第239話 大八魔フンド・リンド

 フンドが取り出したのは煌めきを宿す小さな瓶だった。淡く緑色に日の光を反射させて、瓶の蓋を開ければどこか生命の息吹を感じさせる香りが漂う。普通であれば感じ取る事ができない微かな匂いだったのだが、動物並みに嗅覚の優れた悠那には、それを正しく察知する事ができた。


(あれは、使わせちゃ駄目なものだ)


 焦りの警鐘が頭の中で打ち鳴らされる。早くしないと。早く仕留めないと。そう心で強く思っても、次の一歩がなかなか踏み出せない。口の中はカラカラで、肺の中に熱風が入り込んで来るようで、意識が朦朧となっている。それでも悠那はドッガン杖を肩に抱えて、足を這いずらせながら前に進ませる。


 戦闘途中のアイテムによる回復。それは何ら卑怯な事ではなく、戦においても当然の行為だ。ウィーレルがテレーゼに使用したのも同様の回復薬であったし、フンドがそれを使う事は何ら問題ない。だが、それをこの段階で使われる事は、悠那達にとってこれまでの努力を無に帰すと同意。僅かに勝ちの光が見えたこの状況から、絶望へと叩き落される事に繋がる。


 ―――ゴク。


「あ……」


 そして今、回復薬を手の平に垂らしたフンドがそれを口に含み、飲んだ。次いで彼が負った傷口や口から、シュウシュウと煙が出てくる。それらには毒気が感じられ、悠那が闇魔法で散々叩き込んだ猛毒が解毒されている事が分かった。粗方煙を出し終わると、フンドは瓶を持ったまま静かに立ち上がる。悠那にとって、この時のフンドがこれまでで一番大きく見えた。


「フゥー…… なるほど、確かにこれは良い薬だ。体に住み着いていた病魔が、悉く退治されてしまった。治癒効果も凄まじい。魔力がみなぎる。これならば、どのような怪我人もたちどころに回復してしまうだろう」


 自身の体の調子を確かめるように、フンドは拳を握り腕を回す。回復薬の効果に一通り満足したのか、フンドは次に悠那を見据えた。


 勝機は完全に潰えた。それでも悠那は諦めない。考える事を止めない。ドッガン杖を前に構えて、頭から黒煙を出すほどに逆転の策を模索する。しかし、一向に良い考えは思い浮かばなかった。フンドが一歩足を踏み出す度、悠那は一歩後退する。ギリギリまで可能性は捨てないが、現実はそう甘くない。今の悠那に、フンドに勝利する方法は微塵も残されていないのだ。


 が、しかし―――


「―――強き戦士よ、これを受け取れ」

「えっ?」


 フンドは手に持っていた回復薬の瓶を放物線を描くように軽く放り投げ、悠那へと渡した。突然の事であったが、体が反応して悠那はそれを落とす事なくキャッチする。ただ、悠那にはそれが意味するところが理解できなかった。使い終わった空の瓶を自分に投げても、その行為にフンドが利する点はない。悠那ならば武器として投擲する事もあるだろうが、フンドはわざわざ悠那が取りやすいよう、ゆっくりと放り投げた。攻撃という訳でもないようだ。


「あの、これは……?」

「見ての通り、上等な回復薬だ。効果は余が試したのだから、怪しむ必要もないだろう」

「え、ええっと?」


 悠那は少し混乱しながら、その瓶に視線を落とす。


「……!? 回復薬が、半分残ってる!?」


 悠那が驚きの声を上げたのも当然だろう。あの煌びやかな緑の液体が、まだ瓶の中に半分ほど入っていたのだ。悠那は瓶とフンドの顔で視線を何度も往復させて、その意図を読み取ろうと努力した。


「あの、ひょっとして使って良いんですか? この薬……」

「ああ。これ以上戦いを続ければ、死人が出てしまうだろうからな。そこで倒れている黒髪の娘に使うと良い。光魔法を使えるのだろう? その娘が回復した後、後ろの2人を回復してやれ」


 フンドは千奈津やテレーゼ達を指差し、さっさとしろと顎を上げた。確かに、このままでは皆が危ない。悠那は素早く千奈津の下へと駆け寄り、その薬を口に含ませる。


「千奈津ちゃん、ゆっくりで良いから頑張って飲んで……!」

「ん、ん……」


 少しずつではあるが、コクコクと回復薬を飲んでいく千奈津。彼女を介抱する間にも、悠那はフンドに気を許していない。が、単純な疑問を問うくらいの余裕はできた。


「今更ですけど、ありがとうございました。でも、どうして私達を助けたんですか? あんな戦況になってしまえば、一矢報いる事はできたかもですけど、確実に私が負けていました。この回復薬だって、全てフンドさんが飲んでしまうのが最善だった筈…… 戦いの最中に敵を助けるなんて、私にはよく分からないです」


 悠那がもしフンドの立場だったとすれば、そのまま油断する事なく叩き潰していた。勝負が決していない段階で助けるなんて以ての外。人質が欲しいのだとしても、貴重な回復薬を使い、危険を冒してまでそうする必要はなかった。だから悠那は素直に疑問に思い、フンドに聞いたのだ。


「そろそろ戦い始めて1時間が経つ。小休憩だ――― と、言いたいところだがな。まあ、実際は貴殿らが死ぬのが惜しいと思ったからだ。その若さでここまで強くなった類稀なる才能、そして積み重ねた努力の足跡、どれもが余の心に響くものであった」

「………」

「まあ、貴殿には分からないかもしれないな。立場が違えば、物事の見方は変わるものなのだ。余は支配者として、貴殿は優秀な戦士として生きている。まだまだ若いのだ、無理に分かろうとする必要はあるまい。それにだ」

「それに?」


 フンドはある方向を指差した。悠那が不思議に思いながらそちらを向くと、ぽっかりと開いたクレーターがそこにある。だが今となってはただの巨大な穴、別段変わったところは見られない。悠那はよく分からないと視線をフンドに戻す。


「あの盾を持った強者の存在感のせいもあって、余も戦闘中はつい失念していたのだがな…… その、ルールを破ってしまったではないか」

「ルールを、ですか? 誰がです?」

「余が、だ。開始前のルール確認を思い出してみろ。過度の環境破壊を禁ずる。余は確かにこの口で話したであろう?」

「ああっ! 確かにそんなルールもありましたね!」


 両手が空いていたら、ポンと手を叩いていたであろう悠那が納得。同時に、悠那の手元から声が発せられた。


「……それでは、貴方は負けを認めると言うのですか?」

「千奈津ちゃん! 気が付いたんだねっ!」


 千奈津が目覚めたのだ。途中から話を聞いていたのか、その目は既にフンドを見ている。


「それよりも、先に盾の強者を助けた方が良いのではないか? 如何に彼女が頑丈だろうと、あのままでは死んでしまうぞ」

「……確かに、そうですね」


 悠那の肩を借りながら、ゆっくりと立ち上がる千奈津。どうやらフンドから動く気はないようで、その場で胡坐をかいて座ってしまった。2人は足早にテレーゼ達が倒れる場所へと向かい、回復魔法を施す。千奈津が施術、悠那がフンドの警戒役だ。


「う、う…… ですわ……」

「ここ、は……?」

「良かった、気が付いたみたい」

「よ、良かったぁ~」


 治療は間に合い、完治とはいかないまでもテレーゼとウィーレルの意識が戻る。とはいっても魔力は殆ど空なので、疲れている事に変わりはない。できれば、このまま寝かせておきたいところだ。


「さて、先ほどの話の続きをしたいのですが―――」

「―――ちょっと待ったぁー!」


 千奈津が話を再開させようとしたその時、空から何かが降って来た。

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