく、もう一押しできる人がいるんだ。


 俊明は、男性の顔をまじまじと見てしまった。大学生くらいだろうか。あんなにまっすぐで気持ちよく敬意をにじませて、人に接することができるものなんだ。


✳︎


 夕暮れ時の電車は、疲れた人を運ぶ。

 何もしないことを選択した若者たちは、「今度は自分も」とひそかに決意した。

 西日が、名も知らぬ青年の顔を照らす。背筋を伸ばして立つ彼の顔はほんのり赤く、光って見えた。

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