第9話
翌朝早く。
俺は旧校舎を歩いていた。何故か隣には赤坂もいる。
多くの教室や職員室がある新校舎とは違い、旧校舎は古い土器を保管した資料室や、生物標本を保管した第二生物室など、物置代わりの教室ばかりだ。授業では滅多に訪れない。
しかも、新校舎の陰になっているので日当たりも最悪だ。
建物自体の古さもあってか、廊下はまるで学校の怪談のようだった。
「で、こんな場所に何の用だよ?」
「分かってないわね、一之瀬夏生。良かれと思って案内してんだけど」
赤坂は超攻撃型の本性を最早隠そうともしない。ずんずんと階段を上っていく。
朝、美祈さんの家の前で待ち構えていた赤坂に捕まった俺は、ここまで連れ出されてきた。
「ったく、何なんだよ」
まだ早い時間というのもあってか、古びた校舎内には他の人間の気配は全く感じられない。
その静けさは心の芯から身体を寒くさせる。
「ここよ」
暗い廊下の突き当り、扉の無い男子トイレの前で赤坂は立ち止まった。
「旧校舎なら殆ど誰も来ないでしょ。今度からここでしなよ」
そう言って、赤坂はトイレに入る様に促す。
赤坂の先に立って覗き込むと、内部は真っ暗闇に包まれていた。
「ちょっと待ってくれ。そんな急に『しなよ』って言われても……」
人がいない場所なら、気にせずトイレに入れる。赤坂はそう言いたいのだろう。
しかし、暗がりにぼんやりと白く浮かんだ小便器は古臭く、妖怪でも出てきそうな雰囲気だ。
「せっかく見つけておいたんだから感謝して欲しいくらいよ。これからの昼休みは大通りで出くわすなんてもう無いよね? さあ、早くッ」
「犬の散歩感覚で人に用を足させるのマジでやめろ」
急かされるまま、俺はトイレに足を踏み入れる。
スイッチを押すと蛍光灯が重苦し気に明滅を繰り返し、ようやく点灯。
鈍く照らし出されたトイレ内は、酷くカビた匂いがした。
「何、怖いの?」
「は!?」
俺が中で立ち尽くしていると、赤坂がからかうような声音で笑う。
人の感情を逆撫でするような意地悪い言い方に、俺はムッとして睨み返した。
「そんな訳ないだろ。もう高校生だし……あのな。心霊なんかよりも、生きてる人間の方がこの世の中じゃずっと怖いんだぜ? 婆ちゃんが言ってた」
「え、何……じゃあ一之瀬。ここに出るっていう花子さんも平気なの?」
「マジ!? ここ出るの!?」
「嘘に決まってんじゃん」
あからさまに狼狽する俺を見て、赤坂は今度こそ腹に手を当てて大笑いした。
「あはは。本当に神経質で怖がりなんだね」
「うるせえ……」
このまま笑われ続けるのも癪なので、俺はトイレ内の個室に向かう。
ところどころ塗装が剥げ、毛羽立った下地の木材が剥き出しになった扉。
――やってやる。バカにしやがって。
俺は意を決し、中を覗く。
「Oh……」
そして、自分でも聞いた事のないような声が漏れた。
古めかしい和式便座がそこには鎮座していた。
美祈さんの家の真新しい洋式便座に比べるとすさまじい落差。しかも、床のタイルの溝は黒ずみ、水道管にも青サビが浮き出ている。
「どうしたの? 花子さんでもいた?」
扉の前に立ったまま、踏み出せない俺。それを見て、赤坂はさもおかしそうに口許を押さえて笑う。
完全にバカにされている。
俺は『いねーよ』と返しつつ扉の鍵を閉めた。
古い便器はそれでも掃除が行き届いているのか、暗闇できらりと光沢を放っている。
もしも、トイレに本当に神様がいるのなら――今ここで俺が用を足すのをどんな思いで見ているのだろうか。
忘れ去られた校舎の片隅のトイレ。そこに突如現れたのが俺だ。
使用されずに、ただ漫然と存在し続けて来たトイレ。
彼にとって、それは報われていると言えるだろうか?
人に作られた物にとって、使われ続ける事こそが、至上の喜び。そう考えるのは、果たして俺が万物の霊長の一員であるが故の驕りなのか。
歴史を紐解けば、才能を発揮させる事無く朽ちていった英雄は数多い。
そんな彼らの無念さをこのトイレに重ねて思いを馳せ、俺は立ち尽くし――
「ああクソ。結局のところ、時間稼ぎをしてるだけじゃないか!」
俺は扉に掛けられた鍵を抜いた。
「何? 終わった?」
トイレを出ると、赤坂が廊下の壁に背中をもたれて待っていた。
「ダメだった」
「は?」
赤坂はいじっていたスマートフォンをしまい込む。何言ってんだ、コイツという冷たい表情。
「大体、この状況で出るわけないって。それに、出たい時に出る身体なら苦労してないんだよ」
過敏性腸症候群というものは、自分の意思とは関係なく突発的に腹痛を催すものだ。
しかし、その事情を知らない赤坂は、露骨に顔をしかめる。
「やだ、便秘……?」
「違うって言ってるだろっ!」
泣き出しそうな声で俺は訴えた。
「なるほどね。それならやっぱ、腸内環境を先に整えるとこからね」
赤坂はボレロになった制服の上着――そのポケットから何かを取り出す。
俺に手渡したそれは、べっこう色の小瓶で、中には白い錠剤が幾つも詰められていた。
「整腸剤よ。昨日ドラッグストアで買ったの」
「これ、くれるのか?」
赤坂は無言で頷く。彼女の横顔が廊下の遥か遠くから届く日光が照らしつけ、陰影を作る。
二人きりの旧校舎。
女子からプレゼントを貰う、何ともロマンティックなこの構図。
青春っぽくてセンチメンタルな状況じゃないか――目の前にあるのが整腸剤でさえなければ。
「私としても……そのふざけた体質を改善してもらわないと困るからね。だから、あげる」
赤坂は素っ気なく言った後で、はっとしたように顔を赤くした。
「あ、でも……一之瀬。まさか、今ので変に勘違いしてないよね?」
何故ここでデレる。今までの攻撃性が嘘みたいだ。本当に分からないよ。
「チョコじゃあるまいし、何でそうなるんだよ! これただの整腸剤だろっ!」
素っ頓狂に叫んだ木霊が、旧校舎内に響いていく。
「一応言っとくけど、私はこの問題を解決したい一心で整腸剤を買っただけ。それ以下でもそれ以上でもない」
「当たり前だろ! もう十分、俺のせいで迷惑してる事は分かったってば!」
それでも一応、赤坂は俺の体質を何とかしようとしているんだよなあ、多分だけど。
気を取り直しつつ、もらった小瓶のラベルを一瞥する。
「でも、まあ――下痢用の薬なら、いつも持ち歩いてるんだよね」
そして、反対側のポケットから同じようなべっこう色の小瓶を取り出す。
そのてっぺんにはオレンジのキャップが締められ、ラッパのマークが刻印されていた。
なんてことはない、ただの下痢止めだ。
「こいつは本当に効くんだ。俺はいつも携帯している」
「ちょ、それ滅茶苦茶くさいやつじゃんっ!」
しかし、国民的下痢止め薬を見た瞬間、赤坂は血相を変えて後ずさる。
「まあ、確かにこの匂いは苦手な人が多いもんな。でも本当に効くんだぜ?」
俺は手に握り締められた下痢止めと、赤坂から受け取った整腸剤を見比べた。
二つ飲めば効果は倍増するのだろうか……そんな考えがよぎる。
しかし、今言うべきは赤坂への感謝の言葉だ。それが人として最低限の礼。
俺はクソッタレだがそれよりもまず、人で在りたい。
「ありがとな、赤坂。女子からもらった、初めてのプレゼントだよ」
「~~~ッ!?」
そんな風に頭を下げた途端、かあと赤面する赤坂。
「どうでもいいから早くそれ片付けて。私にまで匂いが移ったら余計怪しまれるじゃない!」
照れ隠しなのか、本当に嫌なのか。まあ、本当に嫌な方だろう。
「本当有り得ない! 臭すぎるし!」
愚痴りながら階段を下りていく赤坂。
その背中を見送ったタイミングで、チャイムが鳴った。
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