主人公が決まらない!

海月あお

主人公:野々木遊

第1話

「ここが甲子園」


テレビで見ていた時にはもう少し小さく見えたのに、目の前の大きな壁はとても登れそうにない。

何年も前に外装が一掃されたらしく、昔の映像などでよく見る、あの有名なツタは、もちろんなかった。


「あれはあれで良かったと思うんだけどな」


デザインの事や、まして建築の事なんて全く分からないけど、なんとなく、緑のツタで囲まれている建物はおもむきがあって格好良い、気がする。

趣の意味とかは、説明出来ないけど。


「絶対にここで」


試合をやるんだと決めてきた心が、簡単にへし折られそうになる。

円型の球場は、向こう側が見えなくてたいらにさえ見える。

もしかしたら俺が見ているのはトリックアートで、後ろは壁なんじゃないか。だとしたら、描いた人は絵が上手いな。


「そんなわけないか」


春の風の中、立派に佇むたたず球場を見ながら独り言を言う俺に、少し下の方から声が届く。


ゆう、お前が行く場所はここじゃないぞ」


声の主へ振り返ると、車椅子に乗った兄ちゃんが笑顔でこちらを見ていた。


「馬鹿みたいに立ってないで、さっさとしないと入学式に遅れるよ」


言葉の割に、優しい口調で母さんが言う。


俺はまた、そのデカい丸を見上げた。


「初めて来た気がしないな」


本当は心臓がドキドキ波打ってるけど、兄ちゃんと母さんの手前、その緊張は口には出さない。


「夢で見たんだろ?」


兄ちゃんは小馬鹿にするように笑う。だが、本当に小馬鹿にしているわけではない。

兄ちゃんの気の利いた毒舌は、俺の緊張を見抜いての事だ。


「初めてじゃないわよ」


母さんは真剣な表情で立っていた。


「2回目かな、遊が来るのは」


そう言って、懐かしそうに球場を見つめる。


「俺、来た事あるんだ?」


「多分」


「多分って何?全然記憶にないんだけど」


「じゃあ来てないのかな」


「どっちだよ」


「遊はさ…」


俺を見ずに兄ちゃんが言う。


「ほとんどの記憶ないじゃん」


自分で車椅子を動かす兄ちゃんの腕に、舞ってきた桜の花びらが乗った。周りを見ても、桜は咲いていない。


「兄ちゃん」


軽口に負けじと言い返す。


「宵越しの金は持たない、だぜ」


2人は俺を見て、ほぼ同時に口を開く。


「そんな言葉どこで覚えたんだよ?」


「あんた意味分かってないでしょ?」


2つの質問に答えるように、首を縦にカクンッと落とし、すぐさま顎を上げてドヤ顔をして見せた。


「俺を誰だと思ってるの?生粋の江戸っ子の俺をさ」


「あんたの事は…」


野々木遊ののぎゆうだと思ってるよ」


「今はそれで良いよ。それが正解。1年後には、甲子園優勝の野々木遊だ」


「江戸っ子はどこいった?」


「…元江戸っ子の甲子園優勝の野々木遊」


「長いわね」


「略して野々木遊」


「勝手に略すな」


「略して名前になるなんて良い人生だと思うわよ」


その言葉が全く腑に落ちずしばらく考えたけど、それが良い人生になるのか、結局答えは出なかった。


そこで母さんの携帯が鳴った。


「あ、お父さん」


母さんはすかさず通話ボタンを押し歩き出す。俺は兄ちゃんの車椅子に手をかけ、後を追う。

信号がチカチカしているのに気付いて、全員が一斉に足を止めた。


兄ちゃんの後頭部を見ながら、深く深呼吸をする。そしてもう一度、後ろを振り返り球場を見上げた。先程と違う角度なのに、やっぱり壁に見える。


「トリックアート」


思った事をつい声に出してしまう俺は、言った後に、“また言っちゃった、気を付けなきゃな”と思いながら、15年間、その癖は治っていない。


「遊」


「何?」


「トリックアートなら、有名なのがお前の好きな江戸の近くにあるぞ」


「え、どこ?」


「ギャグかよ」


ケラケラと笑う兄ちゃんに、もう一度聞こうと思ったのに、信号が変わったのでトリックアートの話は終わってしまった。


学校に向かう道には大きな桜の木があって、さっき兄ちゃんの腕に舞ってきた桜は、きっとこの木からやってきたんだろうと思った。



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