第52話

「おはよう、夏生」

「おう」

 その翌日。席に着くのと同時に諌矢と挨拶を交わす。そこで初めて、妙に静かな俺の席の周りに気づいた。


「何だ……」

 違和感の正体はすぐに分かった。

 いつも竹浪さんの所に集まっていた西崎や、その取り巻き連中がいないのだ。


「竹浪さん。おはよう」

 隣の竹浪さんに挨拶をすると、一瞬面食らった顔が出迎える。

 当たり前だ。俺は普段自分から女子に挨拶なんてしない。


「お、おはよ」

 挨拶は返してくれるが、竹浪さんと前席の女子は狐につままれたような表情のままだ。

 そのまま会話に戻っていく二人を余所に、俺は遠く離れた廊下側の席を窺う。

 西崎は黒髪ショートカットの取り巻きと何か話をしているようだった。こちらに来る気配は無い。周りには西崎と席が近い須山や工藤といったおなじみのリア充グループの姿もいる。

 須山達はいつものように馬鹿みたいな声で騒いでいた。しかし、西崎はどこか遠い目をして、ぼんやり座っているだけ。いつもとは明らかに違う。

 その憑き物の取れた様子に、俺は違和感を覚えた。


 もしかしたら、昨日の話を聞いて竹浪さんが西崎に注意してくれたのかもしれない。

 竹浪さんは底抜けに明るくて須山みたいに馬鹿っぽい。

 でも、意外とちゃんとクラスの情勢を見ていて、観察力や空気を読む能力に長けているのだ。

 その辺は西崎なんかよりずっと精神的にしっかりしていると思う。西崎のブレーキ役になれる、クラスで唯一の存在なのかもしれない。

 ついでに、俺みたいな空気ポジにも配慮してくれて優しい。


「このまま穏便に事が運べばいいんだけどな」

 荷物を机に入れながら、俺は内心ほっとしていた。

 球技大会の本番までは一週間と少し。このままの状態で赤坂を何とか練習に引き出す。そんでもってチーム内の息を合わせれば、何とかなりそうな気がして来た。




「赤坂」

 その日の放課後。チャイムと同時に廊下に出た赤坂の背中を俺は呼び止める。

 廊下にはちらほらとこれから帰る生徒達が溢れ出し始める。その喧騒の中、赤坂は俺をじっと見返していた。


「今日は――」

「ごめん、今日も帰らせてほしいんだよね」

 赤坂は何とも気まずそうに俺から視線を外す。


「西崎達に何か言われたか?」

「別に、何も言われてないけど……でも、ごめん」

「分かった」

 しかし、ふと動き出した足を止める。


「怒んないんだ?」

 赤坂にしては珍しく、申し訳なさそうな顔で俺を窺っていた。


「まあね。あの球の速さ見たら俺は納得したし」

 実際、赤坂のストレートは十分に一線級だった。元々運動神経も良さそうだし、ソフトボールも中学でやっていた。殆ど素人相手の球技大会なら、練習無しでもいけるレベルにある。


「でも、どっかで一日くらいは練習に出てほしいな。そうしないと気が収まらないヤツは西崎以外にもいると思うし」

 赤坂がどこかで顔を出して、チームメイトと友好的にやってくれればとりあえずは形にはなる。

 だから、念を押しておくのだが、


「ごめんね、一之瀬」

 そのまま赤坂は階段へと向かっていってしまった。


「何とかなるのかなあ、これ」

 赤坂が練習に出にくい気持ちも分からんでもないけど、自意識だけが暴走している感が否めない。俺の方まで放課後の練習するのに気が重くなってきたじゃないか。


「このまま練習に行くのもなんかだるいなあ」

 俺は階段を下りず、そのまま校舎を直進。旧校舎に足を踏み入れた。

 渡り廊下を越えると、放課後の喧騒は一気に遠くなる。それと入れ替わりに感じるのは、どこかひんやりとした古い校舎の空気だ。

 心なしか匂いまで違う旧校舎の薄暗い廊下。俺はこの雰囲気が嫌いじゃない。寧ろ、この静かな空間が好きだ。誰もいないので気分が高揚してくるくらいだ。まさに、ここからが俺のフィールドって感じ。

 赤坂に強く言えないもどかしさ。事態がなかなか好転しない現状。それが辛くなった俺は、せめて気晴らしにと、屋上への階段を上る。


「どうせ、赤坂は帰っちゃったし、いいよな」

 ひたひたと静かに響く湿った靴音。暗い校舎の踊り場で、僅かに差し込む光は儚げで美しい。

 用済みになった机が重ねられているだけの空間。薄暗い中で煌めいているのだって、ただの埃に過ぎない。

 それなのに、どうしてこうも幻想的な風景に見えてくるのだろうか。

 階段を上りきる。その先にある屋上へと繋がる扉。


「あれ?」

 しかし、そこで、俺は扉が半開きになっている事に気づいた。


「まさか、鍵どころか蝶番までぶっ壊れてるのか?」

 勝手に開いているのは流石に不味い。鍵を壊した張本人は俺だけど、それとなく先生に報告しておいた方が良いだろうか。そんな事を考えていたら、扉の向こうに人の気配を感じた。


「誰かいるのか?」

 半開きになった隙間。その先の屋上に制服の後ろ姿。スカートの裾っぽいのが揺れているのが見える。

 女子か。でも、赤坂はもう帰った筈。一体誰が……

 俺は何も考えず、開きかけの鉄扉を押す。


「は?」

 そして、屋上で出迎えたのは意外過ぎる、見慣れた顔だった。


「何であんたがここにいんの? 意味わかんないんだけど」

 振り返り、金髪を揺らして立ち尽くしていた女子生徒。

 それは何と、西崎瑛璃奈だった。


 オレンジの空の遠く。解れた雲の欠片みたいなのが、一掴みだけ浮かんでいる。

 その下で西崎は短いスカートの裾を揺らしながら、半身だけこちらに向けていた。


「……何?」

 しかし、いつもの高圧的な表情は鳴りを潜めている。どこか不味い物でも見られたかのような、そんな後ろめたさすらある。


「西崎こそ、何でここに来てるんだよ。屋上は立ち入り禁止なんだぞ」

「うるさい。鍵壊れてんだからいいじゃん。てか何ですか? 言い方超うざ」

 その瞬間、眉をひそめて掛かってくる。いちいち心臓をかきむしるような言葉の暴力。うざいとか女子に直接言われたら立ち直れる気がしない。

 それでも、西崎にいつもの覇気は無い。どこか投げやりな口調に感じられる。


「別に、鍵がぶっ壊れてたから気分転換に来ただけだよ」

 ぶっ壊したのが俺なのだから我ながら白々しいな。

 開けっ放しの扉を後ろ手で押すと、ぱたんと閉まる。

 どうやら、西崎が閉めきるのを忘れていただけのようだ。


「あたしも気分転換だし」

「ドアも閉め忘れる程に動転してたのかよ」

「本当うざい。ほっといて」

 西崎は俺から目を背けるとそのまま歩いて行く。


「――ッ!」

 と、靴音がかたんと鳴り、西崎の身体がぐらついた。

 屋上の床から飛び出した突起物に躓いたのだ。


「おい!」

 咄嗟に駆け出して手を伸ばそうとした。

 西崎は息を漏らしながらも片方の手をついて、何とか床にへたり込む。


「大丈夫……?」

 恐る恐る近づき、手を差し伸べる。その下でぺたんと足を広げて座る西崎。


「ムカつく」 

 睨みつける西崎の視線に気づいて我に返る。元々この屋上に生徒が入り込めるようになったのは俺が扉を壊したせいだ。

 もし、西崎が怪我をしていたら、それも俺の責任になるのだろうか。そんな不安がよぎる。


「本当何。今日なーんもいい事ないし。マジ腹立つ」

 俺が差し伸べたままの手を睨みつけ、西崎が立ち上がる様子は無い。


「ほっといてって言ってんの!」

 その声はどこか震えていた。言い方に棘があるが、いつになく弱気だ。


「西崎。お前なんかあったの?」

「何で構ってくんの。あんたの言い方もうざいし」

 そう言って口ごもる西崎。何時もの強気さが全く無い。

 いつかの放課後に対峙した時の姿にそっくりだった。

 腹痛に襲われ、割と本気で切羽詰まっていた俺は西崎相手に必死に言い返した。

 でも、こいつは俺がマジギレしていると思ったのだろうか。弱腰になった挙句、涙を浮かべて大人しくなってしまった。あの時も確か夕方だったっけ。

 しかし、今の西崎の落ち込みっぷりはあの時以上に酷いと思う。

 ああ、気まずいなあこの感じ。見ちゃいけない物を見てしまった。

 このまま見なかった振りをして校内に戻る事も出来る、俺はそんな事を考えた。

 その後も教室では知らんぷりを決め込めば、この件は終わりだ。

 実際、西崎に呼び出されて逆に半泣きさせた時も、後から言われる事は無かったし。


「…………」

 俺は、ドアノブに手を掛け、もう一度西崎の様子を窺う。

 先ほどまでと何ら変わらない。西崎は屋上の床にへたり込んだままだ。

 そこにはいつもの高慢さ、教室内で女王のように振る舞う面影は微塵も無い。

 夕陽を浴びて金色に乱反射しているカールがかった髪。それを見ながら、俺はいつまでも屋上から去れないでいた。

 そもそも、何でこんな辺鄙な旧校舎まで来ているんだろう。この屋上は俺が鍵を壊す以前から立ち入り禁止で、看板だってそのまま。それで何でわざわざ屋上に踏み入れたのか。

 まさか、今の俺みたいに、屋上で現実逃避でもしようと思ったのだろうか。

 弱気に打ちひしがれた言動振る舞いも気になる。女王西崎のメンタルをこうも摩耗させるような出来事があったとでもいうのか。

 西崎をこうまでさせるような要因なんて……あ。


「もしかして、西崎。諌矢にでも振られた?」


 一つだけ、心当たりがあった俺は、思わず口走る。そして、言った瞬間にその発言のヤバさを思い知った。

 やばい。また考え無しに言ってしまった。

 虎の尾を踏んだ気分で、恐る恐る西崎を見る。


「何で、あんたが知ってんの……」

 へたりこんだ西崎の華奢な身体はぴくりとその動きを止めていた。

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