第10話

十歳の誕生日に拾った猫は、元気になってくれたかと思うと、いつの間にか姿を消してしまった。


その時は寂しかったものの、猫ちゃんは自由に生きてゆく事を選んだんだと言い聞かせた。


精霊達も、猫ちゃんについて「あのものは、己のいるべき場所へ戻っただけなのですから」と言ってくれたから、猫ちゃんはきっと大丈夫だと思えたの。


移ろう日々に寂しさも遠のき、私は日常生活をより良く過ごす事に邁進しようと努めていた。それは満ち足りた日々でもあった。


「主の兄君、そこの綴りが間違っています」


「え?そうなの?」


ある日、お兄様と漢詩をさらっていた時の事。


地の精霊の言葉を聞いた私がお兄様の書き写している漢詩を見ると、確かに部首を間違えていた。


「お兄様、そこの文字はこざと偏です」


「あ、精霊様が教えてくれたのかな?古代文字はやっぱり僕には難しいかもしれないね」


「地の精霊は、お兄様の知識量は年齢的に見れば優れていらっしゃると言ってますよ」


お兄様は精霊に褒められたとあって、顔を輝かせた。


「古の存在に言ってもらえたなら自信になるね」


「……ただ、兄君は古代文字よりも数学の方が才を発揮出来るかと存じますが」


……これは伝えて良いものか迷うなあ。


そう思ったのが顔に出ていたらしい。お兄様が「精霊様が何か言ったかい?」と訊いてきた。


「あの、……お兄様は数学の方が向いていると……」


「そうだよね……僕も数学を学ぶ方が古代文字より楽しいからなあ……」


お兄様は少し肩を落としたものの、お兄様の数学への学習進度はかなりのものなので、納得はしている様子だった。


「お兄様、精霊達はお兄様の事を、熱心に学ぶ姿は心地よいくらいだと言っています」


「僕の事を激励してくれてる?もしかして」


「はい、跡取りとして模範的だと」


「嬉しいかも……」


お兄様は照れくさそうに笑って、こめかみの辺りを掻いた。


──幸せな毎日に精霊達との会話も加わり、変わる事なく優しいお兄様と勉強したり、家庭教師を付けてもらって礼儀作法を学びながら、私は十二歳になっていた。


この世界では、お茶会に参加する事やお茶会を開く事に年齢制限があって、十三歳になって初めて許されるようになる。


言い方を変えれば、十三歳になったら顔出ししなければならなくなるという事。


私ももう十二歳にもなれば、いつまでも周りに守られてばかりいて、ぬくぬくと暮らしているだけでは済まない。


隠してきた容姿についても、女神様が与えて下さったものだから、隠したまま生きる事は女神様も望んでいないと思うし。


かといって、お茶会は知識を披露する場ではないから、生まれ持った前世での知識は出すのを控える必要がある。そこを弁えておかないと痛い目に遭うからね。


たおやかな令嬢として振る舞って、穏やかに微笑んだりしながらお喋りに共感してみせたり、腹のうちを探ったりして……上手く出来るか不安だけど……。


でも、世間では既に、フィニアス侯爵家には素晴らしい令嬢がいるという噂が出始めているしね。


繰り返すようだけど大事な事だから言うと、下手に尻込んで社交を避ける変わり者として後ろ指を指されるだなんて、それこそ女神様が与えて下さった人生に反するのよ。


かといって、受けて立つより攻めに出る方が楽ではあるけど、私は世間の荒波に揉まれる事なく育った──つまりお茶会を開く為に必要な、招待客に出来る人脈を作る機会がないまま、十二歳になったから……はじめは受けて立つしかないんだよね。


「我が主よ、世間の好奇心を思えば、十三歳になると同時に招待状も送られてくるようになるはず」


部屋で読書にも飽きてきた夜、風の精霊に言われて、私は頷いた。


「その時には適度に相手を選んで、自分の身の丈に合った人脈を作ろうと思うわ。ただ……」


社交はそれでいいとして、気になるのは高位貴族令嬢なのに、この歳になっても婚約者──政略結婚の話を聞かされない事かなあ……とか、我ながら呑気に考えてみる。


「我が主、どのような心配事もお一人で抱え込まぬよう。我らが控えております」


「ありがとう、心配っていう程でもないのよ、何となく……不自然かもと思っただけなの」


精霊達と会話をして、その日は眠る事にした。


──その矢先の事だった。


「ダフォディル、午後に執務室に来なさい。大事な話があるからね」


「?──はい、お父様」


朝餐の時に言われて、執務室に呼ぶなんて、よほど大事な話なんだと思った。


お父様の声は僅かに固かった。不快そうではないから、悪い話ではないんだろうけど。


お母様はカトラリーを置いて、一言だけ言葉をかけてくれた。


「ダフォディル、お父様のお話に悩んでも、あなたの心を大切にするのよ」


……これは……縁談?


正直、ついに来たかという感じでもある。


「我が主よ、私達という存在が常に共にございます。主に心細さなど味わせは致しません」


精霊達が心強く励ましてくれる。


たとえ縁談でも、すぐに嫁ぐ訳でもないだろうし、何よりお父様がお母様と話した上で私に聞かせる事にしたのなら、私を不幸にする内容ではないはずだ。


果たして、緊張しながら執務室に行くと、「ダフォディルにお茶を」と言って、お父様が執事長にミルクティーを用意させて、私が一口含むのを見守ってから話し始めた。


「王家の第二王子、アイオーン殿下の事は知っているね?」


「……はい。とても厳しく己を律しておられるお方だと聞いています」


「そうか……ダフォディル、そのアイオーン殿下の婚約者として、お前をと国王陛下から話が持ち上がったんだ」


──はい、いきなり難易度一番高い相手来ました。


この第二王子、アイオーン殿下は王妃様が生んだから、愛妾が生んだ第一王子のカタロン殿下より手をかけられていて、立太子される事になるんだけどね。


カタロン殿下ルートも影があってネガティブな印象の描写が多かったけど、その兄を差し置いて立太子されるアイオーン殿下も、なかなかに気難しい。


それもそのはず、意外にも実はこの二人、お互いを尊敬し合っていて大変な仲良し兄弟。


王家には四人の王子がいて、カタロン殿下以外は王妃様がお生みになったけど、第三王子と第四王子はゲームだと幼い年齢のせいか影が薄くて、もっぱらカタロン殿下とアイオーン殿下の絆ばかりが描かれていた。


カタロン殿下は弟が大事だから身を引こうとするし、アイオーン殿下は兄を立てたいから自分は常に控えめであろうとする。


それなのに、周りの大人達は二人を反目し合うように仕向けるんだよね、国王陛下の愛妾への寵愛がとにかく深いから。


王妃様は立場上、国王陛下にも重んじられているけど……それと愛情は別物なんだろうな。


そんな背景で育った二人の王子だけど、根は優しいし女性には紳士的なのよ。それで何が難しいのかって、育った環境のせいで恋愛に奥手すぎるところ。


王妃様と愛妾の間では、国王陛下を巡って何かと問題が起きていたんだろうけど……子供達には何の罪もないんだし、巻き込まないでやって欲しい、全く。


でも、こうして婚約の話が来てしまったからには前向きに考えなきゃいけない。


アイオーン殿下から好かれるには、カタロン殿下を褒めて認める事。貶めない事。でも喜ぶからとカタロン殿下を褒めてばかりいると、妬み嫉みが生まれて上手くいかなくなる。


アイオーン殿下にはアイオーン殿下でしか成し得ない事があると、きっちり励ます事も大事なんだよね。


まあ、「王族だからと必要以上のものを求める事は己の傲りだ」と言い切るくらいストイックだから、手加減が難しいところだけど。


──と、頭の中で前世のプレイ内容を慌ただしく思い返してみていると、お父様が心配そうに言葉をかけてきた。


「私はダフォディルの意思を尊重したいと思っているんだ。いずれは、どこかに嫁ぐ事になるだろうが……この婚約話が茨の道になるなら、国王陛下の打診であろうが、無理に進めようとは思わない」


「お父様……」


──私はこんなにも思いやられていて、守られていていいのだろうか?


唇を一度だけ、きゅっと噛んで口を開いた。


「お気遣いありがとうございます、お父様。私はそのお気持ちだけで十分満たされています。──こうしたお話が出たのも、何かのご縁でしょう。お会いしてみようと思います」


「ダフォディルがそう言ってくれるのなら……一応、王家の人達に全てを晒す事は避けて髪は金髪に染め、瞳はなるべく隠すよう伏せがちにしておく事。いいね?」


お父様は叶う限り私を守ろうとしてくれている。


「はい、分かりました。お父様のお心遣いには感謝しています」


こうして、ついに攻略相手の一人であるアイオーン殿下と、対面を果たす事が決まった。


不思議な事に、髪は虹色なのに睫毛は明るい金髪なので、そこは気にしなくても違和感なく大丈夫なのが助かる。


当日は四頭立ての我が家でも特別な時にしか使わない馬車に乗り、王城へと赴いた。


壮麗なお城に、私はこの国の大きさと世界的立場を改めて考えさせられたけど、怯んでばかりではいられない。


お父様と共に謁見の間へと案内されながら、磨き上げられた大理石の空間を歩き、これから待ち受ける運命の転換点を、心の中で覚悟した。

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