アルテミス神殿の炎上

sousou

第1話

 かのアレキサンドロス大王が生まれた、七月二一日のことだった。エフェソスのアルテミス神殿の巫女として奉仕していたわたしは、神殿の保管庫にて書架の整理をしていた。


 エジプト人は本当に画期的な発明をしてくれたと思う。パピルスの存在よって、学者たちが彼らの考えを気軽に書き留めることができるようになった。とはいえパピルスは繊細なため、定期的に状態の点検が必要だ。とくに湿気は大敵だから、もし保存状態が悪いビブリオ(本)を見つけた場合には、日なたで干してやらなければならない。またそのような場合にはたいてい、書架の位置が悪いため、書架そのものを移動させる検討が必要だ。


 羽根箒でぱたぱたと巻物の埃を落としていると、夏の燦々たる日差しのなかから、初老の男が現れた。彼はやっと涼しい場所に辿りついたことに安堵した様子で、首元の汗をヒマティオン(一枚布の上着)のひだでぬぐいながら、「おはようさん」と挨拶した。


「おはようございます、ネストル先生」


 先生はエフェソス出身の著名人である、ヘラクレイトスの自然哲学の研究をしていた。自然哲学のことはよく分からないが、先生が言うには、雨や暴風などの自然現象を、神々以外の原因によるものだと考える学問らしい。例えばミレトス出身のタレスは、万物の根元を水であると考えた。ヘラクレイトスの場合は、変化そのものを万物の根元としていて、「万物は流転する」という言葉を残した。


 先生は神殿にやってくると、いつも『自然について』という題名のビブリオを閲覧したいと言う。このビブリオは二百年ほど前に死去した、ヘラクレイトス自身の手稿で、神殿に奉納されている書物のなかでも、特に貴重なものだった。わたしは先ほど日なたに並べたビブリオのなかに、それが含まれていることを思い出した。書架の合間を進んでいく先生の背中に、声をかける。


「いつものビブリオですか」


「ああ」


「いくつかは柱廊で干していますから、書架になければそちらを確認してください」


「分かったよ」


 巻物の埃を払いおえたわたしは、床の掃き掃除に移った。サンダルに付随して入ってくる砂埃を、丁寧に集めて、戸口に移動させていく。そのまま日にさらされた階段の掃除まで済ませた。額の汗を手の甲でぬぐいながら、天を仰いだ。紺碧の空が目に痛かった。神殿横の広場に設えられた、水盤に張られた水が、ひらひらと水影を反射していた。その波模様を眺めていると、ネストル先生が、ビブリオを両手に広げたまま、ぶつぶつ言いながら保管庫から出てきた。わたしはため息をついて、先生に詰め寄った。


「先生」


「おっ……おお、悪かった。持ち出しは禁止だったね。外で昼飯を食べようとしただけなんだ」


 先生からビブリオを没収して、くるくると巻き戻した。


「食事のときは食事に集中してください。パピルスは繊細なんですから」


 先生が頷き、水盤のへりに腰かけた。携えてきた弁当の包みをほどきながら、首を横に振る。


「書物は偉大な発明品だが、耐久性に難ありだ」


 雲一つない空を眺めて、もそもそと平パンを咀嚼しはじめる。


「しかし、ヘラクレイトスの考えによると、自然界はたえず変化する。将来、どんなに頑丈な書物が発明されたとしても、いつか朽ち果てる運命からは逃れられない」




 その夜、僧房で眠っていたわたしは、カン、カン、と何かを叩く音によって目を覚ました。空耳かと思ったが、もう一度その音を耳にして、何かの合図だ、と思い至る。他の巫女も何事か、という様子で寝床から出てきた。わたしは急いでサンダルを履くと、紐をきつくしめて、僧房を出る。空がやけに明るかった。それに煙たい。嫌な予感がした。鍋を打ち鳴らしている者が、何か叫んでいる。火事……という言葉を聞き取った。わたしは手近な桶を一つひったくると、脇目もふらずに駆けだした。


 火の手は神殿の天井まで達していた。わたしは広場の水盤から水を汲もうとしたが、桶をつけたところで、汲めるような水が残っていないことに気づいた。ということは、すでに水をかけた後なのだ。火を消せないのなら、まだ燃えていない物を持ち出すしかない。視線を走らすと、内部構造を知り尽くした巫女の一人が、戸口に立って、貴重品を運び出す指示をしていた。わたしも神殿に入ろうとすると、彼女の腕に阻まれた。


「運び出せる物はおおかた運び出した。これ以上は危険です」


「ヘラクレイトスの書物は?」


 彼女は私の腕を掴んだまま、扉を閉めた。「これ以降は誰も入らないように!」と大声で人びとに周知する。神殿から離れた場所までわたしを連れてくると、腕を離して言った。


「保管庫は全焼。いちばん火の手が強かったから、そこに火がつけられたのでしょう」


「火をつけた? 誰が」


 怒気を含ませて言うと、落ち着いて、と彼女が片手をあげた。


「家畜番のヘロストラトス。すでに捕獲しました。わたしたちにできることは、これ以上火が広がらないよう、アルテミス神に祈ること……」


 神殿のまわりに集まったエフェソス市民の、嘆き悲しむ声や、神に懇願する声が、一晩中ひびきわたった。火の手が落ちつくころには、空が白みはじめ、人びとの姿形がよく見えるようになっていた。わたしは群衆のなかに、崩壊した神殿を見つめる、ネストル先生がいることに気づいた。彼のそばに行って、運び出した品のなかに、書物がなかったことを伝える。先生は疲れたように息を吐き出し、「そうか」と言った。


 わたしは自分の両手を見つめた。これまで、この手で何巻ものビブリオを手入れしてきた。それが一夜にして全て消失したことが、信じられなかった。先生がわたしの肩を軽く叩いた。


「あらゆるものは、いつかは果てる。それが寿命による場合もあれば、不慮の事故による場合もある。何千年も前からある、ギザの大ピラミッドとて同じこと」


「……いつか消失することが分かっているなら、わたしたちは何のために神殿や書物を護るのでしょうか」


「分かっていても、できるだけ長く残したいんだ。それに、実物がなくなったとしても、偉大な創造物は、人びとの記憶として語り継がれる。語り継がれるのなら、それは意味あることだ。わたしもヘラクレイトスの書物について、覚えているかぎりのことを記し、次の世代にたくそう」


 わたしは先生の話を聞いて、肩の力を少し抜いた。見ると、巫女たちが崩壊した神殿に分け入り、焼け残ったものがないか探している。ネストル先生が励ますように、肩をもう一度たたいた。お付きの奴隷たちを連れて、帰路につく。家に帰ったら、少し休んで、ビブリオを書きはじめるのだろう。わたしもできることをするために、巫女たちを手伝いはじめた。近いうちに必ず神殿を再建しよう。そう決意した。

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アルテミス神殿の炎上 sousou @sousou55

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