握って・掴んで・離さないで

獅子吼れお🦁Q eND A書籍化

殴って・抉って・止めないで

「ルールはいたって簡単。左手同士で握手して、放してはいけない。あと、目つき・金的・手への攻撃は禁止」

 僕の手を握りながら、彼はなんでもないみたいに言った。あたたかくて大きな手だ。

「最後まで立ってたほうが勝ち。何か質問は?」

 僕は彼の手を握り返す。もうあとには引けなかった。

「じゃあ、早速やろうか」

 彼は、握手した手を思い切り引っ張りながら、右手を振りかぶった。


 彼と僕は中学受験塾の同じクラスに通っていて、成績もだいたい同じくらいで、具体的には1位と2位を争っていた。月ごとに全塾生に配られる、順位と名前の載った冊子で、お互いの名前を知っていた。それ以外の情報はなかった。別に、塾は友達を作りに行くところではないから。

 やがて僕らは頭のつかいすぎでおかしくなって、エネルギーの発散先を求めるようになった。無意味に走ってみたり、大声を出してみたりして、最終的に今日、殴り合うことを決めた。直接的に互いに暴力を振るうのは、初めてのことだった。


 彼の右手が、僕の頬に思い切り当たった。なるほど、左手の引き付ける力と、右手の殴る力で、いつもより威力が増しているわけだ。速度の問題、旅人算だな。すぐに鈍い痛みと鉄のような血の味が広がる。その中で、頭が急速に澄んでいくのを感じる。いつもの感覚だ。彼のかけたメガネに、歪んだ僕の顔が映っている。

 僕はしたたかに食らった体勢を立て直そうとするが、左手が固定されていてうまく動けない。足がたたらを踏み、もう一度彼の拳が顔を打つ。

 自分の身体が崩れ落ちるのがわかる。応用問題なら得意だ。しゃがみこむ勢いを使って、彼の左手を引っ張る。上半身のバランスを崩させ、そこに膝を当てる。顔ではなく腹に入った。ゲームみたいに数値は出ないけど、明らかに内臓にいいのが入ってるのがわかる。この感覚。腫れ上がった頬がゆるむ。

 形勢逆転だ。僕は立ち上がり、先程されたように拳と顔の旅人算を行う。彼のメガネが吹き飛んだ。今までの突発的な行為で何個か壊した記憶があるが、親に何も言われないのだろうか。僕の親は何も言わない。「思春期ならいろいろあるだろう」ぐらいの感じで、放置してくれる。別にそれについて、なんとも思わない。僕たちの肉体にそこまで価値はない。手と脳さえあれば問題は解ける。僕らの価値はマンスリーテストの成績順位表と、来たるべき2月1日の解答用紙の上にだけ存在する。数字。偏差値。問題を食って解答に変える器官。それが僕らで、今僕らはそれから開放されている。

「ぐぶ」

 彼が何かを吐いた。血だったか吐瀉物だったかわからないが、僕はそれをとっさに避けようとしてしまった。彼がそのわずかなバランス変化を逃すわけもなく、再び体が引き寄せられ、僕はすでにそれを知っているので、それに合わせてさらに体をひねる。正解。彼の腕が伸び切り、隙だらけになる。これを死にていという。腹にもう一発、二発。

「ぅあはっ」

 彼は笑った。僕は追撃しようと腕を引き寄せ、彼も同時にそうしたので互いに引っ張り合う形になる。僕も釣られて笑ってしまう。心が通じ合っている気さえする。これが人間どうしの、本来のコミュニケーションだったような気さえする。僕らはさらに勢いをつけて引き合った。狙いはお互い、頭部。頭突き。頭突きはビビって顔を上げたほうが顔にいいのをもらう。だから顔を上げない。逆に潜り込む。僕はパキケファロサウルスだ。あの恐竜図鑑、どこにやったっけ。

 しかし潜り込んだ僕の頭は、止まった。彼の薄い胸板が止めたのではない。抱きかかえられた。右手と胸部で、僕の動きは完全に拘束される。まいったな。膝が入る。僕の口からうめき声があがる。左手はじっとりと汗に濡れて、それでも離れないで、僕は誰もいない深夜の食卓で見たドラマを思い出す。恋人同士がこんなつなぎ方をしていた。僕は冷凍の焼きおにぎりを摂取しながら、無感動にそれを見ていた。恋愛ものは国語の長文に出ない。麻布だったら出るかもしれないけど。


「俺の勝ちな」

 気がつくと僕は地面に倒れていた。手のなかにはすでに何のぬくもりもなかった。彼はふらふらと夜の道を帰っていく。僕らの体はひどく傷ついていたが、脇によけておいたバッグは微塵も汚れていなかった。

 僕も立ち上がり、なんとかバッグを背負って、歩き出した。

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