百合の花束【掌編百合小説集】

割箸ひよこ

春の陽

 春は好き。


 春の、あの言葉にできない匂いは好き。

 はると出会った、入学式のことを思い出せるから。


「卒業まであっという間だったな〜。そう思わない?」

「……うん」

「あっという間だった。信じられないくらい、あっという間だった」

「だね~」


 陽が朗らかに笑うと桜の花びらが風に舞って、境目のない青空に鮮やかな色彩を作った。それが綺麗で、切なくて、胸が酷く痛む。


 春は嫌い。


 春は何かが始まる代わりに、何かが終わるから。

 春は誰かと出会う代わりに、誰かと別れるから。


 私で言えば、陽のいない大学生活が始まる代わりに、陽との高校生活が終わる。

 出会ったことのない誰かと出会う代わりに、小学校の頃からずっと仲が良かった陽と別れる。


 そんな、私から陽を奪ってしまう季節が嫌い。


 私はスカートをぐしゃりと握る。陽と同じ学び舎で過ごしていた日々が当たり前だったのに、今日が終われば二人の人生でそんな日々は二度と訪れない。


 私は隣を歩く陽を見る。陽のスカートが風で揺れる。


 陽の可愛い制服姿を見ることだって、もうできない。


「あ、絵里。止まって」

「なに? 陽」


 私が言われた通りに立ち止まると不意に、陽は私に一歩近づいて私の髪に触れる。

 予感がして、どくん、と心臓が跳ねる。私は反射的に目を閉じた。


 頭にくすぐったい感覚がして、陽の柑橘系のにおいが遠ざかる。私が目を細く開けると、満開の笑顔の陽が見えた。


「はい。髪に桜の花びらついてた」

「……」


 陽はつまんだ桜のひとひらを私に見せて、私の手のひらにのせた。私は速かった自分の心音が緩やかになっていくのを感じながら、ゆっくり手を閉じる。


 いつも外れる予感は、今日も外れてしまった。


 そのまま、私にキスをしてほしかった。


「……取ってくれてありがとう」


 私は嘘でも本当でもないことを陽に伝える。


 陽は好き。


 一目惚れだった。入学式、私が自分のクラスを探しているとき、偶然肩が触れたのがきっかけだった。そのとき陽がどんな表情をしていたかなんて、一緒にいすぎてもう忘れてしまったけれど、陽の綺麗な横顔に私は一瞬で恋に落ちた。


 陽は嫌い。


 陽はあまりにも鈍い。この十年で結局、陽が私の気持ちに気づくことはとうとうなかった。

 私の頭についた花びらにはすぐに気づいて、取ってくれるくせに。


「なんか、いつかは覚えてないけどさ。こうやってわたしが絵里の頭についた花びらを取る、みたいなやり取りが前に何回かあった気がする」

「私も覚えてるよ」


 陽の細い指が私の髪に触れるたび、私は当たるはずのない予感でどきどきさせられていたから。


「でも、陽と迎えた春が多すぎて具体的にいつだったかは、私も覚えてないや」

「はは、確かに〜」


 けれど、今日から別々の道を進んでいく私達はもう、キスをすることはおろか、陽が頭についた桜の花びらを取ってくれることもない。

 私は陽がくれた桜の花びらをぎゅっと握った。


「あっ、絵里の家着いちゃったね」

「……うん」


 私たちは私の家の前で歩みを止める。


 いつもよりゆっくり歩いたのに。


「お別れだね、絵里」

「…………うん」

「次はいつ会えるかなあ」

「……知らない」


 私は陽を見ることができなくなって、代わりに桜が散らばった地面に視線を落とす。


「! 泣いてるの? 絵里」

「泣いてない」

「嘘だ」

「ないてないっ」


 陽が私の顔を覗く。陽はほんとうに、いつも余計なことばかりすぐ気づく。私の髪についた花びらとか、トマトが嫌いで私が残しているところとか、私が泣いていることとか。ほんとうに余計なことばかり、いつも。


 それなのに、陽は私の気づいてほしいことだけ気づいてくれない。


 いつも、いつもいつも。


「絵里、わたしも絵里と離れるのは嫌だし、寂しいよ」

「嘘だ」

「嘘じゃない。この十年間、絵里と過ごせてすごい楽しかった」

「うそだっ」


 喉が震える。

 やめてほしい。そんなこと、今になって言わないでほしい。

 そんなこと言われたら――


「嘘じゃない。だってわたし」

「絵里のこと好きだもん」

「え――」


 私は陽を見上げる。春の陽に当てられて、陽の瞳がきらりと輝いた。


「だからまた、春になったら会いに来るから。絶対」

「待って、はるっ」


 繋いだ手が離れる。私は離された手をそれを陽に向けて伸ばす。


「またね」

「待ってよ! 陽!」


 陽は背を向けて駆け出す。私は追いかけることができずにただその場に立ち尽くして、小さくなっていく陽をじっと見送った。

 私は力なく手をおろす。


 手に残っていたはずの陽の体温は、まだ冷たい春風がさらっていってしまった。


「そんなこと言われたら、あきらめられなくなるじゃん」


 握っていた桜の花びらが、陽と私の想いが。どこまでも青い空に舞う。


 春は好き。だから嫌い。


 陽との青春ひびを嫌でも思い出してしまうから。


 陽は好き。だから嫌い。


 一生忘れられない人だから。


 


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