第7話


 私は長い長い話を終えて、ふう、と息を吐いた。もしかしたら、彼にとってはそこまで長くなかったのかもしれないけれど、どうしても心の中での経過時間については記憶を再生する部分もあるから、どうしようもなく長い時間を過ごしてしまったかもしれない。


「……ごめんなさい、こんな暗い話を聞かせてしまって」


 人様に聞かせる話ではない。こんな話については絶対に。


 彼は話の最中に、特に茶々を入れることもなく、適度にうなずくように相槌をうってくれた。彼くらいの雰囲気なら、ちょっとは雰囲気を面白くしてしまおうという嫌な配慮が行われるかもしれないと、そんな感じがしたけれど、そこは第一印象で決めつけすぎたのかもしれない。


 そうして、彼が話し出す言葉は。


「──そうかな、明るい話だと思うよ」


 いたって真面目に、そう答えた。


「……は?」


 無意識的に声が出てしまう。失礼な声だと発してから気づいたけれど、出てしまったものはもう戻らない。音は空間を揺らいで、そうしてうろに消えていった。


「……どこが」


 いつの間にか、丁重に相手を思いやる、というか意識的に行っていた敬語が、消え失せている。


 それでも彼は、そのままの雰囲気に。


「君が気を悪くしたのなら、それは本当にごめん。だけれど、それは暗い話だとは思えないな」


「……どうして」


「だって、改善しようがない、みたいに話しているけれど、それはあくまで君の主観じゃん?」


 ……言葉は、出てこない。


「もしかしたら、俺が想像する以上に改善の余地なんてものは存在しないのかもしれないけれど、それでも、暗い話だとは、言えないと思う」


 私は、呆然としている。


 さっきから、この男は何を言っているのだろう。きちんと話を聞いてくれていたと思ったのに、その話の一つさえも受け取れていなかったのか、という憤り。そして、やはりこんな男には話すべきではなかったのかもしれないという後悔。取り返しのつかない行動の選択が、私に言葉を詰まらせる。


 家で感じるような、真空の空間に包まれている、そんな気分。


「……そう、ですか」


 苦し紛れに発することのできた言葉は、そんな、意思もない相槌だけで、そこには何も存在しない。その言葉を聞いて、男は何かをつけ足そうとするけれど、今はこの男の言葉には耳を傾けたくないような気がした。


 それでも、聞こえてくるのだけれど。


「きっとさ、そこに光明はあるんだよ。だから、明るい話に聞こえてしまう。どれだけ暗い話だと自嘲していも、明るさを取り戻せる可能性は、もしかしたらあるのかもしれないのだから」


 それは、そうかもしれないけれど、それができたらきっと私はここにいることなんてなかったのかもしれないのに。


 意味が分からない。こんなの、話を面白おかしく解釈しているだけに違わないじゃないか。結果的に、彼はふざけているようにしか感じない。そうでなかったとしても、どれだけの謝罪をもらったとしても、印象はもう取り返すことはできない。


 拳を握る。目の前にある机をたたきつけてしまいたい気分。いつもはやらない行動。だから、結局そんなことはせずに、私は、空間に支配されていた重い腰を上げた。


「……帰るの?」


 彼は、椅子の効果音を聞いて、そう呟く。


 私は、知らないふりをして、そのまま外に出ていく。


 扉の先の明暗にも、もう慣れてしまった。特に止まることもなく、その先をくぐろうとして。


「……気が向いたら、また来てくれよ。止め処なく明るい話を、俺は聞きたいんだ」


 ──知らないふりをする。もう、すべて慣れてしまった。




「なにかあった?」


 翌日の放課後、教室でどうしようもなく佇んでいる私に、そんなことを聞いてくる理沙。彼女には何も相談をしていないのに、どうしてあんな男なんかに口を滑らせてしまったのだろう、という後悔がぬぐえない。


「ん?なにが?」


 私は、いつものように取り繕う。


「ばーか、何年一緒にいると思ってんのさ」


 そうして、取り繕っても、結局はバレてしまうのだけれども。


「なんか元気がない時の天音って、ほっぺが硬いんだよねー。偽物の笑顔って感じがすごいする」


「……そうかな」


「うん。そうなのです」


 はは、と私は笑うことしかできない。今の笑いが、きっと偽物でなければいいと思う。


「それで?何を困っているの?」


 やはり、親友というのは侮れない。些細なことから気づくのだから、隠し事にはやはり向いていない、ということを改めて感じてしまう。


 困っている、という言葉ではなんとなく表しづらい。


「困っている、というか、なんというか、イライラしてる……?」


「なんで疑問形なのよ」


「だって、私にもわからないもん」


 理沙は笑って、私の頬を引っ張る。ぐにぐにと遊ぶようにつまんだ後、その温もりが頬に伝播する感覚。温かい、心地。


「それなら、最初から話してみ。イライラの原因、突き止めちゃおうよ」


 理沙が、そういうのならば。きっと少し怒られるかもしれないけれど、私は、昨日、一昨日のことを順序良く話した。





「おバカ……」


「はい、ごめんなさい……」


 理沙の言葉になんとなく謝罪をしながら、私は頬をまたつままれる。ちょっと強いから痛い。


 いたいいたい、と声に出しづらい音を出したけれど、痛くないとちゃんと理解できないでしょ、と理沙はそのまま私の頬をこねくり回した。


「幽霊の正体が男の子だったのはわかるけれど、それで襲われる可能性とかあるでしょうよ……。そんなことも考えてなかったの?」


「考えてはいたけれど、なんか呆気に取られて動けなくてさ……」


「……その男の子がいい人で、よかったね……」


 私は、その言葉には肯定も否定もしなかった。


 理沙に昨日のことを話す際には、特に家族のことは深く話さなかったけれど、きっと、理沙ならだいたいは感づいているような気がする。そのうえで彼女は答えてくれるから、それでいい。


「でも、きっとさ」


 理沙は、語る。


「もしかしたら、本当にその人にとっては暗い話だったとは思えなかったのかもしれないよ?」


「……でもさ」


 私は言葉を返す。


「めっちゃ真面目な話をしたのに、なんか明るい話だととらえられると、なんか嫌じゃない?」


「……それはそうかもしれないけどね」


「…だよね?」


 理沙は、私に相槌をつきながら話す。


「でもさ、その人、家出してるんでしょ?」


「……うん」


「家出するくらいなんだから、もしかしたら家の事情がものすごくやばーい、とかあるかもじゃない?」


「…うん」


 確かに、そうかもしれない。


 あの人には私のことしか話していないから、どうして家出をすることになったのか、その事情なんて聞いていない。


「価値観ってさ、本当に人によって異なるから、きっとその人もふざけたりして、そういうことを言ったわけではないと思うんだ、私」


「……」


「もしかしたら、その家出をするにあたって、めっちゃくちゃ暗い過去があって、その上で天音の話を聞いたら、まだ明るいな、って思ったんじゃないかな。……それはそれで不幸自慢みたいで嫌かもだけどね」


「……うん」


 ……その通りだ。


 理沙の言葉をきちんと咀嚼する。


 価値観なんて人それぞれによって違うことを、私はあの家で経験しているはずなのに、どうしてそれを彼にはあてはめずに考えてしまったのだろうか。


 私の話でも、明るく感じとれてしまうような、そんな過去。自分のことばかりに夢中になってしまって、そこまで考えることができなかった自分が今は恥ずかしい。


 だいぶと失礼な態度をとっていたことを思い出す。彼からはため口でいいよ、とか言われていたけれど、あの場面での言葉なんて敵意以外の何物でもない。


 彼は、私の話にちゃんと耳を傾けてくれていた。適度に相槌を打って、適切な呼吸を運んでくれた。茶化していると感じたのは、私の主観でしかない。


 そう、私の主観でしか、彼を見れていない。


「……忘れ物、取りに行ってくる」


 私の忘れ物。第二音楽室に置いてきてしまったもの。


「……私がついていかなくても、大丈夫っぽいね」


「……うん。私だけで大丈夫」


 私は理沙にそう返事をして、立ち上がる。


「……それじゃあ、行ってきます」


「うん、行ってらっしゃい」


 私は、いつも通りに第二音楽室へと向かった。



 もう慣れてしまった特別教室棟の廊下。日はだいぶと陰っていて、時間を浪費しすぎたな、とそう感じる自分がいる。あの時間を無駄とは言えないけれど、それにしたって長い時間を教室で過ごしすぎた。


 第二音楽室の前について、息を吸って、吐く。新鮮な生ぬるい酸素を身体に取り込んで、身体を動かす準備。


 だいじょうぶ、わたしはにもつをとりにきただけ。


 片言みたいな言葉を頭に反芻しながら、扉をくぐった。





「……来ないかと思ってた」


 彼の声が聞こえる。


「……私も、そう思っていたんですけどね」


 同調する意思、少し躊躇いがちになる呼吸。


「……忘れ物をしたんですよ」


「……忘れ物?」


「……あなたの話を聞く、という忘れ物です」


 ためらいがちになる呼吸を、意識的に自然なものへと切り替えて、彼の反応を待つ。


「…俺の話なんて、聞く価値なんてないと思うけど」


「……それは、あなたの主観でしかない、でしょう?」


 彼が昨日吐いた言葉を繰り返すように。


「……だって、私は話したのに、貴方が話してくれないのは、なんというか、公平じゃないです。イーブンじゃないです」


「……まあ、そうかもしれないけれども」


 くつくつと、彼はだんだんと微笑を帯びてきた。


「まあ、そうか。イーブンじゃないのならしようがない」


「そうです、イーブンじゃないんです」


 私は、彼の微笑につられて笑う。無意識的に、呼吸は自然なものになっていて、空間の真空は酸素が取り込まれていくように。


「……たとえそれが、あまりにろくでもない話でも、いいんだね」


「……いいです。じゃないと、きっとそれこそろくでもないままに生きてしまいそうだから」


「……それなら、話すしかないか」


 男は息を吐く。どこかその呼吸音は震えていて、昨日の私を見ているように。


 ──そうして、彼は話し始めた。

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