トキシックロマンス-劣等パラドックス-

#1

 リリースからたったの三日で配信中止になった曲がある。高層ビル群の上にピンクの巨大な満月が浮いているジャケット写真と、微睡みを誘うメロウな曲調が沙夜の脳内を延々と巡っていた。

「沙夜さん、こいつらどうしますか」

 廃墟ビルの地下一階。朽ち果てたコンクリートの仄暗い部屋には、低い天井の錆びたパイプに取り付けられた心許ないクリップライトが四つ。沙夜の周りには、黒いトレンチコートを身にまとった男が七人。部屋の中心には、手首を背中で拘束され、狼狽えながらひざまずく血まみれの男が二人。

「ごめ……なさ……ゆる、して……く、だ……」

 一人はうなだれて血反吐を吐いており、もう一人は片目を潰されながらもまっすぐに沙夜を見上げている。掠れた声の懇願が室内に響く中、皆が沙夜の言葉に耳を傾けていた。

「…………うちにはいらない」

 頭の中の音楽を止め、冷ややかな声色と共にゆっくりと床を見下ろす。「了解しました」と男の一人が拳銃の引き金を引く。

 ――――金扇かなおぎ組。総勢約一〇〇〇人。東京都の麻布十番に総本部を構えている。賭博、売春、薬物の密輸と売買。この組織の長であり、沙夜の最愛の夫であった金扇大和が他界して一年が経った。世の中の犯罪に対して、沙夜は元々なんの抵抗もない。肝もまあ据わっている。だから、大和を慕っていた幹部たちから後任を依頼された時、迷うことなく承諾した。大和を一番近くで見ていたから、組織の流れはおおよそわかっていた。

 不始末を起こした者や規律を乱した者たちが暴かれ、あらゆる金属棒でメッタ打ちにされ、血みどろで死んでいくのを見るのももう慣れた。今日の二人は売り捌くはずの覚醒剤に手を出していた。更には大和が開拓した独自の密輸ルートを、大金と引き換えに敵対組織へ横流しした。日本では滅多にお目にかかれない入手困難なセックスドラッグで、金扇組だけが仕入れることが出来る珍品だった。

 大和は生前、覚醒剤に手を出すことだけは禁じていた。嵌まってしまえば身体は衰え、まともな判断が出来なくなる。例えば口外厳禁の機密情報を言いふらす。平気で仲間を売ったり殺せるようになる。

 ――――まさに大和の描く最悪のシナリオ通りにやらかした組員に対して、今日の沙夜の指示は今までで一番苛烈なものだったのではないだろうか。この場にいた全員がそう思っていた。

「ちゃんと片付けておいてね」

「はい」

 沙夜が踵を返し出口へ向かうと、七人の幹部のうち一人が後に続いた。


宮東くとう、今日はこの辺でいい」

「……こんなところでいいんですか?」

「大丈夫」

 金扇組幹部・最年少の宮東叶汰くとうかなたは、組の中で唯一沙夜の送迎が許可されている。送迎と言っても無論、終始張り詰めていて、和気藹々とお喋りをするような雰囲気ではない。だから、叶汰の淡い淡い憧憬に気づかれることも決してない。

 時刻は〇時を回っていた。車は新宿駅の南口を通り過ぎたばかりだった。あの廃墟から沙夜の自宅まではちょうど中間地点といったところだろうか。車窓から外を眺める沙夜の横顔を、叶汰はバックミラー越しに一瞥した。

 暴かれた密輸ルートは近いうち侵略されるだろう。なのに沙夜の顔はすんとしたまま、焦りや動揺は見えない。叶汰は、沙夜が大和の葬式でも涙一つ見せていなかったのをふと思い出した。そんな謎めいて強かなところが、自分だけでなく多くの組員の心を惹きつけているのだろうと叶汰は考える。

「どのあたりにお停めしましょうか」

「…………探している曲があるの」

「はい?」

 喜怒哀楽の感情をまるで持っていないような振る舞いをする女ボスの唐突な呟きに、拍子抜けした叶汰の声はいささか跳ね上がった。

「……メロディーもジャケ写も覚えているのに、曲名とアーティストが思い出せない」

 顔は外を向いたまま、叶汰にたずねているというよりかは、わからない自分自身に問いかけているようだった。それでも、こうして沙夜と話せる機会は滅多にない。叶汰はなんだか胸が弾んで、出来れば見つけてやりたい、と思った。

 聞けば、ある音楽配信アプリではAIの分析によって「あなたへのおすすめ」プレイリストが週一で更新されていくらしい。そこからその曲に出会い、お気に入りフォルダに追加して毎日聴き入っていたものの、三日で配信が中止され、さっぱり無くなってしまったとのことだ。ビル街の夜景にピンクの満月が浮かぶジャケ写、洋楽、女性ボーカル、ムーディーで暗くどこまでも沈んでいくようなダウンテンポ。与えられたヒントはこれだけだった。聴けば聴くほどあとを引く曲調に魅了され、アーティストのページに飛んだとき、リリースしているのはその一曲のみでフォロワーはたったの一名。沙夜が二人目になったと言う。

 その曲名もアーティスト名も、確実に一度はこの目で見ているのに――――。目よりも耳で覚えていた。思いつくワードを入れてみても、所詮は雲を掴むようなものばかりで永遠に辿り着ける気がしない。そう思えば思うほど、聴きたくて仕方がなくなる。

「なるほど」

 デビューしたてのアーティストだったのだろうか。叶汰は真剣に聞いていた。しかし初めて目の当たりにした沙夜のプライベートに内心では浮き立っていた。

 過去、あの廃墟で沙夜が自らペンチを持ち、ターゲットの歯を無表情で抜いていった夜もあった。そいつのある一言が逆鱗に触れたのだ。幹部全員を密かにおののかせた冷酷な女にもこういう一面があるのかと思ったら、ますます見つけてやりたくなってきた。

 まず、音楽を聴いている沙夜に人間味を感じる。加えて音楽配信アプリをダウンロードし、用意されたおすすめプレイリストを律儀に聴いて、良い、と思ったらハートを押すし、お気に入りフォルダを作っていること。気に入ったアーティストはフォローすること。音楽は耳で記憶するタイプであること。

「……変な話して悪いわね。じゃあまた」

「はい、お疲れさまです」

 指示された通り、車を甲州街道沿いにある服飾学校の前に停めた。沙夜はいつも通り淡々と、にこりともせずに車を降りていく。後ろ姿をしばらく目で追っていた叶汰は、沙夜が横断歩道を渡ったのを見届けると、早速スマホで検索をかけた。



 新月のもと、パークハイアットに向かいながら、沙夜はこれから会う男の顔を思い浮かべていた。今日は忙しない。はらわたを静かに煮えくり返らせながら暴力的な仕事を終えた直後に、深夜の閑寂な街道を歩き都内屈指のラグジュアリーホテルに入ろうとしている。叶汰にエントランスまで送ってもらっても良かった。でも、一人の時間がほんの少しでいいから欲しかった。

 照明の落ちたロビーを通り、エレベーターに乗り込んだ。五十階の廊下を歩き、一番奥の客室のドアをノックする。

「お疲れさま、沙夜さん」

「……ごめんなさい、お待たせして」

「いいえ」

 中から顔をのぞかせた男は沙夜を迎え入れると、ゆったり目元を緩ませた。今夜はスーツに、無造作なウェーブがかかったショートの黒髪を七三に分けている。

「ご飯、一緒に食べたかったな」

「また今度ね」

 橙色のスタンドライトにほの明るく彩られた部屋にはキングベッドが一つ。縁なしの大きな窓からは、東京タワーや代々木公園、高層ビル群のネオンや寝静まった都内の街並みが一望できる。トレンチコートを脱いで窓辺のソファに浅く腰掛けた沙夜の心は、徐々に平穏を取り戻していく、はずだった。なのにそんな間もなく、隣に座った男から向けられる視線に胸の内がじんわりと沸き立っていく。

宮東くとう先生、久しぶりに会った気がする」

「久しぶりって言っても十日前でしょ? あとその呼び方、こうして会ってる時はやめてほしいかな」

「……みなと

 沙夜はやわく頰笑んだ。頰笑んで、しなりと下を向いた。伏せたまぶたから漂う哀愁。しとやかなまたたき。湊は背もたれに肘をかけ、自分の下唇をいじりながら、沙夜の目元から胸のふくらみ、足先までをおもむろに目で辿った。

「ずいぶんお疲れだね」

「色々大変だったの」

「ふーん。それで夕方連絡してきたんだ?」

「そう……ダメだった?」

「……まさか」

 会話に間が空いていく。長いまつ毛に縁取られた瞳が自分を捉えると、湊は沙夜を押し倒した。

「ダメなわけないでしょ、沙夜さん」

「…………沙夜って呼んで」

 緊張がほぐれたように力の抜けたまなざしが向けられる。たまらない、と出かけた言葉を、湊は目を細めながら飲み込んだ。

 ――――人知れず失意のどん底にいる未亡人からしか得られない蜜がある。組長から女になるこの瞬間こそ、湊の高揚は最高潮になるのだ。沙夜の頬に手を添え、親指の腹で撫でる。首をかたむけて、紅唇にゆっくりと自分の唇を重ねる。弾力を確かめるように啄み合い、やがて舌が螺旋を描きながらもつれていく。密閉された口内で、互いの舌裏から、上顎、歯列をなぞり合う。

 は、と口を離した沙夜の瞳は潤んでいた。湊は頬をすり寄せ、首筋を甘噛みしてから顔を上げた。沙夜は湊の垂れ落ちた前髪から、一挙一動を目で追った。

 宮東湊。職業は精神科医。骨張った細長い指でネクタイが緩められていく。強烈な色香が解き放たれていく。沙夜はこの指でカルテを書く姿を思い出した。湊は診察と治療だけでなく、カウンセリングも行っている。初診時は、まさかこんな関係になるなんて思いもよらなかった。

 プライベートになれば口数は多い方ではない。和やかで聞き上手だけれど、どこかミステリアスな雰囲気で腹の底は読めない。そんな男がセックスの時に見せるじっとりと官能に満ちた表情や仕草に、無性に甘えたくなってしまう。ファーストコンタクトは湊からだった。けれど、それ以降はいつだって沙夜から連絡をしている。

 はやく、と急かすように湊のシャツのボタンを外し、自分のワンピースにも手をかけた。湊は、雪白の肌をうっとり撫で下ろしながら「綺麗な身体」と囁いた。熱い舌を胸元へ乗せて、慈しむように身体中を食んでいく。息が上がってきた頃、ここならいいでしょ、と内ももにきつく吸いつき痕を残される。焦らすように鼠蹊部を舐られる。沙夜の啜り泣くような声が湊の鼓膜を、色情を揺らす。

 金扇組の後任を承諾したのは、もちろん自分なら出来ると確信があったからだ。やるからには大和を生涯想い、大和を生涯背負い、大和のように任務をこなしたかった。しかし強かな性格とは裏腹に、その確信や理想の中には、自分が担うことによって心のどこかに大和の魂が宿るのではないだろうかと期待があった。広い自宅に一人でいると突然喪失感に襲われて、涙を流す時もあった。それでも自分を奮い立たせ、死者に思いを馳せ、そっと共存を夢見ていた。

 けれど今、その期待の輪郭が溶けつつある。一回り以上年上の大和が自分にだけ見せる甘い顔が恋しくて仕方がない。冷徹で残忍な判断力を持つ反面、仁義を重んじる男だった。頭がキレて、交渉上手で。威厳がある姿で部下を引っ張っていく大和が恋しくて仕方がない――――自分でいたい。揃いの彫り物を強要された時、絶対イヤ、と突っぱねた。すると大和は大笑いをして、あっそ、結婚するか? と支離滅裂なことを言ってきた。

「沙夜。何考えてるの」

 湊のはっきりとした低い声に、小さく息をのむ。意識を目の前へと戻される。自分をまっすぐ見下ろす尻下がりの目を見て自問する。いいんだろうか、これで――――。自分の理想から離れていく自分への負い目に、喉の奥が熱くなって、涙がこめかみを伝う。

「そういえば俺の弟、元気にしてる?」

 今度はあやすような声色に、沙夜はこくこくと頷いた。「あ、また中締まった」と湊が耳元へ口を寄せて意地悪く笑った。

 三ヶ月前。初めて湊と身体を重ねた日の帰り道は雨が降っていた。大和とは比べ物にならないくらい身体の具合が良かった。年下で、程よく筋肉がついた細身の体躯も沙夜の好みだ。ホテルを出てもなお、ぼうっと心身が茹っていた。思い出すだけで下腹が疼く背徳感。傘で顔を隠しながら、気が済むまで夕方の西新宿を歩き続けた。大和が死んで、九ヶ月ほど自分の中で必死に築いてきたものがほろほろと崩れていく気がした。寂しさが薄れたような感覚もあった。その変化がひどく危険な気がした。だんだん無音が耐えられなくなってイヤホンをつけた。その時「今週のあなたへのおすすめ」から流れてきた一曲目は、まるで不安定な沙夜に寄り添うかのように、重い低音と寂しいボーカルの声が耳から全身へと沈み込んでいった。それが湊の記憶と大和への罪悪感と共に身体に刻まれていくようで、やましくも得体の知れない心地よさがあったのだ。

 今夜も湊に身を委ねながら、沙夜は三日で消えてしまったあの曲をやっぱりもう一度聴きたい、と思った。

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