第8話
イレギュラーな闇が目覚めた──そう聞かされて、不安も抱いたけれど、今の私を取り巻く環境の中には闇と言えるような存在はいない。
私は新たな侯爵家令嬢としても、変わる事ない家族からの愛情に守られて、とりあえず毎日を平和に暮らしていた、ある日の事だった。
是非ともダフォディルお嬢様へお伝えして欲しい、という言葉と共に手紙が送られてきたのだ。
まず、怪しい物ではないかを確かめる為に、お父様が開封して一読し、溜め息をついた。
「お父様、お手紙には何と書かれていましたか?」
お父様は気難しい顔をしながら、苦々しそうに言った。
「どこぞの伯爵家の跡取り息子が、病を得たらしく……うちの領地の近郊で静養しているらしい。そこでダフォディルが神童だという噂を聞きつけたとか」
「そうなのですか……でも、それだけではないですよね?」
お父様の面持ちが更に曇って、忌々しいとでも言いたげになった。
「ダフォディルの力を借りて、病を何とか出来ないかと頼んできた」
「あら、まあ……私には病を治した経験などありませんのに」
でも、治療法を知っていて、この世界でも対処可能な病気なら治せるかもしれない。内服薬の処方や外科的治療は無理だけど。
「お父様、とりあえず困っている方を無視するのも心が痛みます。話だけでも聞いてきてよろしいでしょうか?」
「しかし、ダフォディルに万一の事があったら……」
「私ならば大丈夫です。騎士の方々に護衛をお願い出来ますか?あと、髪の染め粉があれば一時的に変装していられます」
「ダフォディルの優しさが、付け入られる事のないように祈るよ。騎士は精鋭を付けよう」
お父様は渋々だけれど、心配そうに言いながらも許してくれた。
用意された染め粉は茶色だったけど、元の髪の色が明るすぎるのか、なぜか明るいアッシュブラウンになってしまった。それでも虹色よりは遥かに目立たずに済むから文句は言えない。
そして手紙にしたためられていた内容では、馬車も用意すると書かれていたけど……それは断って、うちで用意した馬車で訪問した。
屋敷の雰囲気は、跡取りである令息の不調が原因なのか、どんよりとしていて重たく暗い感じがした。
案内されて部屋に入ると、ベッドに横たわっていた令息が、私を見るなり跳ねるように体を起こして、まくし立ててきた。
「あの、医者からスピロヘータ感染していると言われてしまい……思い当たる事なんて、たった一度だけなんです、娼館に赴いて……でも、共寝まではしなかったんですよ?ただ、一緒に踊って口づけを交わしたのみなんです。悪魔の仕業としか思えません!」
スピロヘータ感染……娼館に行ったという心当たりもあり、キスもした……うん、梅毒トレポネーマ感染だね。
前世でも、梅毒を梅毒スピロヘータ感染と言っていた時代があったのよ。後になって、梅毒トレポネーマに言い方が変わったけど。
まあ、それはともかく、梅毒の治療法はペニシリン投与なのだけど……時代背景的にペニシリンは開発されてない。
つまり、現時点では治療法がないんだよね。
「この世に悪魔という非科学的な存在はおりませんわ。これは接触による感染症です。残念ですが、梅毒にかかっております」
ライトノベルによく出てくる異世界設定の聖女様でもいない限り、癒しの力なんてないから、事実だけを伝えるより他ない。
とりあえず、梅毒はアルコール消毒が効かないから、周囲の安全の為に、患者が使ったものは全て煮沸消毒させるくらいしか思いつかないな。
消毒には両性界面活性剤が一番なんだけど、これもまだ開発されていないと思う。結核菌にも有効な代物なんだけど、前世でも開発されてからの歴史は浅かった。
とにかく出来る限りの手で消毒する事は必要不可欠。梅毒は性交渉の他、体液から感染するからね。キスだけでも感染するくらいだし。
「何か、特別な魔法で治せませんか?治癒魔法とか、ないんですか?!」
あいにく、古代魔法は万能じゃないんだよね。
「申し訳ないのですが、治癒魔法は私の知る限り存在しません。それより、使用人達に煮沸消毒の準備をさせて下さい。それと、換気も良くしておいて下さいね」
「……そんな……」
令息は気落ちしたのか、がっくりとうなだれてしまった。
きっと、軽い気持ちで遊びに行ってしまったんだろうな。
それで、娼婦と寝なければ婚約者に対する浮気というか不貞にはならないと思って、少し浮かれてしまって……楽しいひと時の代償としては痛いし可哀想にも思うけど……。
本当に可哀想なのは、こんな形で残される事になる人達だから。
「では、私はこれで失礼します」
立ち去ろうとする私に、背後から呪うような低い声が聞こえた。
「茶色の髪に、黒光りする闇色の瞳をした魔の使いめ……この恨みは忘れないからな……!」
どうやら視力に異常をきたしているらしい。それにしても気味が悪くて怖い。怨念がまとわりついてきそうで、私は騎士達に守られながら、足早に屋敷を後にした。
──これは後日知る事になるけれど、令息は病の床で「茶色の髪と黒光りする闇色の瞳を持った悪魔の手先が、俺をどん底に落とした」と繰り返し、うわ言のように訴え続けていたらしい。
これは令息を見舞った婚約者の令嬢も聞く事になり、既に私の名前を忘れていた令息から、その容姿と冷酷さだけを知らされて、密かに憎しみを募らせたとか。
茶色の髪と黒い瞳──それは本来のダフォディルが生まれ持つはずだった色彩よ。令息には私の、その本質みたいなものが見えていたのかな。
でも、実際に生まれ持った色彩は全く異なるから、──これには王都の令嬢達、つまりはお茶会で噂話を交わすのが大好きな雀達も、謎の令嬢の正体は誰だと、まるで犯人探しみたいになったそうなんだよね。
──私は知らなかった。
伯爵家令嬢アウロラとして生まれた人が、その噂に激怒しつつも恐慌状態に陥っていた事を。
彼女は不幸中の幸いか、まだ十歳にもならない子供だから、お茶会にも出る事はない。
つまり姿は当分見せずに済むから、人の噂も七十五日、皆が忘れるまでおとなしく屋敷で過ごしていれば噂の餌食にもならない、はず……。
──という考えは、彼女からすれば激怒の対象になる事だろう。何しろ、令息のうわ言はアウロラとして生きる事さえ危うくなりかねない、爆弾発言となっていたから。
さらに言えば、今はアウロラとして生まれたのに、アウロラの持つべきものを何一つとして得られずにいる事にも苛立っていたし、耐え難かったようで……。
そこで追い打ちをかけるように、極悪人と断罪されるかもしれない伝聞を耳にしてしまっては、「私はヒロインのアウロラなのに!」と憤るのも仕方ない。
彼女は自分の部屋で癇癪を起こして、物に当たり散らした。
「何なのよ!あいつを救えば最悪のシナリオも変わるだろうって、癒しの古代魔法でも使えればと思って本を開いたら、漢字ばっかり並んだ訳分かんない内容だし!古文書は大昔の日本の言葉だし!私古典なんて小難しいもの、真面目に学校の授業受けた事もないのに!」
どうやら、女神様はアウロラとして生まれた人には姿を現さなかったようだ。もっとも、そんなの私の知った事ではない。
女神様は私が好んでプレイしていたゲームの世界を元にして、別次元の世界として私を生まれ変わらせてくれた。
そうなると、ゲームの世界が基盤になっていても、全てがゲームの通りになる事もないはず。実際にゲームとは異なる事が私の周りでも起き続けているし。
でも、それを女神様から教わる事も、認識して理解する事も、出来る人ではなかった。
それは同情するけどね……。でも、この世界では倫理観がしっかりしていないと、どうやら足元を掬われるみたいなんだよね。
あらゆる古代文字の書物や古文書で学べる事も、倫理──どうやって人として善く生きるかが絡んでくるものが多いから。
「私は攻略対象から愛されるべきアウロラ……この世界の主人公なのよ……!誰が私から容姿を奪ったのよ?身分を奪ったのよ?この世界の知識を与えようとしないのよ?何で私はアウロラなのに、この世界は私に甘くないの?」
正体が誰なのかも掴みようがなく分からないままの相手を彼女は憎み、楽しく遊んでいたゲーム世界でも生きてみると厳しい事を恨み──まるで世界を呪わんばかりに陰鬱に呟いては、誤った生き方を選択してしまっていたらしい。
「許さない……アウロラのものを盗んだ奴なんか潰してやる……こんな世界にも従わないわよ、私はアウロラなんだから……私の思い通りにならなきゃ間違いなんだから……そうよ、私こそが愛されるヒロインだって事を認めさせる機会があるに決まってるの……」
──その心こそが世界に生まれた闇の萌芽。イレギュラーな闇の存在を浮き彫りにするもの。
何て事だろう、ヒロインが闇の手に堕ちているだなんて。
だけど、周りから守られて生きていた私は、まだその闇に接する事もなく、女神様がくれたダフォディルとして──明るく朗らかな光の世界で過ごしていた。
「ダフォディル、この哲学書がなかなか頭に入ってこなくて……」
「お兄様、──キケローですね。この方の言い回しは分かりやすく書こうとしているようでも、思考量が多くて難解になりがちですから……私も苦労したんですよ」
「古代文字や古文書以外にも詳しいなんて、ダフォディルは一体どこで、どれだけ学んできているのか分からないよ」
「多分、お母様のお腹の中にいた頃ですわ。キケローといえば、面白いエピソードがあって……暴君に楯突いた正義感の強い男性が、処刑の前に妹の結婚を見届けたいからと繰り広げる古代の伝説に触れていますの」
「あれ?それって物語で広まってないかい?」
「ええ。この伝説を元にして書いた物語がございます」
「何事でも知見を広めれば、背景が見えてくるものだと、ダフォディルから教わってはいたつもりだけど……まだまだ知らない事が多いみたいだ」
「でも、お兄様は鍛錬も頑張っておいででしょう?そこにお勉強も加えて、とても励んでおいでです。すごいと思います」
例えば、昼下がりの屋敷でお兄様と学んで語り合い、私は心から満たされていた。
アウロラになった人の叫びも耳には届かずに。
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