7.魔獣と侯爵の取引
「うーむ、上手くいったな! メリクル」
「そうね、ダニー」
ロワネスクのアルバード家の本邸、主寝室。その二人掛けソファの上でふんぞり返りながら、ダニエル・アルバード侯爵はひどく上機嫌に寝酒のワインを煽っていた。
その傍らには、愛妾のメリクルが寄り添っている。後継のレミリアを失い、正妻セレスに次の子も望めないアルバード家は、大公宮から〝二人目の子供を作る〟許可を正式に得たのだ。
正妻セレスが存命である以上、メリクルはダニエルの妻になることはできない。しかし貴族社会の婚姻の条件が厳しいリンドブロム大公国では、こうした〝子供を産むためだけの愛妾〟は珍しい事では無かった。
ましてやメリクルは城下町の東半分を牛耳る『フォード商会』の一人娘。彼女を自分のものにしたことでアルバード家の資金は潤沢になり、取引先は広がった。当のメリクル自身も美しく商才に長け、知略に優れ、一緒にいてとても頼もしい女性だった。ダニエルにとって、言うこと無しだった。
「あと少し遅れていたら、レミリアさんと結婚してカルロス・ワイマー子爵があなたの養子になっていたんでしょう? 私はこの子を堕ろすしかなくなっていたわ……」
まだ膨れてもいない自分のお腹をさすりながら、メリクルが溜息をつく。
大公宮の許可なく〝二人目〟を出産することは違法である。もし事が露見すれば名門アルバード侯爵家といえども厳罰は免れない状況だった。取りつぶしとまではいかずとも、領地の没収や数年に渡る罰金納入などは十分に考えられる。
「だからセレスに情報を流し、あえて焦らせたのだ。レミリアへの当たりはかなりキツくなったようだが、結局逃げおおせたのだから構うまい」
「でも、レミリアさんが魔法陣を起動させたことだけは隠し通さなきゃならないんでしょ?」
「そうだな。一応、禁忌の風転移魔法を使って姿をくらました、ということにはしてあるが」
ダニエルは手にしていたグラスをサイドテーブルに置き、ワインを手に取った。それを横から奪いとったメリクルが瓶を傾け、ダニエルのグラスにワインを注ぐ。
「ねぇねぇ、魔獣ユーケルンってどんな感じだったの? 会ったんでしょ?」
「はぁ?」
「だって、昔話にしか登場しない魔獣よ? 興味あるわ!」
「何を馬鹿な……だいたい本物かどうかも」
わからない、と言いかけたダニエルだったが。
『――まだそんなことを言っているのか。風魔法で傷めつければやっと理解できるのかな、愚かな人間どもは』
そんな声と共に、二人が据わっていたソファの周りに風が吹き荒れる。手にしていたグラスも瓶も、吹き飛んでどこかへと消えてしまった。
まるで、竜巻の中心にいるかのようだった。部屋の中、しかも窓も一つも開いていないのに。
「きゃーっ! 何!? 何!?」
「ま、まさか……」
『そのまさか、だが』
周囲の風はやや和らいだものの、二人はまだ竜巻の中にいた。その正面に、すうっと、紺色の軍服姿の男性の姿が現れる。
「ゆ、ユーケルン……!?」
『貴様に呼び捨てにされる覚えはないが?』
シュワッという音と共にダニエルの頬に痛みが走る。思わず左手をやると、血が滲んでいた。風が刃となり、ダニエルの左頬を切り裂いたのだ。
「ひ、ひい!」
「申し訳ありません、ユーケルン様!」
まだ状況が理解できないダニエルとは違い、すぐさま姿勢を正したメリクルがその場で跪き、深く頭を下げる。
その様子を見たダニエルも慌ててメリクルの真似をし、頭を下げた。
『……阿呆な父親に入れ知恵をしたのは、お前か』
「入れ知恵……と言えばそうかもしれませんが、あのままワイマー子爵と結婚してもレミリアさんは幸せにはなれません」
『ふうん?』
「確かに私はダニエルの子供を産みたいと思っていましたけど……レミリアさんをあの辛い環境から解放してあげたいと思っていたことも本当です」
魔獣ユーケルンにも一歩も引かず、メリクルがハキハキと話す。
平民出身で魔導士の素質が無いメリクルには、人型のユーケルンの魔精力を感じ取ることはできない。ましてや相手は恐ろしい魔獣とはいえ見た目は人間。それが返ってメリクルを落ち着かせたようだった。
『辛い環境にさせたのは誰だろうな』
ちらりと視線を寄越されたダニエルが、ビクリと肩を上げる。
「わ、わたしではないですよ!? 妻がやったことですから!」
『そう仕向けていたのだろう? 自分が自由になるために』
「そんなことは……」
『ああ、もういい。こちらの要件を済ませる』
「要件……?」
一瞬だけ、ユーケルンの表情が苦しげに歪む。
何か怒らせてしまったか、と怯えるダニエルだったが。
『……レミリアを返しに来た』
魔獣ユーケルンの発した言葉に、ダニエルとメリクルはあんぐりと口を開け、言葉を失った。
そんな間抜け面の彼らを睨みながら、ユーケルンはひどく淡々と説明した。
気に入ったので領域に連れて行ったが、ほどなく狂ってしまったこと。
原因は自分の魔精力だが、もともと消耗し衰えていた精神力では対抗するすべもなく、あっという間の出来事だったということ。
このままでは魔物へと変貌してしまう。清らかなる処女おとめを好むユーケルンは、それがどうしても許せなかったこと。
『レミリアをかつての彼女の寝室に寝かせてある』
「そんな、勝手に……!」
『何か迷惑か? 自分の娘が帰って来たのに?』
「……」
『先程も言ったが……レミリアは狂ってしまった。もう、お前たちの声は届かない』
「……そうなの、ですか……?」
それはつまり、レミリアが後継問題に絡む可能性は無くなったということか?
元気なまま戻って来られては、結局レミリアが婿を迎えてアルバード家を継ぐ、という道筋が残ったままだ。人事不省の状態であればその未来は潰える。
その考えに至ったダニエルの顔に、安堵の表情が浮かぶ。
しかしユーケルンが憎々し気に自分を睨んだことに気づくと、ダニエルは慌てて表情を固くさせた。
『ダニエル・アルバード侯爵に命じる。レミリアの寿命が尽きるその時まで、彼女を完璧に守り通せ』
――わたしは清らかなる処女おとめが不遇に相まみえることにひどく不快感を覚える。
――こたびの件はわたしがレミリアを狂わせてしまったことと相殺し、お前たちを問いつめはしないが、二度は無いと思え。
――分かっているとは思うが、魔獣の寿命は永遠だ。
――お前の腹の子にも、その孫にも、代々伝えていけ。
魔獣と人間が取引するなど、本来ならばあり得ない。魔獣は人間を蹂躙するもの。
そう信じているダニエルは、いま何が起こっているのか理解しきれなかった。形容しがたい魔精力を放ち淡々と言葉を連ねるユーケルンに、抗う術はなかった。
『この約束が守れるならば、わたしはアルバード家の清らかなる処女おとめの力になろう』
そうユーケルンが言葉を発し、ダニエルの前に放ったのは細い金の鎖のネックレスだった。小指の爪ぐらいの大きさの桃色の珠がついている。
『それが、こたびの約束の証だ』
「約束……」
『アルバード家の清らかなる処女おとめを護るものだ。――アルバード家が約束を違えない限りは、な』
ユーケルンがそう言い放つと、ダニエルの視界が急に真っ白になった。何度も瞬きをしているうちに辺りの風がゆっくりと止んでいく。徐々に景色は元の部屋に戻っていった。
そして魔獣ユーケルンの姿は、もうどこにもなかった。
ダニエルは、一瞬夢ではないかと思った。
しかし倒れたワイン瓶、割れた二つのグラス――そして手にしているネックレスが、これは現実に起こっていることだと伝えていた。
「れ……レミリア!」
ネックレスを掴んだまま、ダニエルは慌ただしく寝室を飛び出した。
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