図書館姫と世界樹の図書館 婚約破棄されたけど本棚ごと君を護ると王太子に溺愛されています
森猫この葉
第1話 婚約破棄
「クレア。おまえの婚約は破棄された」
ある日、クレアが空いた食器を片づけていると父侯爵から告げられた。
クレアに返答は許されていない。黙って目を伏せた。
「え、お義姉さま、ロバート様と婚約破棄になったの?」
嬉しそうに口を挟んできたのは食事を終えてデザートと紅茶を楽しんでいた義妹。その横で、後妻である継母もにやにやと笑みを浮かべている。クレアはそっと食器をワゴンへ載せると、そのまま一礼した。
「わかったか? 返事をしろ、クレア」
父侯爵が有無を言わさぬ視線でクレアを見た。誰とも目をあわさないように頭を下げたまま応答する。
「……婚約破棄の件、承知いたしました。失礼します」
くすくすと笑う継母と義妹の視線を無視して一礼し、そのまま食堂を出た。義妹たちは楽しそうに話を続けていた。義妹の婚約者候補の話題のようだった。
ぱたん、と扉が後ろで閉まる。
ふう、と息を吐いた。今日は、機嫌が良かったのか紅茶をぶちまけられるようなことがなかった。二日に一度は、なにかしらがクレアに向かって降ってくるのだ。与えられているお仕着せだって侍女たちのお下がりで、あまり状態が良いものではないのだから少しでも無事であったことは喜ばしい。
だけど。
(ロバート様……)
たまに侯爵邸を訪れる婚約者の青年の優しい笑顔が浮かぶ。そういえばここ数ヶ月は訪問がなかった。たまに見かけてもよそよそしかったような気がする。あまり気にしていなかったけど。
彼は分家筋の青年で、クレアの配偶者となり侯爵邸を継ぐ予定だった。彼が来る日は義妹のお下がりの服が与えられ、客席に並ぶことが許された。言葉は最小限にしろときつく言われていたので特に話すことはなかったが、冷たくも堅くも黴びてもいない食事にありつける、奇跡のような時間だった。たとえ義妹の差金でクレアのだけ刺激的なスパイスが多めだったり焦げていたり間違って苦味が足されていても、ちゃんと味がして食べられるものだった。婚約破棄となると、それももうない。
クレアの母が亡くなるまでは、あの食堂にはクレアの居場所があったのに。
カタカタと鳴る食器同士が当たって破損しないように、そっとワゴンを押して厨房へ向かう。もちろんクレアが通っているのは使用人用の通路だ。貴族用の通路を通っているのを見られると、また蹴られてしまう。
ロバートは現状を推察していたようで、誰も見ていないところでは、クレアに優しい言葉をかけいたわってくれていた。水仕事に荒れたクレアの手を可哀想と言ってくれたのだ。
『可哀想な手だな。僕の妻になったらこんな目に合わないようにしなきゃね』
『申し訳ございません』
疲れていたクレアは、父に許された以外の言葉を発することはなかったが、その暖かい言葉に涙がこぼれそうだった。
特別好意を持っていたわけではなかったが、予定していた未来が失われたことは衝撃だった。
(このまま、一生ここで下働きをして過ごすのかしら)
知れず、ため息がこぼれる。
先代侯爵に似て頭の良かった母を、入り婿の父侯爵は不愉快に思っていたらしい。
後妻を迎えて連れ子を養女にして以来、クレアの扱いはどんどん悪くなっていった。口答えをすれば打たれた。怒らせれば食事を抜かれた。それまでいた部屋を追い出され、物置部屋に閉じ込められた。下働きをすることを強いられたが、婚約者などの来客がある時だけは侯爵家の長女クレアを装うことを命じられていた。父は、母によく似たクレアを虐めることに喜びを見いだしている風情すらあった。
水仕事を済ませ、掃除を終えた頃には深夜になっていた。侯爵夫妻と義妹は夜会に行ったらしい。先程門が開く音がしていたので戻ってきたのかもしれない。顔を出すと機嫌が悪くなるので、クレアはひっそりと部屋に戻った。
使用人棟の片隅の、物置部屋。この部屋に置かれた使っていない家具の間の隙間だけが、クレアに許された空間だった。
かつての令嬢だったクレアの部屋から持ち出すことを許された数少ない荷物は、小さな籐の籠の箱に入れている。そっと、籠の蓋を開けた。古ぼけた母の魔法書を取り出す。
母の形見の魔法書だった。クレアはその余白に、母の語った様々な物語の記憶を綴っていた。今はインクを入手できる手段もなくて、煤を細くした棒につけて時々記録をつけていた。婚約、破棄。それだけ書いて、ため息をついた。
表紙のぼろぼろになった革の隙間に手を入れる。そこには鳥の羽のような素材で作られた栞が挟んであった。根本には鍵のような凹凸がついている。また、羽根の先端から伸びた銀の糸に、この部屋には分不相応な美しい宝石が連なってきらめいている。一番上にあるのが、透きとおって底が見えない紫色の宝石だった。他の宝石はすべて、白みがかった色をして眠っているようだった。
「お義姉さま、いるのぉ?」
遠くから義妹の声がした。クレアは慌てて羽根の栞を元通りに仕舞い、籠の蓋を閉める。
がんがんがん、と物置部屋の扉が音を鳴らした。蹴破られるように激しく扉が開く。クレアはうずくまって平伏した。義妹はその姿を見て厭らしく嗤った。
「ねえお義姉さま、ちょっとそこの花瓶を落としてしまったの。片づけてくださる?」
使用人通路から出たところに見える廊下が水浸しになっていた。花瓶の破片と、無惨に踏みつけられた花が散っている。わざわざクレアを虐めにきたらしい。クレアは慌てて布を手に床を拭きにかかった。
「今日の夜会でぇ、ロバート様にお会いしたの。お義姉さまのことなんてちっともきにしてらっしゃらなかったわぁ」
酒が入っているのか、ご機嫌に義妹が喋っている。その手にはワイングラス。
「ただわたくしになかなか会えなくなるのが残念、ですってぇ。お義姉さまみたいなゴミを押しつけられなくなって、きっとほっとしてらしたのねえ」
床の掃除に気をとられていると、がん、と頭を床に押しつけられた。踵が食い込む。踏まれている。態勢を崩したはずみに手に陶器の破片が刺さった。痛い。
「可哀想なお義姉さま。ずっとそのままでいてね」
頭上からささやき声が聞こえた。
ぽたぽたぽたと、頭の上から赤い液体が降ってきた。ワインだ。
かしゃん、と、背中にグラスが投げつけられる音がした。
「お義姉さまったら、ワインまでこぼしてしまってお行儀悪いのね。明日の朝までにはぴかぴかにしておいてくださいませ。水滴ひとつでも見かけたらお父様に言って食事抜きにしていただこうかしら。あはは、いい様だわ」
義妹は高笑いしながら去っていった。
(ああ。服が。)
今着ることができる服は僅かしかないのだ。しかし無情にも赤い染みが、したたり落ちるのがわかった。
きゅっと、布を握りしめる。頭がぼんやりと動かない。
無心で手を動かして床を清め終え、刺すように冷たい井戸の水で頭と服を洗ったときには夜が明けようとしていた。もうすぐ朝の仕事が始まる。横になる暇もない。物置部屋の家具に隠していた古着を着て、再び魔法書をとりだした。クレアはそのまま、母の魔法書を握りしめる。
(……もう、いいかしら。お母様)
白くなった空を見上げる。この家を見捨てても良いでしょうか。
母の魔法書から取り出した栞の紫の宝玉に、魔力を込めた。
「
クレアの姿は光に包まれた。
そしてこの家から姿を消した。
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