六話 小さな恐怖に誘われ

 数日後、そろそろ望緒も巫女の仕事に慣れてきた。変わらず、字を書けるほどではないが。


「お納めください」


「ありがとう」


 三十代中頃の男性が一礼し、神社を後にした。


「すみませーん」


「?」


 女の子の声がしたはずなのだが、望緒の前には誰もいない。周りにもいなさそうだ。なら、一体どこで声がしているのか。


「こっちです、こっち」


「……あ!」


 望緒が下を見ると、女の子が台を手で掴んでぴょんぴょんしているのが見えた。


「えと、どうしましたか?」


「着いてきてください」


「えっ」


 何かを買うのかと思っていた望緒は、拍子抜けな声を出した。


「あー、ごめんね。ここを離れるのはちょっと……」


 今、飛希は徳彦と共に事務作業をしている。望緒がここを離れてしまうと、御守りを授与することができなくなる。


 だから、この場から出ることはできなかった。


「来てください」


「うーん、でも……」


「……」


 望緒が躊躇っていると、少女は彼女の目をまっすぐ見て、圧をかけてきた。それは小さな人間とは思えぬほど。


「な、なんで着いてきてほしいの?」


「…………着いてきて」


 望緒がどれほど訊こうと、少女はそれだけしか言わない。困り果てた望緒は、飛希たちに相談しようと立ち上がろうとするが……


「!?」


 立ち上がろうにも立ち上がれない。なぜか体が重く、完全には持ち上がらない。


 横目で見ると、少女の灰色の瞳がやけに不気味に光っている。恐ろしくて、冷や汗が流れる。


「わ、わかった…………」


 為す術なく、望緒はその少女について行った。


「……望緒?」


 事務室から出てきた飛希は、少女に連れられる望緒の後ろ姿を見て、そう呟いた。



 ––––どこまで行くんだろ……。


 連れられてから数分、少女は止まろうとしない。ついには薄暗い森の中まで来てしまった。

 そこまで来て、望緒は意地でもついて行かなければと後悔をした。


 全身の震えが止まらない。今からでも帰ってしまいたいと思うも、少女が手を強く握っているため、離すことができない。


「ね、ねえ……やっぱり、心配だから戻っても––––」


 そこまで言うと、少女は望緒に背を向けたまま立ち止まった。その後ろ姿はなぜかおぞましかった。


「……うん、ここまで来れば大丈夫だね」


「え……?」


 望緒は自分で自分の声が震えているのを感じた。

 少女はくるりと振り向くと、口角を高く上げる。


「もう気づいてるでしょ? わたしが“念”だって」


「……!」


 図星、である。神社で身体が持ち上がらない時点で、既に気づいていた。にもかかわらず、ここに着いてきたのは、為す術がなかったから。


 四家の生まれでない望緒は、特殊な力が使える訳でもない。抵抗なんざできるわけもない。


「わ、たしをどうしたいの」


「え、殺すだけ」


 何の変哲もない淡白な言葉が、逆に恐ろしい。


「わたしね、人間がグチャッてなるところを見るのが好きなの。血がいっぱい飛び散って臭くなるのが好きなの」


 常人には理解し難い所業。

 望緒の腕を握る念の手が、段々と強い力になっていくのを感じた。


「っぁ……」


 『離して』の言葉が言えない。恐怖は最も人間を無力にする。望緒の身体は震えて力が入らない。入ってくれない。


「ごめんね、わたしのために死んでね」


 念がそう言い、彼女の首に手をかけようとしたその瞬間––––


「っあっつ!?」


 念の左腕が火に包まれる。赤く揺らめく炎が、小さな手を熱気と共に焼いている。


「望緒!」


「ぁ……」


 望緒が振り向くと、飛希と徳彦がこちらへ走ってきているのが見えた。飛希が望緒の肩をがっしり掴む。


「なんでついて行ったの!?」


「あ、えと……」


 彼の剣幕に気圧され、望緒は何も言えず目を逸らした。そんな様子を見かねて、徳彦は飛希を引き剥がした。


「飛希! 望緒ちゃん、怪我は無い?」


「はい……ないです…………」


 徳彦の穏やかな表情で、彼女の涙腺が緩み、少し涙目になった。


「危ないから、離れててね」


 望緒は喉が熱くなり、鼻の奥がツンとなるのを感じた。それのせいで声が出なかったため、黙ったまま二回ほど頷く。


 無言の飛希に連れられ、彼女は少し離れた場所へ避難した。


 そこから見えたのは、徳彦が手から炎を出して念と戦っている様子。周りの木に当たらないよう、よく調節されている。


 念は意地でも当たるまいと、必死の形相で左右に避けている。たまに、髪にチリッと当たり、歪んだ表情をした。


 しかし、人間で且つ小さな身体の念は思いのほかすばしっこく、なかなか致命的な攻撃は当たらない。


「……」


 二人はそれを黙って見るだけ。無理に入れば、逆に足手まとい。


 念が反撃しようと力いっぱい脚に力を込め、右手を出して徳彦に飛びかかろうとする。が、その一瞬の隙を見逃さなかった。

 彼は念の鳩尾みぞおち付近に手を当て、その状態で手から炎を出した。


 すると、一瞬で念の身体が火に包まれ、塵となって消えていった。


「……何も、残んない…………」


 骨も灰も、何一つとて残ることはなかった。ただ、火の粉が空を舞って消えていっただけ。


「……ふう、さ、二人とも帰ろうか」


 望緒は呆気に取られながらも頷いた。

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