ある春の恋【再録】

 ある春のこと。夕焼けが特に美しい日だというのに、小式部内侍こしきぶのないしには歌の一つも浮かばなかった。大二条殿おおにじょうどのの寵愛を得て久しく、毎日のように寝所へ呼ばれた時期もあった。いや、まだあの頃と変わらない。きっと求められている。

 そう思いたかった。

 努力はした。時に、拗ねてみせ、時には甘えてみせ、恋文には素っ気なく。思いつく限り、駆け引きを仕掛けたし、仕掛けられたら乗った。楽しく甘い恋だった。

 こうして過去形で考えてしまうくらいには、この関係に危機感を覚えている。

(あの方がお通いに来られなくなって、どのくらい経ったのかしら)

 小式部は簀子縁(縁側)の隅に腰掛けて、ぼうっと庭へ目をやっていた。夕焼けの朱に照らされた桜はちょうど見頃で、一人きりで眺めるにはもったいない美しさで。こんなに美しい春の夕暮れ、夕陽に照り映える桜。通常であれば、見た瞬間に言の葉が溢れてくるのに。

(去年は殿がうちの桜をご覧になって、ちょうどここにお座りに。そう。だから枝をひと挿し手折って差し上げて……)

 ことり、と傍らの柱に頭をもたせかける。

 疲れた、と思った。切れかけた縁をつなぎとめるために、とるべき方法はいくつかある。初めての恋愛でもない。あの方の好みもわかっている。ただ、今は、目の前の庭に目をやることくらいしか出来ない。

 いや。

 本当は耳も澄ませている。

 あの方の車の、車輪が転がる音がしないかと。牛が地を踏みしめる音がしないかと。分かっている。蜜月のときでさえ、このように早い時間からお渡りがあることなど無い。日が暮れてから、忍んで。それが常識。たとえ今日の夕焼けが朱く燃えて、たとえ今日の桜が夕焼けに混じって朱く染まっていても。

 すっ、とまぶたを閉じる。西日が頬を照らす。築地の隙間から誰かに見られたら、という懸念が胸をよぎったけれど、もうなんだかそれも構わなかった。ただ、疲れていた。


 不意に。背後の床が軋む音がした。びくりと体を震わせる。背中に冷たい汗が流れる。強盗? 人を呼ぼうにも、喉が狭くなったようで、すぐに声が出なかった。

「  。」

 名を呼ばれた。

 彼女が愛した人しか知らないはずの、彼女の名を。

「……殿?」

 やおら頭を起こして、そろりと振り返ると、彼女が待ちわびていた人物が立っている。優しい瞳を、少し細めて。

 にじり寄りたい気持ちを抑えて、さっと顔を隠す。こんなにいきなり、なんの前触れもなくお越しになるとは思わなかったから。

「便りの一つもくだされば、もっときちんとお迎えのご用意をいたしましたのに」

 彼は穏やかに笑む。

「ただ、あなたにお会いしたかったから」

 こんな風に素直に求められたことは、いつぶりだろう。当惑して、女童めのわらわを呼ぶ。とてとてと近寄ってくる小さな童女は、高貴な直衣を身につけた殿方に息をのんだらしかった。

「殿に夕餉を。おもてなしの準備をなさい。他のものにも取り次いで」

 どきんどきんと暴れる胸を押さえたかったけれど、顔を隠さなくてはいけないので、小さくなるより他無く。とにかく、久方ぶりの逢瀬なのだから、化粧もきちんとしたかった。

「……殿、お願いがございます」

「なんだろうか」

「ほんの少しだけ私から目をお離しになって。ほんの少しの間だけ、私を下がらせてくださいまし。このままでは、とてもあなたさまにお顔を向けることができません」

 彼は可笑しげに、口元を袖で隠し、笑ったようだった。

「かわいい人。そのままで、構わなくていいのに。なれど、他ならぬあなたの仰ることならば」

 その言い方に躊躇いつつも、衣擦れの音を残し、小式部は部屋に下がることができた。白粉を塗りながら、はたと、殿は、あの美しい庭をご覧になっただろうか、と思う。目の前の彼に精一杯で、今日の夕暮れと桜の美しさをお知らせすることを失念していた。

(ああ、気の利いた歌を作れていれば)

 小さく唇を噛んで、もう一度、紅を引き直す。大丈夫、だって殿はあんなに優しかったのだから。きっと今日は良い日になる。一抹の不安を埋めるようにそう言い聞かせた。

 御簾越しに彼を見ると、食事にはほとんど手をつけていないようで、狼狽する。

「お口に合いませんでしたか」

 彼は、ハッとこちらの方を見て、眉を下げた。

「いいえ。こちらに参上する前に、人に馳走になりましたので。折角ご用意いただいたのに、申し訳ないことです」

 軽く汁をすすってから、彼は立ち上がり、御簾の傍らに腰掛ける。食事はもう終いだろうか。

「今宵は……」

 彼が御簾をゆっくりと持ち上げる。小式部は、はっと息を飲んで形だけ、本当に形だけとわかるようにゆっくり、拒むように体をよじった。彼は、ふ、と目で笑って、そっと小式部の頬にかかる髪を人差し指で掬い上げる。

「誰より近くでお話いたしましょう。あなたのお話をゆっくりと聞かせてください」

 優しく抱き寄せて、小式部を腕の中に収めてしまうと、彼はそれ以上何もしなかった。少し拍子抜けしたような気持ちで、遠慮がちに上目を使って彼の顔を見上げると、彼は、ほんのりと熱を帯びた目で小式部の瞳を見つめ返すのだった。

 困惑するも、そこに情がないわけではないと察せられたので、幾分か安心して、胸を撫で下ろした。思えばしばらく会っていないのだから、話したいことだってたくさんあるはずなのだ。

「それでは……殿のお言葉の通りに。せっかくの素敵な春の夜ですもの」

 それから、とりとめのないことを色々と話した。新しく入った女房のこと、歌会で聞いた素晴らしい歌、子供のころの話……彼は、ゆるく小式部を抱いたまま、優しい目でそれを静かに聞いていた。ほとんど自分の話はせず、時折ふわりと話の続きを促し、短くも丁寧な感想を述べる程度だった。「ねえ、あなた……何かお話になってくださらないの?」

 少し甘えた声音でそう尋ねると、彼は困ったように眉を下げた。

「あなたの鈴の音のような声がおかわいらしいから、つい。こうしているだけで、とても幸福で」

「まあ」

 そのようなまっすぐな言葉をかけられたことは、出会ったころ以来だろうか。小式部は少し恥ずかしくなり、すっと庭の方を指した。

「そう、そうだわ。うちの庭はご覧になりました? 今日は夕暮れに映えて、とても美しかったの。何かよい歌が詠めればよかったのですけれど。なんだか、そんな気分になれなくて……」

 あたりは暗く、桜の木もまだよく見えなかった。縁側に花びらの一つ二つ舞って来てはいないだろうかと少し身を乗り出せば、彼はぎゅっと小式部を抱きすくめる。

「ええ。存じています。庭からはあなたの姿がよく見えることも」

「あら……そうなのかしら。恥ずかしいわ」

 殿が庭に立ってこちらを眺めているのを見たことはない。いつの間に見られていたのかしら、と不思議に思った。

「あなたはいつだって美しくて、目が離せません」

 遠くの山の稜線が、ほんのりと浮き出す。きっともうすぐ空も白んでくるだろう。それは、別れの時間も近いということ。名残惜しく、彼の手の上にそっと自分の手を重ねる。その手は見た目よりも節くれだっていて、木肌のように硬かったので驚いた。彼はこんな手だったかしら──。

 小式部が思わずこわばってしまったのに気が付いたのか、彼はするりと手を離す。

「……もうお別れのときですね」

「ま、お待ちになって……」

 穏やかで優しい時間が終わってしまうのが寂しくて、小式部は彼の袖口をきゅっと握った。彼の袖は少しほつれていて、握った手の中に細い糸が残るのに気がついた。

「かわいらしいあなたを置いていくのは身も引き裂かれるような気持ちですが、さあ、もう行かないと。ありがとう、愛しい人。私にとっては奇跡のように素晴らしい夜でした」

 なぜか、彼はそのまま庭の方へ歩き出す。帰るなら、方向違いなのに。

「ねえ、あなた……あなたは……」

 その先を尋ねるのがためらわれて少し言いよどむと、彼は半分振り返って、穏やかに笑った。


「──ずっと、あなたを見ていました」


 彼がそう言い終わるか終わらないかのうちに、ざあっと強い風が吹き込んだ。たくさんの桜の花びらをまとった風が、小式部の周りを舞う。思わず袖で顔を隠し、目を閉じてしまった。

 風がおさまって目を開けると、そこにはもう彼の姿は無かった。

 しばらく呆然としていたが、はっとして手元を見ると、そこにはまだ彼の衣の細い糸が残っている。そしてそれは、縁側の向こうまでもずっと伸びているようだった。

 胸がどきどきと高鳴るのを感じながら、はだしで庭に下りる。ひんやりと冷たい庭石の感触。ゆっくりゆっくり糸をたどる。朝露に濡れた葉を除け、たどり着いたのは──。

「桜」

 根元に立てば、見上げるほどに立派な桜の木。この庭の一番の自慢の桜の木の、大ぶりな枝の先に糸は絡みついていた。

「不思議なこと。あなただったのかしら」

 桜は何も答えない。

 小式部は、しばらく糸を絡ませた自分の指と桜の枝を見比べていたが、やがてそろりと近づいて、そっと身を預けた。ごつごつとした木の皮を撫で、日が昇りきるまでそうしていた。


 のちに、大二条殿はその日は管弦の宴があり、宮中に泊まりこんでいたという噂を聞いた。屋敷の者は混乱していたけれど、小式部は肩をすくめてちらりと庭の桜に微笑みかけた。

 桜は、風に合わせてさわさわと、終わりかけの花を揺らしていた。

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