新しい祈りの日
郷愁との偶発的な再会を喜ぶ鉄面皮な白犀
第1話「白い建物」
「終わってる……」
「コンパスどっか行っちゃったよ、どうすんの」
彼は斜面に足を取られ、それなりの距離を滑り落ちて今ここにいる。方向音痴な彼の必需品であるコンパスはどこかへと消え、地図も行方知れずとなっている。とりあえずライフルなど装備品は無事なようだ。立ち上がって土を落とし、周囲を見回す。
もはやここがどこかは分からない。そもそも、三十分前に地図を確認して以降、どの方向に進んできたのかなど全く覚えていない。まあ時計はあるので、太陽と照らし合わせれば方角は分からなくもない。
「十五時二十三分か」
太陽はいい感じに南西の方角に傾いている。
「まあ方角分かっても地図ねえからな、どちらにせよ場所が分からん」
雁屋は早々に諦めて、とりあえず今の不安定な斜面から移動することにした。さっと身体を翻すと、足下で何やら金属的なものとぶつかった音がする。ん、と思ってのぞき込めばそれは無線機だ。ごく最近になって配備され始めた最新型、超短波で動作し最大十五キロまで通信可能で、もちろん暗号化も十分。その上、どこの国のものだが知らないが、衛星から位置情報など色々な情報を送ってもらえる。
雁屋はその無線機を拾うでもなく、拳銃で撃って壊した。二発の強装トカレフ弾が無線機の基板を破壊し、使い物にならなくなる。ごく一部の部隊にしか配備されてない超貴重品なんだけどな、と思いつつも清々した気分になった雁屋は、とりあえず西向きに山を下りることにした。
背嚢に入った水と食料は二日半分。正直十分とは言えない。蛇なりアライグマなりを捕まえて捌けば当然食料になり得るが、雁屋としては米が食えないのはキツい。かといって食糧庫を襲撃して奪うにも弾薬が心もとない。ほぼ事故のような形で原隊から脱走しているため、全くの準備不足である。
「おっ川だ」
都合の良いことに小川が現れた。幸い、簡易的な浄化装置は持っている。生水の細菌やら微生物やら、飲むに当たって危険となるものは除去できる。しかも、川には当然魚が住んでいる。野生生物を追いかけて山の中を走り回るよりも確実に食料を得られるだろう。
「まあ釣りの才能ないんだけどなぁ」
背嚢から水筒と浄化装置を取り出して、川の水を汲む。この浄化装置は大体の微生物を除去できる反面、濁りや毒物は除去できない。まあ、ここの水に毒を流す意味は全くないので安心できるし、上流の方だからか水も全く綺麗だ。浄化装置を通せば安心して飲むことが出来るだろう。
「浄化しないと飲めない水を『安心』と表現するのはちょっと違うけど」
冷たい川の水を飲んで少しは落ち着いてきた。米は諦めよう。白飯は山を下りきったあとに食べれば良い。水分も食料もこの川で確保できる。山の中なら歩いているうちに動物もいるだろうから肉も確保できる。
「やっぱクソ無謀だ!」
冷静になればなるほど、雁屋は自分がしようとしていることの無謀さに気づいてしまう。やはり狂ってないとこういう事って出来ないのだなあと思いながら水を水筒いっぱいに注ぐ。
計画を若干変更し、この小川に沿って山を下りることにした。歩きながら水中に視線を注ぐ。釣りは苦手な雁屋だが、魚に関しての知識が全くないわけではない。見ればどんな魚が生息しているか分かる。
「あれはソウギョか」
バチバチに食害を引き起こす外来種、ソウギョを発見した。顎口虫がいるので生食は危険だが、食用淡水魚であるため加熱すれば美味しく頂ける。是非捕まえたいが、恐らく釣りをしていると日が暮れてしまうので、雁屋はいったん無視した。背嚢の食料が持つうちに下山してしまえば良いのだ、それほど難しい話ではない。昼夜を無視した突貫突破になりそうな考えが一瞬頭をもたげ、雁屋はかぶりを振る。そんな無茶をすれば集中力が落ちてろくな事にならない。どだい、山の中を走り回って誰にも見つからない可能性は結構低い。二日帰らなかった時点で雁屋の原隊では捜索隊が組まれるだろう。戦闘になった場合勝ちの目はほとんどない。となれば、取るべき最適な方法は昼夜突貫の移動か──。
そう思い直し、いざ進もうとしたとき、ふと雁屋の視界に建物の姿がチラリと入り込んだ。
「なんだあれ」
よせばいいのに、雁屋はなんとなくその建物に近寄りたくなった。全く手入れされておらず生え放題の雑草をかき分けて進み、新緑の
周囲を有刺鉄線に囲まれているわけでもなく、一般的な菱形の金網によって仕切られているので、雁屋はこれが民間の建物ではないかと一瞬考えた。しかし、外の塗装は比較的新しめなので、正しくは"元"民間の建物か。それほど高くないので、足を引っかけて乗り越える。
雁屋はざっと周囲を回って建物を観察してみる。鉄筋コンクリート造り、二階建て。一階よりも二階の方が
「不穏だな」
雁屋はこの建物の存在を知らない。立場、というか配属されていた部隊の事情もあって結構幅広い情報を得ていたが、拠点からあまり離れていない場所にこのような建物があるとは聞いたことがない。
「何か極めて重要性の高い施設か、または何の価値もない廃墟か……」
だとしても、疑問は残る。壁の塗装は恐らく二年以内に行われているし、駐車場も最近まで使われていたと考えるのに十分な状態にある。廃墟説は完全に捨てた方が良いだろう。ここがただの物資一時保管用の倉庫だったとしても、雁屋ならその情報を得ているはずだ。となれば残る可能性は一つ、超機密施設の可能性だ。
「ペンタゴンのホットドッグ屋じゃあるまいし、マジで機密施設だろうって雰囲気だな」
なぜか二階にあるシャッターは物資搬入用途だろう。二階から搬入しなければいけないようなものが使用されていたのだろうと考えられるが、それがどのようなものなのかは雁屋には想像できない。
よせばいいのに、雁屋はこの建物に入りたくなってきた。今は解放されて少し気が抜けているところもあるのだろう、年齢相応に興味を持ったことに疑念を抱かず突撃しようとしている。本当にやめておいた方が良い。
雁屋は出入り口に近づいて、シャッターの取っ手を掴んで一気に引き上げる。案の定、シャッターはほぼ劣化しておらず素直に開いた。しかし、さらに鉄の扉が現れたことで雁屋は若干げんなりする。しかしここの扉も鍵が開いているようだ。ここまで準備が良いと何らかの罠の可能性も十分に考えられるが、あまり深く考えないことにした。
いよいよ施設の中が見えてきた。ガラスが割れて全く扉としての用をなしていないガラス戸の向こうには、白く染め上げられた建物の内装が見える。外側も綺麗な白だったが、内装はもはや病的と言っていいほどだ。恐らく廊下だろうか、奥まで続いているのが雁屋からでも見える。ドアノブらしきものも見えるが、それすら真っ白だ。
一歩、施設内に足を踏み入れた。
「まずっ」
わずか一瞬の出来事だった。何かいる、と直感した雁屋がホルスターに手を伸ばそうとした次の瞬間にはその”何か”が来た。ほんの一瞬地面がなくなったと思えば、そのとき既に雁屋は地面に組み伏せられていた。
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