世界のカケラ1

henopon

第1話 トンネル

 あれは夏の夕暮れことだ。

 蝉時雨が聞こえた。

 封鎖されたトンネルに入ると、冷えた空気が底に漂い、砂埃に埋もれた舗装済みの道は波打ち、漏れた水が壁を覆い尽くしていた。

「幽霊なんているわけない」

 僕は自分に答えた。

 もうすぐ中学生になる。

 こんなことじゃ笑われるぞ。

 振り向くと、遠くに夏の眩しい光が見えた。まだこんなところにいるのかと溜息と浅い呼吸が漏れた。

 なぜこんなことになったんだろうか。僕の親が再婚してから義理の姉ができた。中学生の彼女はいつもはやさしいが、ときどき意地悪なことを仕掛けてくることがある。

「一人で抜けられる?」

 彼女に笑われ、ムキになった僕は学校までの抜け道を通ることになった。迂回してもたいして時間はかからないが、この辺に住んでいる中学生は隠れて通学していた。

「マコト、怖いの」

「入るなとあるし」

「お化けが出るかもしれないとか考えてない?怖いわよね」

「岩が落ちてくるとか。壁が剥がれて下敷きになるとか」

「ふうん」

 義理の姉は笑みを殺して、前髪を気にし初めた。古いコンクリートの砂防壁にもたれて、履き古されたサンダルをプラプラさせていた。

「行けるよ」

 僕は渇いた喉で答えた。なぜこんなような話になったのかは覚えていないが、あのときの彼女の膝下までのよれたパンツや細くて柔らかそうな髪のことまでは覚えている。

 僕は怖くて戻ってきた。

 後のことは記憶にはない。僕が泣いていたのか、彼女に笑われたのかもわからない。ただ舗装されていない道を歩いて帰ったとき、二人の影が草むらに伸びていた気がする。

 

 梅雨が長引いた年、高校二年生の僕はトンネルの前にいた。封鎖されたままで、進入禁止の立て看板も錆びていて文字すら読めなかった。

 傘もなく雨に濡れた僕はトンネルを抜ける決意をした。覆い尽くした前年の葛に足を取られながらも看板を引き剥がすように入ると、湿気が押し寄せていた。なぜこんなことをしようとしたのかわからない。こんなことでもしなければ、僕自身やっていられなかったとも言える。

「つまらないことなんだ」

 僕は自分に言い聞かせるように呟いてトンネルを歩いた。隧道と呼ばれる古いもので、迂回路ができたせいで忘れ去られていたものだ。

 数年前、僕は途中でやめた。しかし今は行かなければならないと決めた。僕のせいで美月は交通事故に遭った。親が再婚してから、僕は美月と一緒に暮らしていた。難関公立高校受験に没頭し、合格した後、どういうわけか僕は何もする気にならなくなった。朝起きられず、起きたとしても食欲もなく、学校はおろか電車に乗ることが怖くなっていた。

 去年の年末に免許を取った美月が職場へ行く途中、僕を学校まで送ってくれることになった。

 ほんの小さなことで、これまでの暮らしがなくなる。僕を助手席に乗せた小さな軽自動車は、流れの速い道路で不意に制御を失い、中央帯の小さな柱に運転席から衝突した。

 もし僕が一人で学校へ通えていれば、電車に乗れればこんな事故には遭わなかったんだ。

 このトンネルを抜けたら美月の意識が戻る気がする。このトンネルの向こうで美月の魂が戻るところを探している。こんなことは気休めでしかないことも理解している。

 振り向くと、まだ雨粒も見えるほどの距離しか歩いていない。

 行く手にも光が見える。

 こんなに短いのか。

 僕は急いだ。

 剥がれ落ちたコンクリートにつまずきつつも、何とか光へ。

 美月、戻ろう。

 古いサンダルで爪が剥がれたかもしれないと思った。

 柔らかな髪が僕の頬に触れた。

 甘い、いつもの匂い。

「美月さん」

「マコト、初めわたしはあなたのこと好きになれなかった。でもいつもあなたは必死だったわね。わたしたちに嫌われないように。なのに気づけなくてごめんね。誰からも遠ざけられたらつらいよね。あなたは必死で勉強して高校に合格した。必死で見てって叫んでた。そんなんじゃ心なんて潰れちゃうよね。ごめんね」

「僕のせいでこんなことに」

「もっと前にこうしてギュッとしてあげられれば。大丈夫だなんて言わなきゃ伝わらないのに。ごめんね」

 僕は顔を上げた。

「お別れするときまで気づかないなんて、わたしはバカよね」

 細くてしなやかな腕が背中で締めつけてきた。美月の涙が僕の額にポタポタと落ちてきた。美月の名を呼んだ気がする。体を支えるものが消えて、僕は前から倒れた。必死で藻掻くように見上げた雨空、次第に遠ざかる美月の姿が薄れていった。


 僕は指から漏れるくらい深い泥を掴んだまま目を覚ました。

 雨はやんで、神木にも似た樹は紅葉し、あちらこちらから木漏れ日が降り注いでいた。樹にもたれた僕の顔を眩しい光や濃い影が視界を揺らし、耳に森の音が聞こえた。ときどき頭に冷たい雫が落ちてきた。

 振り向くと、うろが見えた。

 僕は立ち上がろうとした。衝撃を浴びた気がした。殴られた。何やら人が話しているようだ。殴られた腹を抱えるように聞いたが、何を話しているのか、何語なのかすらわからない。何人かの会話だということは理解できた。泥に塗れた僕が何とか顔を上げると、痩せた男がいた。くすんだ麦わら帽に、日に焼けすぎた顔、首から黄ばんだ手拭いを掛けて、手には鎌を持っていた。

「ここは」

 僕は自分に尋ねた。これでは誰にも聞こえない。会話が済むと、僕は泥に押さえつけられて後ろ手に縛られた。訳がわからないまま引きずられて荷車へ放り込まれた。

 しばらく僕は荷車の上で咳き込んでいたが、ようやく顔を上げることができたとき、牛のような獣の手綱を取る男の背が見えた。

 僕は聞き耳を立てた。

 起き上がろうとすると、並んで歩いていた奴が鎌の柄で喉を押さえつけてきたので、ここでは静かにしておかなければならなかった。

 聞き耳を立てるしかできない僕は目玉だけを動かした。荷車には藁のようなものが散らばっていた。そして驚いたことに彼らの額にはそれぞれ縦に眼があった。入れ墨のようなものだとは思うが、僕はそれならここはどこだと考え始めた。動くこともできないなら考えるしかない。

 考えてどうなる。

 捕まっている。

 それはわかる。

 段差を越えるたびに全身が固い床に叩きつけられた。意識がしっかりとし始めた。まずどこなんだ。あのトンネルを抜けたところに、こんな言葉の通じない村があるのか。


 荷車が濁った小さな川に架けられた薄い木の橋を渡ると、丸太を組んだだけの門をくぐった。今にも潰れそうな板葺きの家が密集し、上流か下流かわからない方に向けてはますます粗末な家が点在していた。僕は川沿いに小さな畑と荷車の藁から収穫後だと何となく考えた。高床庫の前には穂のようなものが見える。

 ここは村なのか。

 人々の聞いたことのない言葉が近づいては離れ、たまに節くれた指が僕の顔を見ようとして顎を捩じ上げた。皆が皆の額に眼がある。ただ一様に体も頬も痩せていて、額の眼も死んでいるかのように思えた。

 三人が僕を担いだ。

 これでは荷物扱いだ。無性に頭に来たので、もう少しマシな扱いをしろと叫んだ。こちらは生きてもいるんだぞと必死に体を動かした。

 するとまた殴られた。

 ぬかるんだ地面に片頬を埋めた僕に人々が集まった。よくて藁で編んだサンダル履きで、悪くて裸足のままだった。どうひいき目に見ても友好的ではないものの、すぐ殺してしまおうという気もなさそうだ。

 すぐには。

 ふと考えると不安が腹の底から込み上げてきて、吐き気と同時に泥を吐いた。そんなことはお構いなしに長い柄で打たれたので、気力も奪われて動けなくなってしまった。

 また何だか相談している。どこからか威勢のある声がして、いったん静まった後、皆が退散した。

 僕は何も話しかけられることもなく引きずられ、翌朝まで獣臭い小屋で荷車を曳いていた獣と寝た。子牛にもロバにも似ていて、耳のところに皮で覆われたコブがある。尿意を我慢できずに叫んだが、監視に殴られたので漏らした。まさかこんなことで涙が出るとは思わなかった。

 獣が頭上でメェと鳴いた。

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