逃げ猫の君と古木の天狗

 大江挙秋おおえたかあきは木登りが好きだった。 

 狩衣かりぎぬでなく、直衣のうしを着ている時ですら、すいすいと身軽に登る。たいていは父君から学問をしろと呼ばれるときに登るので、逃げ猫の君と呼ばれていた。挙秋の家の者はほとんどが学問で身を立てており、長男である挙秋も当然そうあるものだと思われていたが、本人ときたらどこ吹く風で隙を見ては逃げるのだ。

 挙秋の木登りはたいてい屋敷から逃げる際の手段なのだが、唯一の例外が庭で一番立派なケヤキの木だった。挙秋はこのどっしりとして四方に枝を伸ばした古木がお気に入りで、するすると築地ついじより高い枝まで登っては、気ままに笛を吹くのである。この笛の音が非常に美しいので、挙秋の笛を聞いた者はみな、仕事や学問の手を止めてしまうのだった。

 あるとき父君がたいそう怒って、「あんなケヤキなど切り倒してしまえ」と怒鳴ったが、そんな些細なことで古木を切り倒してしまうのはよくない、と次男の嗣政つぐまさがとりなした。父君はこの嗣政の言うことは尊重する傾向にあったため、挙秋の憩いの場は守られた。

 嗣政は幼いころから学問が好きで、暇を見つけては漢学の本を読みふけっていた。十三の時にはすでに大学の卒業試験に使われる文書をそらんじることもできた。

 「嗣政が先に生まれておれば……」というのが父君の口癖で、当の長男も「家は嗣政が継げばよいのだ」と公言して憚らなかった。弟はそれを聞くといつも困ったように笑っていた。挙秋は自分の兄弟ながら、同じ血を引いてなぜこうも違う性格なのだろうと常々不思議に思っていた。


「––しかし、結局今後どうするかというところだ」


 いつものようにケヤキの上に腰掛けて、挙秋は腕を組んで首を傾げた。


「わが家は嗣政がおるから安泰として、いざあれが家督を継いだならば私の居場所がなくなってしまう。有能な当主のダメな兄として寄生するのもやぶさかではないが、このままでは出家一直線だろう。もう少し今世で何かを成し遂げたいように思うが……」

 そんなことを考えていたら、気が付くともう空は赤く染まり、夕日はほとんど沈みかけていた。いくら何でも集中しすぎた、と、近くの屋根の上に飛び降りたとき、いつもとは違う気配に気が付いた。

 見られている。

 ばっと後ろを振り返ると、そこには誰もいない。一度はそれで納得しようとしたが違和感が抜けず、今度は視線を上にやると––翼のある人が一番高い枝の上に立っていた。それも、なんと高下駄で。黄昏たそがれ時であったので、影と輪郭しかわからない。

 それでも挙秋と来たらのんびりしたもので、「ほお」と息を漏らした以外、大きな反応はなかった。

あやかしの類か。我が家に何か用かな」

 世間話でもするかのように声をかけると、影はククッと笑ったらしかった。


「これは驚いた。わしの姿を見てもひっくり返らないとは。評判通りのうつけか、はてさて大人物か……。お前の胆力に免じて名乗ってやるとしようかの」


 影は翼を二、三羽ばたかせて、挙秋の隣の枝に降り立った。今度は顔が見えた……と思ったが、鳥のような迦楼羅かるらの面をつけている。

「うーん、もしや天狗てんぐというやつか」

「学問嫌いのくせによう知っておるな。左様、わしはお前たちに天狗と呼ばれるものじゃ。そして、今日はこのケヤキにささげられた願いに呼ばれて来たのよ」

「ケヤキに? 我が家に妖と通じていた者がいたとは驚きだが」

「ふん、だろうよ。わしを引き寄せたことは本人も知るまい」

 天狗は持っていた扇で地上を指す。挙秋も視線をスッとそちらにやると、屋敷からちょうど誰かが出てくるところだった。うつむきがちに歩いているので、二人には気が付いていない。

「あの背格好は……嗣政か?」

 弟が日が暮れてから庭に出るのを、挙秋は見たことがなかった。嗣政はケヤキの木の根元まで来るとその場に跪き、恭しく礼をし始めた。

「――この家の誰よりも長く生きる古木よ。どうぞ私に多くの知恵を。そしてこれからも学び続けるための時間をお与えください。学びたいことは多いのに、やることが多すぎて、とてもとても足りません。どうか、私に学問を究めさせてください」

 地上と距離があるのに、そのささやくような声が聞こえたのは、ケヤキが声を伝えたからだろうか?

 しかし、そんなことよりも挙秋は、弟の姿に衝撃を受けていた。 あんなに普段から学問をしているじゃないか。

「まだ、足りないのか……」

 思わずこぼすと、天狗はからからと笑った。

「学問に終わりなどは無いのよ。のう、天狗がどういう存在か、お前は知っておるか?」

 天狗は、バサッと羽を鳴らして、宙返りをした。

「学問に憑りつかれ、人間を超越したもののなれの果てよ。今日は『同志』の願いに応じて迎えに来たのさ。お前の弟は、もうこちら側の世界に片足を突っ込んでおるわ」

「それは、困る」

 天狗の言葉に顔をしかめて弟を見下ろした。

「なぜじゃ? あれが居なくなると、自分が家を継がねばならなくなるからか?」

「それも否定できぬが……弟には、幸せになってほしい。私とは違い、あんなに毎日真面目に良い息子でやってきたのだから」

「は! 弟は永遠に学問をし続けたいと願っておる。ならば、それがあれの幸福であろう。お前はどうじゃ、家を継ぎ、どこぞの女と結ばれて子を成す、それはお前の幸福なのか? え? 小僧」

「…………」 

 天狗の問いかけに、すぐに答えることができなかった。ほかならぬ自分が、嗣政に用意された道を幸せだと思えなかったから。しかし、妖になってまで学問をするのが、嗣政の幸せなのだろうか。

「嗣政に、もっと時間があれば良いのだ。今は余裕が無いから、神仏以外の何者かにすら手を伸ばしてしまうのだろう」

「誰のせいでそうなっているのだ? ええ、挙秋よ。大江の長男は誰だ」

 天狗は愉快そうに挙秋の顎に扇を突き付けた。挙秋は口を尖らせ、しぶしぶうなずいた。

「……私だ」

「お前の日ごろの行いが、嗣政を奪うのだ、挙秋」

「待ってくれ」

 屋根の上で、挙秋は天狗に向かって瓦に手をつき頭を下げた。

「……もう少し時間をくれないか。もう少し、弟と話してみたい。私が何をしても何を言っても、どうしても妖になりたいとあれが申すならば、私は弟を貴殿のもとへ送り出そう」

「ふん、今更だが」

 天狗はふよふよと浮きながら、何かを考えている様子だった。それから、いかにも良いことを思いついたという様子で、手をぽんと打ち鳴らす。

「ならばお前、しばらく学問したことをわしに報告に来い。わしは学問について語り合えるならば、差し当たってお前でも弟でも変わらんのだ。何、この時間であれば、お前がここに来るのは容易かろう。まさか足元が見えねば木登りは無理だ、などとは言うまいな」

「わかった。この木ならば目隠しをしていても登れる。それにこの高さならば飛び降りたところで大事はない」

「よしよし。お前の方がよほど人間離れしておるわ。弟の熱意も興味があったが、無から学ぶ人間の成長も同様に楽しみじゃ。きっとお前もこちらの世界に興味を持つようになるだろうよ」

「そこまではわからぬが……確かにやろう」

「では、明日からじゃぞ。よいな。一日も欠かさず来るのだぞ。約束を違えたら、すぐにでも弟を連れていくぞ」

 天狗はそう言うと、宙を二、三度旋回して、まだほんのりと空に赤みが残る山の方へ飛んで行った。天狗が消えたのを見届けると、挙秋はふうっと息を吐いた。

「まさかこのようなことになろうとはな」

 見下ろせば、嗣政は目を閉じてまだ一心に何やら祈りを捧げている。肩をすくめてからケヤキの枝に飛び移ると、そのまま地面へひらりと飛び降りた。高さにして身の丈の倍以上あったが、猫のような軽やかさで、嗣政がすぐには気が付かなかったくらいである。


「嗣政」


 声をかけられて、嗣政は飛び上がった。

「あっ、兄上……こ、これはその……」

「……明日から、私も学問をするぞ」

「は?」

 突然の宣言に、嗣政は目を丸くして兄を見た。

「……家のことは私がやる。だから、お前の時間は増える」

「……兄上、私の……聞いていらっしゃったんですか」

「手始めに何をしたらよいのか教えてくれ!」

「え、ええ……? ひどく突然ですが、思いつきで学問をなさっても、きっと長続きはしないかと……」

「よいからよいから。とにかく、お前はこれからは好きなことももっとやれ。私は十分してきたから」

「ええ……」

 挙秋は怪訝そうに首をひねる弟の背を、無理やり屋敷の方へ押す。その背と肩は弟の年頃の男子にしては、小さいように思われた。

 空を見上げれば、丸い月に鳥のような影が見えたような気がした。

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