てのひら短編集

皐月あやめ

図書館の幽霊

 うちの大学の図書館には幽霊がいる、という噂があるらしい。入学した年の夏の初めに、民俗学の先生が話していた。


 ぼくは大学に入ってこのかた、時間があればずっと図書館に入りびたっている。

 理由は全くシンプルで、友達がいないから、そして本が好きだからだ。

 大学の友達ってどうやって作るのだろうか。入学後のオリエンテーションやら手続きやらで大学に行ったとき、周囲を見ると何故かすでにグループが形成されていた。入学前からの友人なのかもしれない。

 慣れない一人暮らしでいっぱいいっぱいだし、オンラインでのリモート授業が主だし、サークル活動もないし、コミュりょく検定があったらミジンコ級のぼくはもう投了レベルに詰んでいた。気がつけば立派なエリートぼっちだ。


 もともと友達が多い方じゃない。一人でいるのは嫌いじゃない。けれど、自ら一人でいるのと、一人にならざるを得ないのは全然違う。授業で不安なことがあっても相談する人がいないし、テストが難しくてもそれを愚痴り合う人もいない。お昼を食べる約束ももちろんないから、今日もぼくは創立者の座像と向かい合わせになって生協のおにぎりを食べた。一個70円の焼き鮭のおにぎりは、いつだってしょっぱい。


 そんなぼくが挫折せずにやって来られたのは、ひとえに図書館のおかげだ。膨大な資料を所蔵する大学図書館は、カラカラのぼくを潤すオアシスだった。お気に入りは近代文学作家の古い全集がずらりと並んでいるコーナーだ。それは何故か地下三階の薄暗い一角にあって、いつも涼しかった。有名作家の初版全集やそれに近い年代の本が揃っているというのに、人はほぼいない。多分、上の階に新しくきれいな全集があるからそっちを読むんだろう。

 このご時世毎日通うことができないのは寂しかったが、可能な限り、夜まで図書館にこもって本を読んでいた。活字を追っていると、満たされていくような感覚があって、寂しさや虚しさなんて感じなかった。小説の中の孤独な主人公とならきっと分かり合えるんじゃないかと勝手に期待して、越えられない次元の壁にうなだれる。

 そんな日々を過ごし、気がつけば2年になっていた。ぼくはまだ、図書館の幽霊には会えていなかった。


 夜8時を過ぎると、図書館はどの階も静かだ。テスト期間でもないのにそんな時間まで本を漁っているのは、論文やレポートに追われている上級生か、ぼくのようなよっぽどの物好きかのどちらかだろう。

 最近は地下四階にある、明治以前の本を所蔵している場所にも出張するようになった。百年以上前の本を普通に触れるってすごい。ちょっとだけタイムスリップしたような気分になる。それに、ここなら、出てきてくれるんじゃないかな、なんて。

 ぼくは初めて幽霊のことを聞いた日から、会いたくて仕方なかったのだ。きっと彼か彼女は、近くの席に座る誰よりも、ぼくといい友達になってくれる存在だと信じていた。先生の先生の代からいるって噂の幽霊なんだから、きっとこの辺の本はみんな熟知していて、たくさんのことを知っているんじゃないのかな。そうしたら、きっと話が合うんじゃないのかな。

 そんなことをぼーっと考えていたから、足音がこちらに近づいていることに気が付かなかった。

「わーっ!!」

 ドッ、と何かにぶつかってよろけた。ばさばさっと本が落ちる音。心臓の音がうるさい。ぼくが高齢者だったら命の危機を感じるレベルだと思う。

「ご、ごめんなさーい、てっきり誰もいないと思ってたから……って、あれ、もしかして」

 ぼくにぶつかってきた女の人は眼鏡を直してじっとこちらを見つめてくる。気まずくて目をそらした。

「君……幽霊だったりしない?」

「……」

 その単語を聞いて、つい直前まで考えていたことを言い当てられたような気がして一瞬息が詰まったけど、少し遅れて、自分が幽霊だと思われていることに気が付いた。

「ゆっ……幽霊とはぶつからないんじゃないですかね……」

 たいして面白くもない返しをしてしまった。彼女は「あー!」と納得したような声を上げて、ガクッとうなだれた。ぼくが言うのもだけど、ちょっと変な人だ。

「だよね。いやー、面目ない……巷で聞いたユーレーの特徴に似てたから」

「……初耳、です」

 幽霊って、特徴までぼくに似ているんだろうか。

「めがねでひょろっとしてて、ちょこちょこ時計を気にしていて、地味な色のパーカーを着てて、夏目漱石の本を持ってて、地下二階か三階に生息してて、20時を過ぎると目撃する可能性が高いんだって」

「あ、それたぶん……普通にぼくじゃないですかね……」

 途中まで脳内でメモする意気込みで聞いていたけれども、地味な色のパーカーというあたりから、完全に自分の自画像が浮かんだ。今日もグレーのパーカーだ。

「そうなの? すごい失礼じゃん、なんて、間違えたあたしが言っても説得力皆無か……あっ、やば、それなりに貴重な図書が若干曲がってる!」

 慌てて本を拾い集め始めたので、ぼくも自分の周りに散らばった本を集めた。確かにページの端がちょこっと折れているものもあった。

「あ、これ…ちょっと折れてますけど、このくらいなら、伸ばして上に重い本を置いておけばなんとかなるんじゃないですかね……」

「ありがとー。ごめんね幽霊とか言っちゃって。噂の幽霊がいるんなら、卒論手伝ってもらおうと思ってたからさあ」

 今度こそ、ぼくはしっかり固まった。先輩らしい彼女は本をタワーのように積み重ねながらちょっと苦笑する。

「引いた?」

 ぶんぶんと首を振った。

「い、いえ。あの、会えると……いい、ですよね……ゆうれい……」

「うん。幽霊ってさ、長い時間この図書館にいるんなら絶対配置とか詳しいでしょ。この資料はどこですかーとか聞いたらさ、絶対答えてくれるじゃん。いや調べろって話なんだけど」

 本のタワーが不安定に揺れるから、ぼくは上半分をそっと取った。積まれた本はほとんどが川端康成の本だ。

「あの、手伝います。運ぶの……また崩れると……」

「本当!? ありがとう! っていうか普通にタメ語で話してるけど……先輩だったりします? 今更だけど」

「い、いえ、2年です。あの、声、大きいんじゃ……」

「ヘーキヘーキ、この時間どうせこのへん誰もいないよ。あたしは桐野!」

「あ、はあ……倉本、です」

 そこから桐野さんが作業している机まで運ぶ間に、所属学部や今とっている講義の先生の名前、出身地や高校まで、気がついたら情報を渡していた。この人が詐欺師だったら、ぼくはカモでしかない。わかっていても断れないのは、ぼくの性格も大いに関係しているけれども、この人もまた幽霊に会いたい人だという親近感があった。そんな人、ぼくの他にいないと思っていたのに。

「倉本クンはいつもこの時間にいるの? レポート?」

「いや、その……」

 流石に少し言葉を濁すと、桐野さんが首をかしげる。

「もしや趣味で? 熱心だね、こんな薄暗いところで……」

「ゆっ、ゆうれい、いないかなーって。あ、あはは」

「なるほど肝試し!」

「あ、いや、ええと……ぼ、会ってみたくて」

 目の前の先輩に引かれることより、幽霊が気を悪くしないかな、なんて思ってしまったぼくは、やっぱりおかしいかもしれない。

 ぼくの言葉を聞くと、桐野さんがうんうんと頷いた。

「じゃ、一緒だなあ。もしかしたら、幽霊に会いたいと思っている者同士、幽霊が引き合わせたのかもね。めんどくさくて」

「め、めんどくさくて……」

「もうこっちは気にしないで二人で喋ってろ的な! はは」

 桐野さんはからからっと笑った。そういえば、大学に入ってからまともに人と話すのは初めてかもしれない。だからちょっとだけ、勇気を出して、おそるおそる話し出した。

「川端康成の初出が載ってる『新潮』は地下三階にありますよね。ぼく、初出と比較するのとか好きで……」

「えっ、どの辺?」

 桐野さんが目をまん丸にするものだから、迫力に圧されて一歩後ろに下がった。

「か、階段下りて、通路をずーっと左に……」

「わー、さっそく行こ! ありがとうありがとう! ねえ、ここで会ったのも何かの縁だし、明日お昼一緒にどう? ちょっと資料探し手伝ってくれたら、おごっちゃうよー」

 思わぬお誘いに、ぼくの脳はオーバーヒートしそうだった。同級生とも食べたことがないのに、女の先輩とお昼だなんて。

 でも、机に積み上げられた近代文学の本のタワーを見て、ゆっくりうなずいた。次の瞬間にはもう連絡先を交換させられ……じゃない、交換していた。この人はとにかくやることが早い。

「じゃあ、明日のお昼食堂でね。あたし授業ないから席取っとくよ。じゃ」

 それだけ言って、桐野さんはさっきぼくが教えた本棚の方に早足で歩いて行った。嵐……というよりは、つむじ風に巻き込まれたような、一瞬のことにしばし呆然としていたけれど、ふわふわとした気持ちのまま、帰路についた。

 幽霊には会えなかったけれど、もしかすると本当に、通い詰めるぼくに根負けした幽霊が引き合わせてくれたのかもしれない、なんて思う。


 明日食堂で食べるご飯は、きっとおいしいんだろう。

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