第3話 首輪

 空には星が見えていた。早い出発には違いないが、夜に歩くことを思えば、こうするしかない。

 僕はリュックを背負い、夜露を払い除けた外套をまとい、彼女の背中を見つつ歩き始めた。途中いかつか村や町に出くわしたが滞在らしい滞在はしなかった。どうやら彼女も道には疎いようで出くわしたと言うのほ間違いではない。例え立ち寄ることがあるにしても、朝なら食料を買うくらいで夕暮れならば野宿するくらいで後にした。

 たまに旅をしていそうな人にも会うかなと思っていたが、そうそう会わない。ムーミン谷のスナフキンみたいな人、人ではないらしが、そんなにいるわけはない。目的もなく旅なんてしていると死ぬ。たいていは村の野良仕事や商人だった。

 殴られたところは熱も痛みも次第に退いてきたが、三日目にして足に豆ができ、四日目にして膝が震えるようになってきた。しかし急いでいる彼女には何も言えなかった。

 しかし我慢も限界が来た。

 だいたいから何で一人で担いでなければいけないんだ。二人のものが入ってるなら、せめて二人で交代交代に担いだらいいのに。と声に出さないようにして愚痴る。

 もうダメだ。

 僕は歩くのをやめた。

 こんなもので、これから見えている山を越えるなんてムリだ。

 僕たちは睨み合った。

 彼女は何も言わずにまた革紐をグイグイと引っ張る。僕は何も言わずに抵抗した。寝転んでも引きずられてももう歩かないと叫んだ。すると彼女も何やら叫んで持っていた革紐を地面に叩きつけた。僕は勝ったと思った瞬間、彼女は背を向けてさっさと歩き始めた。どうせ戻ってくるに決まっている。しかし彼女はまったく振り向くこともせずに峠を覆う雑木林に消えた。しばらく待っても戻ってこない。僕はリュックを背負いなおして、何とか立った。こんなところで野垂れ死にたくはないと不安に襲われて、追いかけることにした。同時に峠から彼女が現れ、近づいた僕の首から地面に垂れ下がる革紐を拾い上げた。互いに無言で急な峠を歩いた。昼が過ぎて僕たちはどうにかこうにか峠を越えた。さすがの彼女も汗塗れで疲れていた。人のことは笑えないが。僕たちは水と涼しさを求めて沢へ降りた。

 この匂い。

 湯気!

 僕たちは互いを見た。

 彼女は僕の外套の裾を上げて臭いを嗅いで鼻をつまんだ。

 おまえも同じだ。

 そっと岩陰を覗いた。何があるかわかったものではない。

 温泉がある。

 まさかこんなところに。

 あきらかに人の手が加えられているところだ。誰かが石で囲んでくれていた。いの一番に服を脱いで入ろうとしたら、革紐で止められた。

 彼女が指差した。

 おまえはあっち。

 家畜用!?

 浅いし、ぬるいし、水飲み場のような気もするが、まだないよりはマシだ。

 極楽極楽だ。

 この際言うが、家畜扱いすら忘れていた。雲一つない空が遠い。

「痛っ」

 彼女の方から頭に四角い固形の脂が投げ込まれてきた。この獣臭い灰は何かと考えた。石鹸だな。木片が飛んできた。

「何だよ、これ!」

 叫ぶと、彼女が岩から顔を覗かせて腕を擦るような仕草を見せた。これで垢を落とせということだ。花の匂いの巾着が飛んできた。これは香水みたいなもんかなど知識が増えていく楽しみができた。

「投げるな!初めから渡せ!」

 向こうも何やら叫んだ。

 さっぱりした後、彼女は着替えていた。僕のものはないので自分で洗った。次の町か村で買うにしても食料に使う以外の資金はない。僕は洗濯物を岩に干して乾くのを待つ間に考えた。彼女は枝に干していた。下手くそすぎるので、僕が広げて干してやった。じっと座って待つ。

 僕たちの口は肉のようなものを噛んでいる。肉かどうか怪しい。さすがに僕は真っ裸はつらいので外套をまとっていたが、他に客はいない様子なので楽にできた。

 しばらくして対岸の茂みから三人の女が現れた。こちらには気づいていない様子で騒いでいた。かしましいとはこのことだが、茂みに覆われた川が華やいだ気がした。白い肌、黒い髪、そこそこの胸、歳はまったくわからないが若く見えた。

 彼女たちは、誰かの噂話でもしているのだろうか、笑いながら手慣れている様子で素早く脱いだ。僕は彼女たちの姿が岩に隠れるまで見ていた。無意識に上半身を伸ばして覗こうとしていたようだった。革紐が波打ち、僕の顎で跳ねた。鞭は軽く振っても意外に痛いと知った。

「痛っ……」

 この世界でも僕の世界と同じような常識もあるのか。人を家畜扱いするくせに。ただ僕が暮らしていた世界でもこれは同じか。人が人として扱われないことは、どこでも変わらない。この子も同じだな。どういう理由で村から捨てられたかはわからないが、あのときのどこも見ていない瞳を思い出すと悲しくなる。

 僕は半乾きのシャツとジーンズとトランクスを棒に吊るし、肩に担いで歩いた。革の外套の下は何も身につけていない。僕もこんな格好で歩きたくないが、彼女は急いでいるのだから合わせるしかない。

 僕は半ば諦めていた。


 村を出て何日だ。

 僕は持っていた枝に印をつけておいたのだが、数えていると、もう三十日にもなる。三十日も何をしていたのかと思う反面、よくここまで生きてこられたなとも感心もした。そうなるとこの少女のおかげでもある。

 感謝。

 そんなもんないな。

 その夜は樹の幹で焚き火をすることにした。寝るのは岩の上。彼女は石をこすり、集めてきた枯れ草から少しずつ火を大きくした。

 木が爆ぜる音がする。

 食いものは変わらんな。

 ときどき出会う者はいる。あれは数日前のことだ。彼女は荷車を曳く獣を操る老人と話していた。僕は言葉がわからないが、道を尋ねているように思った。そんなときこの獣は何だろうかと考える。犬のようなものは村で見た。まさしく犬で猫もまさしく猫だった。これは鹿のような気もするし、山羊か羊か。食えるのかななど考えていると、彼女は行くぞと外套を叩いてきた。しばらく前から紐は引っ張られなくなった。

 秋のような季節も流れ、夜は冷えてきた。いつしか彼女は僕と同じ外套の中で寝るようになっていた。それでも寒いのは、彼女が二枚分を自分に巻きつけるからだ。寒さで震えながら、消えかけの小さな火を前にして、そのまんま簀巻きにして捨ててやろうかと考えるが、一人になるのはごめんだしな。うとうとしながらも、眠れるまでは地面に字を書いたりして考える。結局寝る。


 真…マコト

 美月…ミツキ、姉さん


 突然どさっと木々が揺れたので眠気が飛んだ。何のことはない簀巻きの彼女が岩から落ちたのだ。

 まったく。

 起きてこない。

「まさか……」

 外套と布をかき分けて彼女の寝顔を見た。褐色が薄れつつある。日焼けなのかもしれない。落ちたくせに寝ていた。抱きかかえて火の近くに置いた。左の目から右目へかけて濡れていた。泣いてるのか。よほど打ちどころが悪かったんだな。

 背ほどの高さの岩を見上げた。

 どこへ行くんだろ。

 てか、帰られるのかな。

 しかしこれだけ言葉も話さないとイライラしてくる。歌うか。


 ♪おーるうえいずへぶん

 うぇすとばーじにあ

 ぶるーりっじまうんてん

 ふふふん〜


 忘れた。

 余計に寂しくなる。

 知らぬ間に寝ていた。

 寒っ……起きると外套をかぶせられていた。寝惚けた視界には地面を見ている彼女がいた。僕の書いた文字に興味があるらしい。

「マコトって読むんだよ」

 通じないよね。

 自分の胸を指して、

「名前さ」

 彼女は僕の首輪を外した。穏やかな目をしていた。ずっと力を込めた目をしていたのに、今の今気持ちが通じたような気がした。彼女は自分の肩掛け鞄から新しい首輪を取り出すと、僕にはめた。革ではなく金属のように冷たくて、蛇に蔦の装飾を施されたものだ。

「マコト!」

 とだけ聞こえた。

 裂かれたような衝撃と肌が焼け焦げた臭いがした。僕は慌てて首をなぞると、金属は消えていた。

 彼女は拳を握った。

「く、苦しい……」

 首輪が締まる。これはいけないと思ったところで緩まった。

 彼女は胸を反らせた。首輪がバージョンアップした。頭の中でゲームのような音が鳴った気がした。

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