白紙の手紙

@aono-haiji

第1話 白紙の手紙


                1


ちっともかっこよくないよ。私がいる場所なんて、私が吸ってる空気なんて。

ただ、けてえていく時間をもてあましてるだけ。

 文化会館で地域文化活動評議委員会の勉強会があり、今回の講師がみえた。

区内在住のピアノの先生。ピアノの先生は女性が多いけど、珍しく男性。背は高く、やせ型。お年は、私たちと同じくらいかなあ。初めの印象は服にあった。どうということのない普通の青緑のジャケット。パンツもおとなしいクリーム色だった。でも、違う。一般的な中高年男性、はっきり言って、服を着てる人はいない。ただ、よれよれな布が体を隠してるだけ。そばに行きたいとは思わない。でも、この先生は、服と気持ちが通ってる感じがした。髪も、かなり白が混じってるけど、なにより清潔感がある。まあ、そりゃそうだろう。子供を連れた母親たちの厳しい視線を受けとめているのだから、センスも良くなるのだろう。


 その先生、入っていらして、最初に目が泳いだ。何かを探しているように…。

ボケたおばさんが揃う私達、気づけない、分からない。ただ視線を交し合っている。

先生、優しそうな微笑みを浮かべ、口を開いた。

「今日は、演奏はないのですね…」

 そうか!ピアノの先生なのに、この講義室にはピアノがない。私たち顔を見合わせ、木島さんが頷いて、外へ出た。

「小ホールにピアノあるよね。管理人さんに聞いてみる」


 今回の私たちのテーマ、「自分を解放すること」

さまざまな習い事や勉強会、一定の習熟をなすと、その成果を発表する。手の届く所にゴールがあるから頑張れる。でも、ただ、それだけ。それが自分のライフワークになる人もあるけど、多くの場合、何処かで頬杖をつく。何かが違う。それは今までと同じように耐えていく人生を積み上げるだけ。

むしろ逆。刹那せつなでいいから、今の自分の殻を破る。「自分を解放する」それを体験する。それが出来る自分に出会う。そのことが、今の私たちに必要なのではないか。

そのコンセプトで「自分を解放すること」というテーマを立てたのは岡林さん。管理栄養士として介護施設などの食事のプラニングに関わっている。


 今日の第一回の勉強会を具体的に計画したのは、会の中で一番年長の森さん。長年教職を務められたので、様々な方面に顔が利く。教え子ネットワークは馬鹿にできない。ただ、ピアノの先生に来ていただいてどうするのか。私たちは、森さんにお考えがあるのだろうと、何も考えてなかった。口を出さないのは慎み深いようだが、悪く言えば人まかせ。そのことが、ピアノの先生が来たのにピアノがない、という失敗を招いた。


 私たち八人は、一階の小ホールに移動した。ここは地域の親子に開放してるので、四方のコーナーごとに、親子連れグループが集まって遊んでいる。そこへ、ぞろぞろおばさん軍団登場。でも、子供たちは無関心。親も特に気にしてない。子育て真っ最中で、金髪を真上にまとめ上げたお母さんがチラっとこちらを見ただけだ。

 ピアノの前に移動して、森さんがあらためて講師の紹介をする。

「ピアノ教室を開いていらっしゃる藤城先生です。私学で音楽の講師もしておられます。クラシックギターや、尺八もおやりです」

………う~ん、尺八。和服を着て背筋を伸ばして………それもお似合いかも。

私は、藤城さんの長めの眉毛がやさしく目に垂れているのを見つめてしまう。

「私も中学の時、森先生に教えていただきました。先生は主に古文でしたね」

 藤城さんがそう言うと、ふくよかな体の森さん、満足そうにあいあいと頷いた。

「藤城君は、学年で一番でした。生徒会長もしてました」

確かに優秀なタイプだったんだろう。でも今は、その優秀生徒特有のトゲが抜けて、穏やかな人柄を見せている。きっと、優しく子供たちを教えてるんだろう。

 木島さんが鍵を持ってきて、アップライトピアノの鍵盤のふたを開ける。

「調律大丈夫なのかな…」

 私の横にいた岡林さんが、私に囁く。藤城さん、それが聞こえたみたいに、すぐにピアノの前の椅子に座り、音を出し始めた。音を確かめるようにクラシックの曲を弾き始める。とたんに、私の中に驚きと感動の波が広がる。ここで、こんな音を初めて聴いた。ピアノがここにあることすら知らなかった。目の前でピアノを弾かれると、こんなに胸に響くんだ。


 藤城さんは、やわらかく演奏を収めて振り向いた。すこし眉を上げて頷く。

「まあ、多少の揺れはありますが、大丈夫でしょう」

さて、それでどうなるんだ?…………。藤城さんは、森さんの方を見て確認を得てから話し始めた。

「森先生の方から、今日の会の目的と意図を伺いました。お見かけしたところ、皆さんのお年なら、それなりに趣味や芸事の経験を重ねてみえることでしょう…」

 「皆さんのお年」という部分で、皆の顔に自虐的な笑みが浮かぶ。

「私などが偉そうに話をして、失礼に当るような方もいらっしゃるかもしれません」

 皆がぷるぷると首を振る。

「習ったり、学んだり、それも大事なことです。でも、そもそも、それは何のためにしているのか。何かを習い、なにがしかの成果を手に入れる。それもやりがいのありることですが、目の前の結果に心を奪われて、本当に自分が求めているものが何なのか、それが見えなくなってることはありませんか………」

 皆がそれぞれの中で虚空を見上げている。

「たとえば、私は音楽にたずさわっています。きっと皆さんも音楽はお好きなはず。

でも、そもそも音楽は何のためにあるのでしょう…………」

 皆の中には答えは生まれない。藤城さんは、みんなの顔を見回してから言った。

「自分を、羽ばたかせるためにあるのです……」

 皆の眼は点になり、そして自分の内側を探るように飛び回る。

「音楽が好きで楽器を弾いたり歌ったりする。音楽に共鳴し歌い始める。そうさせるのは、それを渇望するものが私たちの中にあるからなのです。それをなおざりにしていませんか?本当に自分が求めている自分とは何か。そして、その自分をさらに乗り越えて羽ばたける自分があるのかもしれない。それを感じながら、目をそらしていませんか……」

 私は、藤城さんの言葉を、咀嚼そしゃくできてない。でも、私の延髄えんずいに、ひやりと刃が触れるのを感じた。

「森先生にご相談を受けて、私なりに考えてみました。今日は私のやりたいことをさせていただきます。それは、あなた達に一番したいことをしていただくためです。」

 皆の眼が泳いでいる。藤城さんは、穏やかに微笑んで言った。

「簡単なことです。私の伴奏で、歌を歌っていただきます」

 皆はそれぞれ声を漏らし、半足分だけ後ろに下がる。眼はキラキラと期待に輝き始めてるくせに。

「どんな曲でもよろしいですよ。クラシックでもシャンソンでも。もちろん歌謡曲でも、たいていの伴奏はできます。どなたかいかがですか?」

 

こんな所で急に歌いませんかと言われても、はい!と手を上げられるものではない。第一、何を歌いたいか思い浮かばない。あきらかに体をゆすって前に出たがっているのは森さんだが、藤城さんは、再びピアノに向き合い、やわらかくメロディーを奏で始めた。…………………うつくしい音だ。タッチがとてもやさしい。

ん?このメロディーは…………岡林さん、目を見開いて私を見る。ちょ、やめてよ。藤城さん、目を閉じて弾きながら、ひとり言のようにつぶやく。

「私、最近、この曲好きですね。中島美嘉さんの『雪の華』…………」

 岡林さん、木島さんの指が同時に私を指す。「ぎえ!」

二人が両側から私の腕をつかみ、ほぼ同時に言った。

「この古河さんの十八番です!」

 初めて私の名前が告げられ、藤城さんが初めて私だけを見た。初めて目が合った。

「じゃあ、古河さん、どうぞ…………歌詞は、大丈夫ですか?」

えっ?えっ?えっ?なんで私なの?確かに私、カラオケでは、いつもこれだけど……ありえないよ。そんなの無理。でも、私の口から出た言葉は……

「あ………大丈夫だと思います………」


 藤城さん、やわらかくピアノを弾き始める。覚えている前奏とは少し違う。アレンジされたメロディーが流れる。そのやさしい音を聞いていたら、一度真っ白になった私の頭が少しずつほぐされていった。きっと、舞い上がってる私を、落ち着かせてくれてるんだ。なにか、安心できる伴奏。生のピアノって、こんなに違うのか………。

藤城さん、私の眼を見て、入るタイミングを教えてくれた。なんて、優しい眼なの。


 自然に歌いだすことができた。この『雪の華』は、一番好きな曲だし、自分の声、音程に合ってるような気がする。裏声も自然に出せてると、勝手に思っている。

実は心配だった歌詞も、不思議に自然に出てきた。とても気持ちよく歌える。

この曲は、誰もがそうなると思うけど、歌ってると、自然に美嘉様が憑依してくる。私も藤城さんのピアノに包まれて、私自身を離れ、少しずつ美嘉様になっていった。マイクはないのだから、空いた両手で空をつかみ、眼も閉じ、首を振り、膝を折って入り込んでいった。私が歌っていることを忘れてしまうほど。

こんな私のことを、藤城さんが目の端で捉えてくれてること、感じていた。なぜって私の息が続かなくて遅れそうな時は一瞬待ってくれる。そして「いつも……いつでもそばにいるよ~」の後、ちゃんと間をとって、私の思うタメを生かしてくれた。

あっという間の5分間………。一瞬で過ぎ去っていった。完全な酸欠。気を失いそうになる。倒れそうな私を岡林さんが支えてくれた。そしてハンケチを出してくれた。えっ?どして?頬に手をやって気づいた。私、涙たれ流し。全然気づかなかった。

いったい何があったんだろう……。この曲はカラオケで何十回も歌ってるけど、こんなことは初めて。少しずつ自分を取りもどして気づく。周りに子供たちが5,6人集まっていた。こんな体育館みたいな所で中島美嘉になりきるおばさん。見てて面白かったんだろう。あっ、いけない!何してる私。お礼言わなきゃ。

「あ…ありがとうございました」あわてて藤城さんに頭を下げる。藤城さんは笑顔で頷いた。「お上手でしたよ。とても、気持ちよさそうに歌ってみえました」

恥かしさがこみあげてくる。でも、私の口から出たのは、私の内側からの素直な言葉だった。「なにか……自分を、解き放ったような気持ちがします」

「それは、良かった……」藤城さんが目を細めてくれる。私はそれに笑顔で答えることが出来た。……キュンが……来た。ドラマや映画じゃない。なまのキュンは何十年ぶり。

 

 その後、当然何人も歌った。森さんの石川さゆりも。私は、他のメンバーと一緒に坐って、笑顔と拍手を送っていたけど、実は、何も耳に入らなかった。ただ、ただ、過ぎ去った自分の5分間に陶酔していた。そして、ずっと眼の端にピアノを弾く藤城さんの背中をとらえていた。帰りは、いつものように岡林さんの車で送ってもらったけど、何を話したか覚えていない。ただ、藤城さんの情報だけには聞き耳を立ててたような気がする。当たり前だけど、奥様も子供さんもいらっしゃる。…………そんなことを気にするのはおかしい。それは分かってるさ。私だって同じじゃん。



                 2


 いつもの生活に戻った私。あれから胸の中に、不愛想な天使が一匹棲みついたようだ。ときどき勝手に私の時間を止める。私が何を思い、何を考えたいかを察知して、目の前の何でもない物に桃色のベールを投げかける。それを振り払えばいいのに、私は情けなくも、ピアノの写真や外国の風景などから派生する妄想に浸りきったりしている。あんなにいじりまくっていたスマホが、ふと気づくと、真っ黒になって爆睡している。

「なにボーっとしてんの?………」

 日曜で家にいる中二の娘、愛梨あいりに、後ろから突然声をかけられてビクッとする。

中日ドラゴンズと将棋しか頭にない夫と、小五の息子、こいつらは、全く心配ない。でも、年頃の娘のセンサーだけは恐い。こいつのスカウターには、私の心拍数が表示されてるに違いない。

「お昼、なんにすんの?」

「さあ………」

「さあ、って何よ」

「なんか、あるもんで適当にやるわ」

「いいかげんだなあ……」

「おにぎりでも買ってくるから」

「うん…」背を向けて行きかけた。ホッとする。でも、半身で止まり、振り返る。

「おカン…………最近、なんかいいことあった?」

「な、なんにもないよ。いいことなんて…」心拍数が上がる。

「そう?…………まあ、いいや」行ってくれた。

基本、私になんか興味はないはず。でも、何かを感じている。危ない、危ない。気をつけなきゃ。愛梨は、テーブルの向こうに回って、所在なさげに新聞の文字を指でなぞっている。ん?これは、おこづかいかな?…………

「あのさ、あたし昼から、リサと〇マムラ行くから……」

「ああ、五千円でいい?」

「充分。あそこ安いから」

 この日常を大事にしなきゃ…………。


 私は車の運転疲れるタイプなので、少々の距離は自転車で行く。この日も自転車で大型ショッピングモールに買い物に行った。たいがいまっすぐに帰るけど、なぜか、この日に限って寄り道がしたくなった。何かこころを癒すものを見たくなったのだ。

神宮東公園という大きな公園がある。池のほとりに、メタセコイヤの並木があり、冬の初めの今、黄から橙、赤へ移りゆく紅葉が美しい。そこに寄りたくなったのだ。

自転車を停めて、池のある公園に入っていく。ここは都会の真ん中なのに、背の高いメタセコイヤが広く高い空間を囲み、別世界を作り出している。

 ここで知人に会うことはない。私は歩きながら、自然に「雪の華」を歌っていた。

あの時は、ほんとうに特別な時間だった。………………藤城さんの言われたように、自分を解き放っていたのかもしれない。だから、あの時だけを思い出すと、気持ちは安らいでいる。なのに、それが、私に重くつらい罰を与えた。


 ずっと若い頃から、なんとなく一番好きなタイプが、心の中に出来あがっていた。そんな人に会うことはなかったし、これからも会うことはないと思っていた。それが、背伸びをすれば先が見えるようなこの年になって、まさか出会ってしまうとは…


 私は森の中の少女のように小さく歌いながら歩いていた。この木々の向こうにあるベンチの所まで行こうと思って。この痛みが薄らいでゆくまでは、きっと時間がかかるのだろう。でも、痛みとつらさと喜びは、仲が悪いものじゃなく、本当は、いつも一緒にいるものなのかもしれない。傷つけあったり助け合ったりしながら、最後は、今そこにある、そこにいられる時の大切さを教えてくれているのかもしれない。


 その時は突然に訪れた。一本の木の影を抜けた時…………ほんの、数メートル先のベンチにいる人と、目が合ってしまった。

ふ……藤城さん?まさか………でも、この間のブレザー、間違いない。藤城さんだ。もうしっかり目が合っている。逃げられる距離じゃない。一瞬のうちに、駆け巡る思い。私のことなんか、覚えてらっしゃるわけがない……。

 でも、藤城さん、あの時と同じ優しい微笑みを浮かべて会釈してくれた。あわててぺこりとお辞儀を返す。

「古河さんですよね……最初に『雪の華』を歌われた……」

「あっ、はい。あの時は、あたし、何か、お見苦しいことになっちゃって……」

 私の名前まで、憶えててくださった。でも、どうして?どうして、ここにいらっしゃるの?

「いやいや、とてもお上手でした。私としては、一番伴奏のしがいがありました」

「ありがとうございます。わたしもすごく思い出に残りました……」

 私は、何を言ってるんだ?完全にパニくってる。藤城さんが言われる。

「この公園にはよくいらっしゃるんですか?私は初めてなんです」

「そんなにいつもは来ないんですけど、今は、この、ほら、その……」

紅葉こうようがきれいですね」

「そうなんです。メタセコイヤのね、紅葉がとてもきれいで……」

「私は、今日は、その通りの向こうのお宅にピアノのレッスンに行くんですが、少し早く着いたので、ここで時間をつぶしていたのです……あっ、お座りになりませんか?私も、もう5分ほどしたら行きますけど」

「ありがとうございます。では、少しだけ……」

「お住まいは、お近くなんですか?」

「いえ、そんなに近くはないんですけど、ときどき、そこのモールに、自転車で買い物に来るんです」

「いい公園ですね……こんな所があるとは知らなかった」

「私も、ここ一番好きなんです。よかった、先生に、お見せすることができて……」

 自分が変なことを言ってることは分かってたけど、バクバクで仕方なかった。

「この間の、勉強会ですが、どうだったんでしょう。成果はあったんでしょうか」

「ええ、それはもう、すごく。みんな、あの歌で、自分に目覚めて。ほんとに、先生に来ていただいて良かったって言ってます。みんな……」

「それなら良かったですけど……私も、まず、みなさんにお会いできたことがなによりのことで……古河さんにもお会いできて、うれしかったです……」

 キン……と音がして時が止まった。「あ……はい……」

私は言葉で返せなくて、ただうなずいただけだった。

それからの会話は、ほとんど憶えていない。気がつくと、ベンチを離れる藤城さんのうしろ姿があった。少し行ってからこちらに向き直りお辞儀してくれた。私も勿論、立ってお見送りをする。

 そこを離れ、モールの方に歩いていって、自転車があったことを思い出し、また公園に戻ってきた。焼きおにぎりや小松菜、イタスパなどいっぱい詰まった買い物袋と自転車がそこで待っていた。


                 3


 数日後、月に一度の勉強会の前の運営委員会があった。簡単に前回の反省をした。概ね良い結果だったと意見が一致。次回の勉強会の準備に入った。私の隣の森さんの前には、今後の日程が書いた予定表がある。予定表自体は全員が持っているので、これは、森さんの物だ。その紙の一点から、私の眼が離れない。そこには森さんの手書きで、藤城さんの住所が書いてある。

私はみんなと話していてもうわの空だ。もう、何も考えられなかった。スマホを出して森さんに言う。「すみません、私、予定表なくしちゃったみたいなんです。写真撮らせてもらっていいですか?」「あら、そうなの…どうぞ」


 

 家へ帰ってきた。スマホの写真を拡大して、白い紙に藤城さんの住所を書き写す。それで、どうするんだ、わたし。

 子供たちは塾に行ってる。旦那は出張。しばらく私だけの時間。私は、腕の中に顔をうずめて考えていた。藤城さんへのお礼状はとっくに森さんが出している。私が、あの人に書くことは何もない。何かを書いたとして、その先に何があるんだ。何もあるわけがない。

あえて、すべての可能性を考えて、私の中にある藤城さんへの思い。一憶分の一の確率で、同じものが藤城さんの中にあったとして、それが、どうにもならないことは、分かりきっている。私だって、今の生活を壊したくはない。夫のことは愛してるし、子供たちも大切だ。それは、藤城さんだって同じこと。もう、この時点で答えは出ている。


何もするべきじゃないよね。何も………。


でも……………でも………………わたしの思いは…………………


いや、それは……………………だめなんだよ………………………


なら、当たり障りのない言葉を、たとえば、「この間の歌の経験が、少しだけ私を変えてくれたような気がします。少しずつでも、前に進めるように挑戦していく気持ちが大事だと気づかせていただきました……」

これで、どうなるんだ。これは、私の気持ちからすれば、何も書かないのと同じだ。


書けないことは分かっている。でも……………でも………………書きたい。


書けないのは分かってる。でも、なにかひとつ…………………真実を伝えたい。


突っ伏している私に見えるのは、眼を閉じたときの、あの、色の分からない闇。

この闇は、黒ではない。白でもない。見えるけど、見えない。私たちは、五感を全て閉ざされれば、この世界に放り込まれる。だけど、そこに私がいないわけじゃない。私は、確かに、そこにいる。でも、そこにいることを確かめようとした途端、見たり、感じたり、そこに言葉が生まれる。その言葉が、私を、限られた、弱いものにすり替える。

本当の私は、言葉じゃない。私の、あなたへの思いも言葉じゃないんだ。

もう…………言葉を使いたくない。


何も書かない。何も書かないで、思いを伝える。


この時、私の答えは、それしかなかった。

私は、時間をかけて封筒を選び、丁寧に、藤城さんの住所と名前を記した。

そして、何も書いていない真っ白な便箋二枚をたたんで入れた。


もう、迷いたくなかった。一度でも考えたら止まってしまう。

ポストは自宅の目の前にある。何も考えず、何も考えず、走って行って出した。

帰ってきて、自分の行動の馬鹿さ加減が見えてきた。後悔しない、その決心があったのに…………………。

私は、台所のテーブルに突っ伏して「死んでしまえ…死んでしまえ…死んでしまえ」とつぶやき続けた。



                 4


 悪夢のような日々が続いた。後悔以外何もなかった。なんて馬鹿なことをしたんだろう。白紙の手紙を送りつけるなんて。「ストーカー?危ない人?」言葉に出せない言葉が次々出てくる。全部あてはまってる。

あれを、あれを………藤城さんが見た…………これが現実。悪夢でなくて何だろう。


 一週間が過ぎ、十日が過ぎた頃、藤城さんから手紙が届いた。

宛名に、きれいな字で、「古河 真理 様」と私の名前が書いてある。


 死刑の宣告か…………………


 一時間放置したのち、私は死刑台に上がる覚悟を決め、封を開けた。

どんな言葉が書いてあっても受けとめる。


封筒から出てきた便箋は真っ白、私が出したのと同じ白紙だった。私が出した便箋をそのまま送り返したわけじゃない。薄い水色で、ふちっこに J , Fujisiro と印刷してある。ご自分の便箋をお持ちなんだ。


 何も書いてない白紙の便箋。それをじっと見つめていて、同じものを受け取った、藤城さんの気持ちを考えてみた。「おかしいよね……こわいよね……こんなもの」

でも、………そこから見えてきたのは、あの藤城さんの、優しい眼差しだった。

あの人は、私のことを「おかしい」なんてさげすむ人じゃない。

そうなんだ、きっと、私の気持ちを受けとめてくれたんだ。だから、私と同じように真っ白な便箋を送ってくれたんだ。

私も、藤城さんも、これ以上言葉を交わすことはできない。でも、言葉では表せない「思い」もある。それを分かって、受け取ってくれたんだ。そして、同じメッセージを返してくれた。


 あたたかい涙があふれてきた。いつもの、私のストレス解消の涙じゃない。藤城さんが私に送ってくれた涙のような気がする。

すべてが吹っ切れた。藤城さんも、私と同じ思いを持って下さったかどうか、それは分からない。でも、私の思いは確かに伝わった、そう信じよう。

この「思い」は、この「恋」は、これで終わったのかもしれない。でも、でも、この「恋」は成就した。そう信じよう。

この真っ白な手紙。もう私の涙の跡がついてしまった。でも、いいんだ。大事にする。そして、私が死の床についた時、娘の愛梨に頼んで棺桶に入れてもらおう。頼めるのはあいつしかいない。あいつなら、分かってくれるはず。



                 了







 







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