第5話 我に力を授けろ〜温泉
空には星が見えていた。早い出発には違いないが、夜に歩くリスクを思えば、こうするしかない。僕はリュックを背負い、夜露を払い除けた外套をまとい、また彼女の小さい背中を見つつ歩いた。途中いくつか村や町に出くわしたが、滞在らしい滞在はしない。どうやら彼女は目的地がある様子だ。ただそこまでの道には疎いようで、出くわしたと言い方はあながち間違いではない村や町などでも、例え立ち寄ることがあるにしても、朝ならわずかな食料を買うくらいで、夕暮れならば町外れで野宿するくらいで後にした。
たまに旅をしていそうな人にも会うかなと思っていたが、そうそう会わない。ムーミン谷のスナフキンみたいな人は、人ではないらしが、そんなにいるわけはない。目的もなく旅なんてしていると死にたいのかと言われる世界だ。今のところ魔獣や聖獣に出会うこともない。鳥や犬や猫には会う。たぶんあれは鳥や犬や猫なんだろう。村からやって来た野良仕事連中や樵や村から村へと行く行商人くらいに会うくらいだ。
五日が過ぎた頃のことだ。殴られたところは熱も痛みも次第に退いてきたが、足に豆ができ、膝が震えるようになってきた。しかし急いでいる彼女には何も言えず、何をそんなに急ぐことがあるのかわからないまま、半ば早歩きで残されないように必死で食らいついた。
が、限界が来た。
話すこともできない、ここがどこかもわからない、これからどうさせるかもわからない。これから越えなければならない峠を前にして、これまで抑えつけていた苛立ちと解消されない不安が化学反応のように爆発して空に叫んで倒れた。リュックは重いから小柄なこの子に持たせるのは言いたくないが、少しはこちらのことも考えてくれと叫んだ。
革紐が立てと命じるが、僕は抵抗した。高校生と小学生ほどの体格差だから、彼女は寝転んだ僕を動かすことなどできないと諦めると、何やら叫んで革紐を僕に叩きつけた。
勝った。
僕が喜んだ瞬間、彼女は背を向けてどんどん峠へと歩き始めた。
待て待て。
置いていかれるのか。
彼女の姿は峠の入口の雑木林へと消えた。
すぐ追いかけるのも癪なので、しばらく待つことにしたが、しばらくというほどの間もなく慌てて追いかけた。こんなところで野垂れ死にしたくはないと思うと不安が込み上げてくる。雑木林に入ると、木漏れ日の中、戻ってきた彼女と衝突して跳ね飛ばされた。彼女は近づいた僕の首から地面に垂れ下がる革紐を拾い上げた。互いに無言で急な峠を歩いた。もしかして彼女も不安なのかもしれない。言葉がわからないので聞くに聞けないまま、僕たちはどうにかこうにか昼に峠を越えた。互いに牽制し合いながらは、沼地を歩いているようなほど疲れる。得も言われない疲れに襲われ、どちらともなく涼しさを求めて沢へ降りた。
この匂い。
湯気!
僕たちは互いを見た。
彼女は僕の外套の裾を上げて臭いを嗅いで鼻をつまんだ。
おまえも同じだ。
そっと岩陰を覗いた。何があるかわかったものではない。
温泉があった。
まさかこんなところに。
あきらかに人の手が加えられているところだ。誰かが石で囲んでくれていた。いの一番に服を脱いで入ろうとしたら、革紐で止められた。
彼女が指差した。
離れろということね。
極楽だ。
雲一つない秋の空が遠い。何としても美月の命を救おうという気持ちが、ただ生き延びようという気持ちに変化していた。こんなことでいいわけはないが、他にどうするか。
「あたっ」
不意に彼女は額に灰色の塊を投げつけてきた。この獣臭い塊は何かと考えた。木片が飛んできた。彼女が腕を擦るような仕草を見せた。そうするとこの塊は石鹸だな。この木べらで垢を落とせということだ。花の匂いの巾着が飛んできた。香水みたいなもんかなど知識が増えていく楽しみができた。
「投げるな。品がない」
向こうも何やら叫んだ。
さっぱりした後、彼女は僕の前で濡れた体を布巾で拭い、新しい服に着替えた。僕の着替えはないので自分で洗うことにした。次の町か村で買うにしても食料に使う以外の資金はない。僕は洗濯物を岩に干して乾くのを待つ間に考えた。彼女は枝に干していた。まったく下手くそすぎるので、僕が干しなおした。
岩の上で日光浴をした。
僕たちの口は肉のようなものを噛んでいる。肉かどうか怪しい。さすがに僕は真っ裸はつらいので外套をまとっていたが、他に客はいない様子なので、まだ楽にできた。
これからどうなるんだ。
しばらくして対岸の茂みから三人の女が現れた。こちらには気づいていない様子で騒いでいた。かしましいとはこのことだが、茂みに覆われた川が華やいだ気がした。白い肌、黒い髪、そこそこの胸、歳はまったくわからないが若く見えた。
お、見えるのか。
彼女たちは、誰かの噂話でもしているのだろうか、笑いながら手慣れている様子で素早く脱いだ。僕は彼女たちの姿が岩に隠れるまで見ていた。無意識に上半身を伸ばして覗こうとしていたようだった。革紐が波打ち、僕の手の甲で跳ねた。鞭は軽く振っても意外に痛いと知った。
「あたっ」
この世界でも僕の世界と同じような常識もあるのか。人を家畜扱いするくせに。ただ僕が暮らしていた世界でもこれは同じか。人が人として扱われないことは、どこでも変わらない。この子も同じだな。どういう理由で村から捨てられたかはわからないが、あのときのどこも見ていない瞳を思い出すと悲しくなる。
僕は半乾きのシャツとジーンズとトランクスを棒に吊るし、肩に担いで歩いた。革の外套の下は何も身につけていない。僕もこんな格好で歩きたくないが、彼女は急いでいるのだから合わせるしかない。
僕は半ば諦めていた。
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