俺の名前はデス・ザ・スターキッド。


『名前を笑ったヤツは皆殺し』をモットーとする暗殺者。


 ふざけた名前をしているが、これでも依頼完遂率は100%。現在はルーベンス王国第一王子、アレクセイ・ブロワ・ルーベンスの暗殺依頼を完遂すべく、侍従補佐官ルシウス・アンダーソンとして王宮に潜入している。


 ちなみに『ルシウス』というのは本名だ。どうやら偽名を考えるのを面倒くさがったギルドマスターが本名のまま必要な根回しをしてしまったらしい。……この依頼を完遂したら、ちょっとぶっ殺してもいいだろうか?


 まぁ、そのことは、ひとまず置いといて、だ。


 暗殺対象マトがデカかろうとも、やることはいつもと同じ。相手に察知されないように距離を詰め、サクッとひと刺し。それで終わりだ。


 実際に俺は先日、就寝中のアレクセイの元に潜入することに成功した。その瞬間に全ては終わるはずだった。


 そう。なぜか俺がアレクセイに押し倒されたりしなければ。


 ──いや、なんっっっでそんな話になるんだよっ!?


 俺は思わず噛み殺せないうめき声を上げながら頭を抱えた。そんな俺にチラリと視線を向けた仮初かりそめの同僚達は、何も言わないまま視線を前に戻す。


 うぅ……こういう『無駄に他人には干渉しない』っていう気風、助かる。実際のところ、これは優しさとかではなく、『他人を蹴落としてのし上がるのが当たり前』っていう貴族社会の冷たさからくるものなんだろうけども。


 ──一体俺がアレクセイあいつに何をしたって言うんだっ!? あんな展開になる要素、思い返したってどこにもないだろっ!?


 あの夜のことは、今でも鮮明に思い出せる。


 トロリと甘くとろけた瞳。嗜虐しぎゃくの色を隠しきれていない表情。不機嫌とは違う、低く威圧感のこめられた声。俺の体を這った手の熱さ。


 それらを思い出すと……


「〜〜〜〜〜〜〜っ!!」


 俺の体は悪寒を覚え、全身寒気が止まらなくなる。


 いや、女ならトキメくシチュエーションなのかもしれないが、あいにく俺は男でしかも暗殺者。そして相手はつい一瞬前まで殺そうとしていた相手なわけだ。


 恐怖でしかないだろっ!? 殺意を向けてた相手に理由不明で好意、つーか欲目を向けられるわけよ。怖すぎんだろ、そんなの!


 ……さっき『女ならトキメくシチュエーション』って言ったけど、訂正する。


 こんなシチュエーションは女であっても怖いはずだ。たとえ相手がイケメンの第一王子であってもだ!


 おまけに『ひ弱』って前情報があった相手に一瞬で組み敷かれて、全力の抵抗を余裕で押さえつけられてるっていう状況下。半泣きで持ちこたえた俺を褒めてほしい。


 と、いうわけで。


 俺、二代目デス・ザ・スターキッド(ダサい名前は師匠から無理やり押し付けられたものだ。俺はこの名前を襲名するつもりは微塵もなかったんだ!)は決意した。


 この案件、さっさと片す。


 デス・ザ・スターキッドの姿でマトと接触するのは(貞操の面で)危険だ。ならば侍従補佐官ルシウスの姿で接近し、事を成した方が早くて安全なのかもしれない。


 そう考え直した俺は、あの夜が明けた翌日から表の業務侍従補佐官従事中にアレクセイの隙を探っている……わけなのだが。


「静粛に。殿下のご入室です」


 その瞬間にパンッと打ち鳴らされた次席侍従の手の音に、部屋の中にいた人間が皆ハッと顔を上げた。机について作業にあたっていた侍従達はパッと起立して姿勢を正し、部屋の中を行き来していた侍従補佐官達は壁際に整列すると侍従達にならうように背筋を伸ばす。


 俺も他の補佐官達に紛れて並び、生真面目な顔を取り繕うこと数秒。


 部屋の外から微かな足音が響き、執務室の扉が外側から開かれた。重厚な扉の向こうから姿を現したのは、侍従長と護衛官を従えたアレクセイである。


「おはようございます、殿下」

「おはようございます!」


 次席侍従の発声に従い、執務室に詰めた全員の挨拶の声が響いた。さらにキッチリ全員が頭を下げると、フワリとアレクセイが微笑んだのが雰囲気で分かる。


「おはよう。皆、朝早くから御苦労様」


 その声を合図に、部屋に詰めた人間は一斉に顔を上げた。


 周囲の動きに合わせて顔を上げた俺は、さり気なくアレクセイを観察する。


 ──つくづく、正統派イケメン王子なんだよなぁ……


 サラサラの金髪。透き通った碧眼には理知的な光が宿り、甘く整った顔には淡く笑みが浮いている。アレクセイの周囲だけ、部屋に差し込む光が倍くらい集まっているのかとツッコミたくなるくらい、何だかキラキラして見える気がした。


 体つきは小柄で華奢だが、むしろその儚さがアレクセイの持つ柔和な美しさを引き立てている。顔つきが女性寄りなのも、『ひ弱』というよりもいい感じに気品や美しさを演出している感じだ。


 ほんと、何であの晩、全力で抵抗していた俺を片手で押さえつけることができたのだろうか。魔法か何かでも使えるのか?


 おっと、思い出したら鳥肌が……


「ルーシー?」


 一瞬、意識が今かられる。


 その瞬間、心配そうな声が俺に向かって飛んできた。ハッと意識を今に引き戻せば、俺の前を通過しようとしていたアレクセイが足を止めてジッと俺の顔を見上げている。やたら近くから俺を見上げてくるアレクセイの顔には、声と同じく心配が浮いていた。


「ルーシー、顔色が良くないんじゃないか? 体調でも悪いのか?」


『ルーシー』という女のような呼び名は、アレクセイが俺につけた愛称だ。『ルシウス(略)』だから『ルーシー』。分かりやすいし、実際に下街でそう呼ばれることも多々あるが、俺はこの略され方が仕事名と同じくらい不本意だったりする。


「無理をしてまで業務に励まなくてもいいんだぞ?」


 どうやらアレクセイは俺がひっそり鳥肌を立てているのを『体調不良』と見て取ったらしい。心配を隠さないまま、アレクセイはそっと腕を上げ、なぜか俺の顔に手を伸ばそうとしてくる。


 その光景に嫌でもあの日のことがフラッシュバックして、俺は思わずひっくり返った声を上げた。


「で、殿下!」


 さらに反射的に後ろに下がろうとするが、元から壁際に立っている俺に逃げ場などない。


 結果、半歩足を引いて革靴の踵を壁にぶつけた俺は、ついでに後頭部も勢いよく壁にぶつけた。


 ふ、不覚……!


「ルーシー!」

「だ、大丈夫です! ちょっとボンヤリしてしまっていただけですからっ!」


 実際問題、ごくごくありふれた茶髪の髪型を装うためにカツラを被っているし、その下には長めに伸ばした黒髪が束ねて収納されているから、俺の後頭部はかなりクッションが効いている。見た目よりも衝撃は受けていない。


 衝撃と言うならば、目の前にしたアレクセイが何やらグイグイと距離を詰めてこようとする行動の方に衝撃を受けている。


 何だ、何なんだ。その伸ばした手を下ろせ。まさか俺の正体に勘付いたりしてないだろうな……っ!?


 俺は引きりそうになる顔で無理やり笑みを取り繕った。


「私のような新人にまで、細やかな心遣いをいただき、感謝申し上げます。ほ、本当に、大丈夫ですので……」


 ついでにチラリ、チラリと周囲に視線を配ると、つられてアレクセイの視線も周囲へ散った。


 それだけで、アレクセイも気付いたはずだ。


 周囲の冷たい、突き刺さるような視線が、俺に向けられているということに。


 ──そりゃあさ、入って日も浅いポッと出の新人が、明らかに殿下に気に入られてたら面白くねぇよな。


 その辺りの心の機微は、アレクセイの方がさといはずだ。敏くなければ、これだけ王位継承権争いが激化している宮廷の中で、勢力を伸ばすことなどできない。


 血筋に恵まれ、能力を持ち合わせていようとも、立ち回りでヘマれば容赦なく追い落とされるのが貴族社会というものだ。アレクセイの来歴を踏まえて考えれば、この場でこれ以上俺を構い倒し、自陣に不和を生むのが得策ではないと分かるはず。


 そして俺としては、これ以上周りに不必要に睨まれるのは動きづらい! 暗殺業務を遂行する上で、不必要な面倒事が増えるのはごめんだっ!


「……くれぐれも、無理はしないように」


『いい加減に離れてくれぇ……!』という切なる願いが届いたのか、アレクセイの指は俺に触れることなく離れていった。そのまま身を翻したアレクセイに、俺は深く頭を下げる。


「皆、騒がせてすまない」


 侍従長がうやうやしく引いた椅子に腰を下ろしたアレクセイは、ペンを手に取りながらニコリと微笑んだ。


「今日も一日、よろしく頼む」


 その声を合図に、本日の業務は開始された。




  ✕  ✕  ✕




『侍従』というのは、アレクセイの身の回りの世話をする他に、執務のサポートを行う役職でもあるらしい。何人かいる侍従の中でも、身の回りの世話を専門とする者と、執務のサポートを専門とする者がいて、この執務室に詰める侍従達は執務のサポートを専門としている者達だ。


 ちなみに侍従長は四六時中アレクセイの傍らに控えていて、身の回りの世話もするし、執務のサポートもこなす。それを知った時は『王族ともなると、完全に一人になれる時間もないんだな』と少し哀れに思ったものだ。同時に『日中に暗殺しようと思うと、最大の障壁になるのはコイツか』とも思ったわけだが。


『侍従補佐官』というのは、文字通りそんな『侍従』達を『補佐』する役割を負っている。


 簡単に言ってしまうならば。


「ルシウス」

「は……」


『はい』と答えるよりも早く、ダンッという重い音とともに目の前に紙の山を積まれた。


 これは……本? いや、書類、か?


「それを全て書庫の所定の場所に片付けておくように」


 俺の前に山を築き上げた侍従は、言葉を言い終わるよりも早く自分の席に戻り、次の仕事に取り掛かっている。


 うっかり殺したくなったが、この場ではこう答えるしかない。


うけたまわりました、ハインリッヒ様」


 何とか笑みを浮かべて答えるも、侍従は顔も上げないし、頷くことすらしない。完全に無視だ。


 ──こん、の、ヤロ……!


 侍従補佐官の仕事とは、すなわち、侍従達にパシられること……もとい、侍従達が高度な仕事に従事できるよう、思考を必要としない煩雑な作業の一切を引き受けること、だった。


 つまりこの場では『アレクセイ≫侍従≫≫(超えられない壁)≫≫侍従補佐官』というヒエラルキーが確立されている。侍従補佐官は侍従やアレクセイに雑に扱われても文句は言えない。『文句があるなら辞めちまえ。お前の代わりを志願する人間なんて山程いる』というのが彼らの本心だと俺は踏んでいる。


 それでも侍従補佐官達が(内心、何を思っているのか、正直なところは分からないにせよ)文句を言わずにニコニコと仕事をこなすのは、将来侍従に格上げされる機会が少なからずあるからだ。採用する側もそのことを意識しているのか、ただのパシりであるくせに、侍従補佐官にはそれなりの家柄の、それなりに能力のある人間を採用しているという。


 侍従ともなれば、アレクセイの補佐ではあるが、国政の中枢に身を置くことができる。侍従に何らかの政策決定権は与えられていないが、第一王子、かつ次代国王最有力候補であるアレクセイと言葉を交わせる距離で仕事ができるというのは魅力的なのだろう。職場環境がドブラックでハイパーギスでも志望者が後を絶たないのはそのためだ。


 ──ま、俺は仕事の一環じゃなけりゃ、こんな場所、一分一秒でも早く辞めたいけどな。


『アレクセイ暗殺』という目的がなかったら、初日の数時間でこの部屋の住人の半分を殺していたかもしれない。


 いや、そもそもアレクセイ暗殺の仕事が降ってこなければ、俺はこんなところでこんなことはしていないわけなんだが。


 とにかく、どれだけ目の前のニワトリみたいな男を屠殺してやりたくなっても、依頼完遂のために今はグッと我慢だ。


 俺は上辺だけの笑みを取り繕ったまま、書類の山を持ち上げ……いや、重っ!? 何だこれ、クソ重いなっ!? どう考えても一人で一度に運べる量じゃないだろ!?


 思わずチラリとこの山を積み上げたハインリッヒに視線を投げると、一瞬顔を上げたハインリッヒはニヤリと実に悪役な顔でわらった。


 テメェ……マジで今この瞬間に、頭と体でお別れを言い合いたいらしいな?


 思わず無意識の内に袖に仕込んだナイフに指先が伸びる。


 その瞬間、カタンッと微かな音が響き、部屋の中の空気がサワリと揺れた。でもその『揺れ』は、風が忍び込んだとか、そういったたぐいの『揺れ』ではなくて……


「手伝うよ、ルーシー」


 こんな『揺れ』を起こす人間は、この部屋に一人しかいない。


 その張本人の動向を把握するよりも早く、俺の目の前に積まれていた書類の山が高さを2/3程に減じた。


 空いた空間の向こうに見えるようになったご尊顔が、俺を見上げてニコリと人懐っこく笑う。


「体調が優れない上に、入ったばかりのルーシーでは書庫の場所も分からないだろう? 僕が案内してあげよう」

「で、殿下……っ!?」


 ひっくり返った声を上げたのは、俺だけではなかった。常にアレクセイの一挙手一投足に注意を払っているこの部屋の住人達は皆、アレクセイの突然の行動に大なり小なり声を上げている。


「しっ、しかし……」

「僕も書庫に用事があるんだ。ついでだから、ね?」


 いや、困ります。


 あんまり二人きりにされると(貞操的な意味で)身の危険を感じるし、不必要に周囲の嫉妬も煽りたくない。


 デス・ザ・スターキッドとしても、ルシウス・アンダーソンとしても、この展開は歓迎できない……っ!


「殿下、そのような雑用くらい、このわたくしが……!」

「王族の人間にしか利用できない、閲覧制限がかかっている棚の本に用事があるんだ」


 たまらず声を上げたのはハインリッヒだった。


 いいぞ、ハインリッヒ。ここでアレクセイを思い留まらせたら、お前の屠殺……もとい暗殺は後回しにしてやってもいい。


 俺は密かに内心でニワトリ似の侍従を応援する。 


 しかし所詮しょせん、ニワトリはニワトリでしかなかった。


「それとも、何だい? イアン。君に僕の行動を制限できる権限でもあったのかな?」

「ヒッ!!」


 ユラリとハインリッヒを振り返ったアレクセイがハインリッヒを一瞥いちべつする。そのいつになく冷たい視線に威圧されたハインリッヒは、小さく悲鳴を上げながら縮こまった。


 まさに蛇に睨まれた蛙、狼に睨まれた鶏。


 おいおいおいおい、さっきの陰険さはどこ行ったよトリ頭!


「出過ぎた発言をお許しください」

「いいんだよ、イアン。君が僕を気遣ってくれたことは、分かっているからね」


 ……おーおーおー、そんなこと言う割に、目が笑ってねぇんだよ、王子様よ。ニッコリ綺麗に笑っときながら、さっきよりも視線が凍てついてんだよ、王子様よ。


「それじゃあ、行こうか、ルーシー」


 この部屋の絶対権力者はアレクセイで、アレクセイが強く望めば誰だって反対はできない。


 普段のアレクセイはそれをよく分かっている。だからこんな言動は滅多にしない。


 そんなアレクセイが見せた振る舞いだからこそ、この部屋の住人達は全ての不満を飲み込むしかないし、俺にはこう答えるしか道は残されていない。


「ありがとうございます、殿下」


 ──もしかして俺、正体バレてる?


 それともこいつ、好みのタイプには見境なく色目使うタイプなのか? 見かけによらず。


 俺は色んな意味で引き攣る顔で何とか笑顔を取り繕うと、残りの書類の山を抱えて、先に部屋を出たアレクセイの後に続いたのだった。




  ✕  ✕  ✕




 アレクセイは『入ったばかりでまだ書庫の場所が分からないだろう』的なことを言ったが、すでに俺の頭の中には王宮内の地図がバッチリできあがっている。もちろん、書庫の場所も知っていた。


 一階の、中庭に面した場所に書庫室はある。アレクセイの執務室の軽く十倍はありそうな広々とした書庫は、『書庫』という言葉からイメージするよりも随分瀟洒しょうしゃな空間だった。『書庫』よりも『書斎』と呼んだ方がいいのかもしれない。いや、両者の明確な違いがどこにあるのかは知らないが。


「それでは殿下。用事がお済みになられましたら、お声がけくださいませ」

「うん、ありがとう、リンデル卿」


 そんなことを思っている間に、この部屋の管理人だというリンデル翁は部屋を出ていってしまった。『なぜっ!?』と閉められた扉を愕然と見遣れば、背後でニコリとアレクセイが笑う気配がする。


「外してもらったんだ。僕が見たい書物は、王族以外の閲覧は禁止されているからね」


 いやいや! それならちょっと離れた場所にいてもらえば良くないかっ!? これだけ空間広くて、本棚で視界も適度に遮られてるわけだしっ!


 何で密室にアレクセイと取り残される展開になってるんだっ!? 危ないだろう、俺の貞操がっ!!


「そ、それでは私も、離れた場所で書類の片付けを始めますね〜」

「待って」


 俺はソロリとアレクセイから距離を取ろうとする。


 だがそれよりもアレクセイがパシリと俺の手首を取る方が早かった。


 イーヤーッ!! 何かいきなり距離詰めてくるじゃんこの王子っ!!


『暗殺者だと気取られないように』と意識している俺は、どうしてもある程度まで感覚を封じて行動しなければならない。くっ……! 普段の俺だったら、こんな不覚は取ってなかったのに……っ!!


「僕、ルーシーと二人きりで話したいことがあったんだ」


 俺が取られた手首を振りほどけないまま固まっていると、アレクセイはさらにグイッと距離を詰めた。下から見上げてくる表情はひどく真剣で、わずかに潤んだ碧眼には強い意思を宿っている。


「ナ、ナンデショウカ」


 一瞬、『あ、今ならサックリ殺れるんじゃね?』とも思ったが、いささか状況が悪い。


 確かに二人きりの密室で、距離も近い。ること自体は簡単だろう。アレクセイが己の死に気付くよりも早く殺れる自信もある。


 だが後からアレクセイの死体がここで見つかった場合、犯人が俺であるということは一目瞭然。俺が暗殺を完遂して市井に身を潜めれば『侍従補佐官ルシウス・アンダーソン』という存在そのものは消えるが、『犯人はルシウスである』という人々の考えは消えない。『ルシウス・アンダーソン』はアレクセイ暗殺の犯人として第一王子派の人間からしつこく追われることになるだろう。


 それではダメだ。暗殺というものは、犯人が誰であるのか、特定されない形で終わらせなければならない。


 しれっと殺して、翌日俺が犯行現場に顔を出しても、誰も俺のことは怪しまない。それが俺の理想形だ。


 ──とはいえ、二人きりの密室でこの距離は……


 そこまで思った、その瞬間。


 混乱から『一般人』の化けの皮が剥がれかけた俺の感覚の端に、微かな違和感が引っ掛かった。


 もしかして、今この状況……


「ねぇ、ルーシー。僕達って……」


 


「っ!」


 俺はとっさにアレクセイに掴まれた手首を引いていた。予想外のことに踏み留まれなかったアレクセイは、無防備に俺の胸の中に飛び込んでくる。


 そんなアレクセイを抱き締めたまま、俺は後ろへ飛び退すさった。


 その瞬間、一瞬前まで俺達がいた場所にグラリと書架が倒れ込んでくる。


「な……っ!?」


 ドサドサと書架から分厚い本が降り注ぎ、洒落た作りの重たい書架はバキバキと作業台を割りながら床へ倒れ込む。俺がアレクセイを抱き込んで後ろへ下がっていなければ、今頃アレクセイはの下敷きになっていたはずだ。


 振り返ったアレクセイは、その光景を目の当たりにしてサッと血の気を失う。


 そんなアレクセイを腕から放りだした俺は、アレクセイの頭をグッと掴むと無理やり体を屈ませた。一瞬遅れてアレクセイの頭上……俺がしゃがませるまで頭やら首やらがあった空間を、どこからともなく飛来したナイフが横切っていく。


「隠れて」


 ともに執務机の影にしゃがみ込んだ俺は、アレクセイを机の足元に押し込むとナイフが通り過ぎた先を追った。


 アレクセイを捉え損ねた投げナイフは、書架の棚板に突き刺さっている。よくよく観察してみると、柄に見覚えのある刻印が刻まれていた。


 ──星を抱くウロボロスの刻印……『スネーク・シャドウ』の紋章か。


 この業界には、俺以外にもイタい名前を名乗る人間がごまんといる。もしかしたらそういう気風が強い業界なのかもしれない。俺のイタい名前は無理やり名乗らされているものだから、不本意なものなんだが。


 自称『完全なる蛇』ことスネーク・シャドウも、そんなイタい名前仲間な同業者だ。噂が確かならば、個人名ではなく徒党の名前だとか。


 まぁ、『仲間』なのは『イタい名前』という部分だけで、ヤツが所属しているギルドと俺が所属しているギルドは敵対しているし、完全に商売仇ではあるのだが。


 ──どこの派閥に雇われたのかは知らないが、ここで勝ちを譲ったら、俺がギルドマスターに殺されかねないな。


 ここで一般人を装って大人しくしていれば、アレクセイはスネーク・シャドウに暗殺してもらえる。俺が手を降すまでもない。


 ただ、それは俺に来た依頼を横から掻っ攫われることに他ならない。それは俺のプライドが許さない。


 ──となると……


 俺はチラリとアレクセイに視線を投げる。


 危機的な状況に追い込まれているということはアレクセイも理解しているはずだが、予想以上にアレクセイは落ち着いていた。大人しく執務机の足元に収まったアレクセイは、心なしか俺に期待の眼差しを向けている。この状況下で、なぜかアレクセイは俺に全幅の信頼を寄せているらしい。


 ──いや、さっきのあれから庇ってやったってのが理由なら、チョロいにも程があるんじゃねぇの?


 とはいえ、この状況でパニックになられるよりかはずっとマシなのだが。


 もしかして王族って、いきなり暗殺されかかったり、それを側近に守ってもらったりっていうのが日常だったりするのだろうか。


「殿下、しばらくここにいてくださいますか?」


 あまりにも落ち着きすぎている……何なら心持ち機嫌が良さそうなアレクセイの様子に内心で首を傾げながらも、俺はそっとアレクセイに囁いた。


「助けを呼んで参ります。必ず殿下をお助けしますので……」

「うん」


 暗殺者というものは、総じて耳がいい。


 スネーク・シャドウ達に届かないよう、アレクセイの耳元まで唇を寄せて囁くと、フワリとアレクセイは花が咲くように微笑んだ。心なしか俺が囁いた耳元はポッポッポッと赤く染まっている。


 その耳をそっと片手で押さえて、アレクセイは極上の笑みを浮かべた。


「信じてるよ、オニイサン」

「……っ」


『信じてるよ、オニイサン!』


 一瞬、記憶に埋もれて消えてしまった誰かの声が、耳の奥に蘇ったような気がした。


 だが今はそれに構っていられる余裕はない。


「っ!」


 俺は足元に転がっていたつけペンと万年筆を拾い上げながら執務机の影から飛び出す。突如飛び出してきた俺に向かってさらにナイフが飛ぶが、俺に言わせればそのスピードは随分と生ぬるい。


 俺はアレクセイから死角になる書架の影に滑り込むと、ナイフが飛んできた方向へ向かってつけペンと万年筆を投げつけた。無造作な投擲からは信じられない鋭さで宙を裂いた筆記具達は、向こうのポンコツ投げナイフよりも余程しっかり目標を捉えたらしい。こちらからの予期せぬ反撃に向こうから『ギャッ!』という悲鳴が上がる。


 いけないねぇ、暗殺者がそんな無様な悲鳴を上げてちゃ。そっちの状況、モロバレだぜ?


 俺は無音のまま書架の影から飛び出すと、体勢を低く保ったまま悲鳴が上がった先へ飛び込んだ。音も気配もない奇襲を予測できなかった蛇のお仲間さん達は、目を丸くしきるよりも早く俺からの手刀をくらって意識を落とす。


 ──とりあえず、二人落とした。


 俺が掴んだ気配は全部で五人分。『スネーク・シャドウ』は頭、目、牙、尾、翼とそれぞれコードネームが振られた五人組だという噂とも合致する。


 ──ナイフを投げるのに二人、書架の細工を動かすのに二人。


 俺がアレクセイの傍から離れたのを、ヤツらは『好機』と捉えるはずだ。


 俺は意識を落とした二人の手元からウロボロスの刻印が入ったナイフを抜き取り、柱に身を隠したまま様子をうかがう。


 呼吸を、ひとつ。


 その瞬間、アレクセイが隠れた執務机を挟んで対角に位置する書架の影から、ヌルリと人影が姿を現す。二人だ。それぞれの手の中には、今俺が手にしているナイフと同じ物が握られている。


 ──行動が予測しやすすぎ。マイナス50点。


 俺は容赦なく手の中のナイフをそいつらに向かって投擲した。さすがは暗殺者が使う投げナイフと言うべきか、どうやら音が立ちにくい構造をしていたらしい。投げた俺もビックリするくらい音もなく宙を裂いたナイフは、そのままそれぞれの胸に吸い込まれるようにして突き刺さる。


「ガッ!?」

「な……っ!?」


 ……あの位置なら、心臓にクリティカルヒットか。我ながらいい腕してやがる。


 暗殺者二人が倒れ込む光景はアレクセイにも見えていたかもしれないが、飛んできたのは敵側のナイフだ。手柄を争っての仲間割れと読めなくもない。


 ──さて、仕上げといきますかね。


 俺は気配を殺したまま、音もなく書架の間を移動する。


 最後の一人の居場所はすでに分かっていた。予想外の反撃を喰らい、自分達がこうもあっさりと片付けられたことに動揺しているのか、まったく気配が隠せていない。


 お前ら、本当にそれで暗殺者ギルド『高貴なる闇ダークハイネス』の稼ぎ頭だったのか? やっこさんも落ち目だと『烏の王冠うちのギルド』のマスターに報告しとくべきかね?


 そんなことを考えながら、俺は最後の一人の背後に立った。


 仲間がやられていく中でも、アレクセイ暗殺は完遂しなければならないというプロ意識はあったのだろう。スネーク・シャドウの最後の一人は、身を潜めていた書架から飛び出し、執務机に飛びかかろうとする直前だった。


 俺は背後を取ったまま、パッと腕を伸ばして男の口を手で塞ぎつつ、相手の体を書架の影に引き戻した。こちらの姿は見えないように背後を取ったまま、その耳元にそっと囁く。


「あれは、俺の獲物だ」


 本当に俺の存在に気付けていなかったのだろう。ビクリと体を跳ね上げた男は、そのまま凍りついたように動きを止めてしまう。


 あーあーあー、本っ当にド素人だったんだな、あんた達。


「悪いが、消えてくれ」


 俺はスルリと袖口から細身のナイフを取り出した。業界内では『死の五芒星』と呼ばれている、デス・ザ・スターキッドの紋章が刻み込まれたナイフを。


「っ!? むぐぅ! むっ……!!」


 今更男は俺の腕を振りほどこうともがくが、もう遅い。


 男の首にあてがったナイフを、スッとひと薙ぎ。同時に体を離し、トンッと男の体を前へ突き出す。


 男は声も上げられないまま、喉から血を噴き出しながら倒れ込んだ。血しぶきのひとつももらわないまま仕事を終えた俺は、手の中のナイフに血振りを施してからスルリとナイフを袖の内に収納する。


 ビクリ、ビクリと痙攣していた体は、やがて静かになった。


 俺は敵の絶命を無表情に確認してから、そっとその場を後にした。




  ✕  ✕  ✕




「殿下! ご無事ですかっ!?」 


 バタンッと扉が開かれるけたたましい音に振り返ると、見たことがないほど慌てた侍従長が飛び込んできたところだった。


『おいおい、普段の優雅さはどこに捨ててきたよ?』と言ってやりたいところだが、四六時中はべっている主が暗殺者に奇襲されたのだ。この慌てようも仕方がないことなのだろう。


「タイラー!」

「あぁ、殿下……っ!!」


 衛兵達を押しのけてアレクセイにすがりついた侍従長は、ケロッとしているアレクセイの様子を確認するとヘナヘナとその場にしゃがみ込んだ。アレクセイの指示の下、テキパキと必要な処置を行っていた衛兵達は、そんな侍従長の様子にギョッとした顔を向けている。


 恐らく皆、毅然とした顔でアレクセイに付き従う侍従長の姿しか知らなかったのだろう。正直、俺もここまでの反応をするとは思っていなかったら、ちょっと内心引いている。


「殿下が書庫で襲撃を受けたと、衛兵から知らせが入って……っ!!」


 ごめんな、侍従長。あんまり長く現場を離れると、犯人役としてわざと生かしておいた二人が意識を取り戻してしまう可能性があったから、巡回してた衛兵を取っ捕まえてここに連れてくるので手一杯だったんだわ。


「心配をかけてすまなかった、タイラー。僕はこの通り、ルーシーが命を賭して守ってくれたから、かすり傷ひとつ負っていないよ」


 ひっそりと気配を消し、主従の涙の再会を見守っていた俺は、ふと聞き捨てならないセリフを聞いたような気がした。


 ん? 『ルーシーが命を賭して守ってくれたから』? そこ、強調する必要あるか?


 てか命賭してねぇし。


「ルシウスがですか?」

「そう! 僕がこうして今息をしていられるのは、全て新米侍従補佐官のルシウス・アンダーソンがここにいてくれたおかげだ!」

「そうなのですねっ!!」


 いや、信じるなし侍従長っ!! あんた、そんなにチョロメガネキャラじゃなかっただろっ!!


「ルシウスっ!!」


 思わず俺が顔を引きらせた瞬間、シュバッと俺の正面に侍従長が移動していた。内心で『うぉっ!? 早っ!!』とビビっている間に、俺の両手はガシッと侍従長に掴まれて、ブンブンと上下に激しく揺さぶられている。


「ありがとうっ!! ありがとう、ルシウスっ!! いや、ルシウス殿っ!! あなたは殿下と私の命の恩人だっ!! いや、この国の恩人だっ!!」


 いや、急にスケールデカいなっ!? 俺が守ったのはアレクセイだけなんだがっ!?


 それだって己の仕事の都合上……俺自身の手で、完璧な計画の下にアレクセイを殺すためだから、いずれアレクセイは死ぬ予定だしっ!!


「ねぇ、タイラー。命の恩人を使いっ走りの侍従補佐官にしておくのは、どうかと思わないかい?」


 腕がもげそうな勢いで振り回されているせいで、俺はまともに口を開けない。開けば間違いなく舌を噛む。


 そんな俺の状況まで見透かしているかのような絶妙なタイミングで、アレクセイは言葉を差し向けた。


「これからの時期、僕の周りはさらに物騒になる。いつでも密やかに僕を警護できる人間を傍に置きたいと考えていたところなんだ」


 その言葉に、俺は目を丸く見開いた。


 イヤな予感が止まらない。だが俺が何らかの行動を起こすよりも、俺の手を握りしめたままの侍従長がグリンッと勢いよくアレクセイを振り返る方が早い。


「確かに、そうですね」

「ルシウスは影護衛役に適任だと思うんだ」

「確かにっ!!」


 いや、『確かにっ!!』って何だよっ!? 『確かに』ってっ!!


 タイラー・サルストール卿! あんたアレクセイにも『NO』が言える人間だったろっ!? 何で唐突に『YES!!』しか言わなくなったわけっ!?


「ルシウス・アンダーソン。君を僕の護衛専門侍従として抜擢する」


 俺の反論を完璧に封じたまま一方的に全てを決めてしまったアレクセイは、俺の手を握ったままだった侍従長をペイッと俺から引き離すと、代わりにギュッと俺の両手を握りしめた。


 その両手を己の胸に抱き込むように引き寄せ、花がほころぶように笑う。


「これから、もっと親密なお付き合いを頼むよ、ルーシー」


 どうしよう、俺、鳥肌が収まらないんだけども。


 だが、新米侍従補佐官『ルシウス・アンダーソン』として考えるならば、この状況で『NO!!!!』が言えるはずもなく。


「せ、精一杯、努めさせて、いただきます……」


 俺には表情が引き攣らないように全身全霊を込めながら、そう答えるしか道は残されていなかった。


 ──俺の貞操が! ルシウス・アンダーソンとしても危ないっ!!


 内心で響き渡った絶叫が過去一悲痛な響きを帯びていたことは、もはや言うまでもない。


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