最終話

 近頃この家に来る人間なんて大体見当はついたものの、鉛のように重たい叶汰の身体は動かなかった。居留守を使うか、どうするか。何時間も見ていなかったスマホを見ると、ショートメールの通知が大量に溜まっている。

「やっほう」

「今から行ってもいーい?」

「行っちゃおーっと」

「おなか空いてる?」

 最後のメールからものの五分で、ジュリエットは叶汰の家に到着している。自分から連絡をよこしてくるなんて珍しい。それでも、とてもじゃないが人に会える状態ではなかった叶汰は天井を見ながら考えあぐねた。

 一分もたたないうちにピンポン、ピンポンとまたチャイムが鳴った。渋々腰を上げて、玄関を開けた。

「エッチしにきましたあ」

 じゃじゃーん! と効果音がつきそうな登場は、色気のカケラもない。

「…………ジュリちゃん、俺、今日はそういう気分じゃないんだけど」

 叶汰は予想以上に低くて小さい自分の声に内心驚いた。

「そうなの? カツサンドあるよん」

「カツサンドが好きなのは君だけでしょ。ていうか今日俺がいなかったらどうしてたわけ」

「いるよ、いるいる」

「……なんなのまじで」

 相当酒気を帯びてご機嫌な彼女はコートを脱ぎながら、眉尻を下げた叶汰の横をすり抜けていく。リビングのラグに足を崩すと、ガラスのローテーブルに有名カツサンド店の袋を広げ、はいどうぞ、と叶汰に一箱差し出した。ソファに座りそんな彼女を見下ろしていた叶汰は、受け取った瞬間軽すぎるそれを上下に振った。

「……どう考えてもカツサンド入ってないよ、これ」

「んん? あ、その箱のはタクシーで全部食べちゃったかも。あれ、これも空ー……これも。全部無いや」

「……とにかく、今日もたくさん飲んだんだね」

「うん」

「買った三箱全部食べちゃったの?」

「……すきっぱらで飲んだらさあ、帰りにすっごい食べたくなっちゃってね」

「帰りっていうか。どうせまた友達撒いたんでしょ。カツサンドが食べたくて」

 彼女はよくぞお分かりで、とでも言うように叶汰を指差した。完全に記憶が抜けているような締まりのない顔にほとほと呆れてしまう。タクシーを降りて、空の袋をぶんぶん振り回しながらこのマンションに入ってくる様子が目に浮かんだ。

「お水飲む?」

「のむっ」

「……はいよ。あーあ。カツサンド食べたかったなー」

 棒読みで立ち上がり、ウォーターサーバーまで水を取りに行く。追い返そうとも思ったが、世話の焼ける彼女にほんの少し気分がまぎれたのは確かだ。――――まあ、まぎれた気分もどうせ明日には元に戻るのだろう。叶汰は傾けたグラスに注がれていく水の気泡をぼうっと見つめた。

 目一杯水を入れて戻ると、ジュリエットはラグからソファに移動し、ちんまりと座っていた。叶汰は隣に座りながらグラスを手渡し、一気に飲み干す彼女を眺めた。うつろな瞳と長い睫毛。濡れ光る唇。叶汰の視線に気付くと、なあにー、と笑ってすり寄ってくる。別に、と返せば、テーブルにグラスを置き、膝の上に跨ってくる。そして両腕を首に回し、額をこつん、と当てて、うっとり囁いた。

「また今度買ってきてあげるから」

「……ここでそんな色気使われても」

 彼女が首をかたむけて、たわむれるように叶汰の唇を二回啄んだ。

「……ベッドがいい」

「君、汚すんだもん」

「今日は汚さないって」

「……どうだか」

 胸中に満ちる憂愁と対話するか、何もかも放棄して流されるまま彼女と身体を重ねるか。心の天秤は、たった今かすかに傾いた。叶汰はため息をつきながら彼女の身体を抱えて立ち上がる。寝室に入り、ベッドになだれ込む。

「……ねえさ、そろそろ名前教えてよ」

 彼女を組み敷いて顔を近付ける。出会ってから一ヶ月以上が経っている。しかも、週に一度はこうして会っている。彼女は目を丸くし、それもそうだよね、と言った。

いと如月絃きさらぎいと。君は?」

「……叶汰」

「名字は?」

「宮東」

「くとうかなたくんかあ。でも私、ジュリちゃんって呼ばれるのも結構好きだったけど」

「あっそう」

 どちらともなく頬笑みあって、絃が叶汰の腰へ足を掛けたのを皮切りに唇が重なった。互いのそれを食み、叶汰が下唇を甘噛みして舌でなぞる。もっと開けて、の合図だ。薄く開いた歯列の隙間から先端を忍ばせ、やわい舌の腹が絡み合っていく。絃が頬を両手で包み込み、心地よさそうに吐息をもらしながら何度も舌を吸い上げる。散々酔っていたくせに意識が覚醒してきたらしい。彼女のこれにめっぽう弱い叶汰は、髪の毛を鷲掴みながら絃の唇に食らいついた。やがてとんとん、と背中を叩かれたので顔を上げると、彼女の目は完全にとろけきっていた。

「なに」

「……なんか今日、いつもに増してすごくエッチなんだけど」

「俺が?」

「そう」

 呼気を乱しながら力無く笑う姿は、雄の欲を掻き立てる以外の何者でもない。叶汰はおもむろに上体を起こすと、スーツを脱ぎ黒いシャツのボタンに手をかけた。絃が脱がせて? と言うように両手を上げるから、ワンピースの裾からたくし上げていく。暗い寝室には、薄いカーテンを透かして青白い月明かりが淡く差し込んでいた。冬空高く、満月は中天にかかっていた。叶汰は自分の影が落ちる絃の身体を見下ろし、胸のふくらみにそっと手を置いた。皮膚が薄い。この絹のようになめらかな肌に爪を深く突き立てたら、噛み付いたら、どうなるのだろうか。自分がつけた傷から滲む鮮血を想像して目を細める。加虐心が燃えるように湧き上がり、手をすべらせ首に枷をかけると、親指の爪を立てた。

「…………いやなことでもあった?」

 力のこもった叶汰の腕を優しく撫でながら絃がたずねる。脳裏に神楽坂での光景がノイズのように入ってきて我に返る。眉根を寄せた叶汰は、ゆっくりと首を横に振った。今は忘れていたい。頷いたら、堰き止めている虚無に押しつぶされて彼女の身体をどうしてしまうかわからない。覆いかぶさり、甘やかな香りがする双丘に顔を埋めた。下着を外してふんわりと溢れる柔肉を愛でていく。閑静な夜に、絃が足先でシーツを掻く音も、子猫のようなか弱い鳴き声も、叶汰の鼓膜は全てを拾っていく。

「……ねえ」

「ん?」

 絃の媚びるような視線に、熱情が身体中に巡り出した。彼女の下腹をさすりショーツを下ろす。秘めた部分に指を這わせて蹂躙する。背中をしならせた絃がシーツを濡らしていく。文句を垂れていたくせに、叶汰は猛烈に昂っていた。二の腕、胸元、脇腹、太もも――――。ぺっとりと手のひらに吸い付くもち肌を食んで、ここならいーい? と内ももにきつく吸い付く。焦らすように鼠蹊部を舐って見せつける。

「もう、お願い……かなたくん」

 ――――頭上から懇願する涙声がして、叶汰の目が見開いた。

 絃は何も知らない。叶汰に兄がいることも、叶汰の素性も生業も。能天気な酒飲みで、ただ何日もあとを引くほど身体の具合が良いセックスフレンドに過ぎない。なのに名前を呼ばれて、不意に叶汰の喉奥が熱くなった。宮東弟でも、湊の弟でもない。今、純粋に自分を求められている。一度押さえ込んだ遠い昔の侘しさがぶり返し、上体を起こして熱を押し挿れた。震える唇を悟られないよう、耳殻に歯を立てた。情緒が錯乱しながら溢れている。汗ばむ肌が重なってひたすらに気持ち良い。絃ちゃん、と囁き落とす度に熟れた中はうごめき、叶汰の意識は薄白んでいった。



「ご機嫌だね」

「うん。今日、とっても気持ちよかった」

 絃はシーツにくるまりながらまたあの鼻歌を歌っている。終盤あんなに揺さぶられていたくせに酔いは覚めているようだったし、事後もどこかしら叶汰の顔に触れており、頬を撫でたり唇をむにむにとつまんだり、スキンシップもぐっと近しくなった。甘えん坊の猫に懐かれたみたいだ。

「そういえば、世界中で絃ちゃんしか知らないその曲ってどんな歌詞だったの」

「えー……? んーとねー」

「うん」

「……何を考えているかわからないあなた、その猛毒のような魅惑から抜け出せない、みたいな歌詞だったかな」

 叶汰は真っ先に湊の顔が浮かんだ。少し冷静になってみれば、「未亡人」と「精神科医」の点と点はわけなく繋がって、片腕で目元を覆いながら自嘲するように笑った。そのことを思うと、胸板に一本の細い針が突き立てられ、容赦なく人差し指で押し込まれるかのように胸が痛む。しかし叶汰は同情も出来る。自分も、生まれた時からそんな兄に魅了された人間の一人だ。憧憬と嫉妬、尊敬と劣等、対極がこの上なく濃縮されたカオスに長いこととらわれていた。その古傷に引き合わせる意地の悪い運命が粛々と近付いていたこと。蓋をした箱の中で腐敗し消滅したかと思いきや、カオスは形も重みも変わらず、十年かけてゆっくりと叶汰の深淵に沈んでいただけだったということ。

 ――――探している曲がある、と言われた新月の夜も、湊のところへ行ったのだ。あの夜、叶汰は確かに浮かれていた。浮かれていた最中、その裏側では沙夜と湊の世界があった。想像なんてしたくないのに、脳内にはまるで映画のワンシーンのように二人の映像が流れてきた。世の中には知らなくてもいいことの方が多いのだ。記憶を消す方法なんてない。知ってしまったら、どう足掻いても知る前の自分には戻れない。

 結局、これからも兄がよく見えてよく見えて仕方のない人生なのだろうか。比較癖はもしかしたら、永遠に治ることはないのかもしれない。

「かなたくん、やっぱり嫌なことあった?」

「…………ううん? ね、もう一回しよっか」

「えー。元気ー」

 絃はそう言いながらもきゃっきゃと嬉しそうで、叶汰に覆いかぶさった。だから叶汰も腕を避けると彼女のこめかみに指を差し入れた。そしてまた、自分の気持ちに蓋をするように、絃の顔を引き寄せ口付けた。




「八乙女、西島。新規ルートの話はどうなってる?」

「沙夜さん、その件なんですけど……」

 名前を呼ばれた幹部二名は、ばつの悪そうな顔で沙夜の元へと駆け寄った。耳打ちをされた沙夜は「そう。じゃあ別案を。私も引き続き探すから」と強い口調で言い放った。今日は珍しく幹部全員が揃っているものの、その瞬間室内はしん、と静まり返った。密輸ルートが暴かれてからというもの、金扇組の本部にはどことなく緊張感が漂っている。あれから二ヶ月が経とうとしているにもかかわらず、なかなか新規開拓が出来ていないのだ。けれど収益はそこだけではない。むしろ他は好調だった。特に別の幹部が担当している不動産業は、円安の影響で中国系投資家による高層マンションの一棟買いが相次いでいた。だからもしかしたら、そこに多少の焦りが滲んでいるように見えてしまうのは、大和の後を継ぐ沙夜のエゴなのかもしれない。

 時刻は九時を回っていた。沙夜が本部を出る時間だった。叶汰は彼女がキリの良さそうなところを見計らって車のキーを持つと、一足先に駐車場へと降りていった。

 今夜も叶汰は、沙夜を新宿へと送り届ける。外苑東通りの赤信号でスーツのポケットをまさぐり、前方を向いたまま後部座席へと腕を伸ばす。

「沙夜さん、この前イヤホン落とされてましたよ」

「宮東が持っててくれたの。ありがとう」

「いえ」

 青信号になりアクセルを踏む。そこからはしばらく沈黙が落ちていた。沙夜は「この前見てたでしょ」なんて言う女ではない。叶汰ももちろん余計なことは言わない。指先まで石のようになってしまったあの夜は、結果的に絃に救われた。そこから数週間。思いもよらなかった現実を見せつけられ、濁流のように記憶を甦らせたこのたった一つの白い粒を時折手のひらに乗せて眺めると、全てを反芻してやるせない気持ちになった。でも壊すのも捨てるのも違うと思った。

 叶汰は、沙夜が一人の女として最も欲しい情報を知っている。しかし今、それを伝えたかったあの夜のように緊張も高揚もしていない。沙夜を前にして、不思議と胸中は凪いでいた。十二月に差し掛かり、街はイルミネーションに彩られていた。

「もう、二度と出会えることはないのかも」

 延々と続く葉の落ちた街路樹を眺めながら、沙夜が足を組みかえ、呟いた。

「…………三日で配信中止になったとおっしゃっていた曲ですか?」

 五秒ほどの間が空き、沙夜はそう、と答えた。そのあと後ろから自分の横顔をじっと見つめる沙夜の視線に気づくこともなく、叶汰は四谷三丁目の交差点を左折する。ゆっくりと呼吸をして、唇を開いた。

「いつか、見つかるといいですね」


 ――――バックミラーで沙夜を垣間見た。再び窓の外に顔を向けた沙夜と目が合うことはなかった。

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トキシックロマンス-劣等パラドックス- @yoru_n_o

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