第3話
青空が果てしなく広がる世界で、辺りを見回していると、不意に二人の人が現れた。
「あの時の女神様……!」
一人は転生させてくれた女神様、あと一人は見た事もない荘厳な美しさの人だった。
青年と中年の間だろうか、落ち着いた佇まいには不思議と背筋を正させるものがある。
まるで、この世の全てを知り尽くしたような瞳には長く豊かなまつ毛が影を落とし、身の丈より長い髪は白銀に輝いて、私は思わず見つめてしまった。
「あなた──今はダフォディルね。今の生はどうかしら、幸せに生きている?」
「──あっ、……はい……私にはもったいない程恵まれています」
なぜだか、ここでは子供とか肉体年齢に関係なく話せる。精神世界なのだろうか?
女神様が大輪の白薔薇のような笑顔になった。
「ならば良かった。──こちらにおわすのは私の父であり、創造主。ダフォディルに祝福を授けた万物の神」
「あ、あの、……ありがとうございます……」
私ごときが話しかけていいのか分からない。とても厳かな感じがするし、無表情だし。
「……ダフォディル。女神の願いにより、そなたに祝福を授けたが……それにより、そなたは幸福だけの人生は歩めぬであろう」
緊張しきっていると、創造主がゆっくりと口を開いた。声も落ち着いていて耳に染み入るような響きだ。
「元より人とは、幸福だけの人生は送れぬ生き物。躓く石もあれば、上り下りする坂道もあろう。息をつく木陰に恵まれても、悪天候の中を進まねばならぬ時もあろう」
「……はい……」
「そなたの前世は、そなたに優しいものではなかった。心情に救いがなかった訳ではなかろうが、つかの間の救いでは耐えられぬ生涯ゆえに命を絶ったのであろう」
そう、大好きなフェレットがいた。大好きな本に触れる事が出来て、読めていた。だけど絶望は容赦なかった。
私が黙り込むと、女神様がやおら手を伸ばし私の頭を撫でた。見上げると、慈愛に満ちた眼差しがある。
「あなたの周りの者達はみな、己の人生を生きていた……あなたも、あなたの人生を生きていいのよ。前世のあなたは少しだけ不器用で、己を守りきれなかったけれど……生きとし生けるものみな、自分の生きる道を全うして良いの。生きている心を大切にして良いのよ」
「女神様……私は、新たな人生を自由な心で生きて良いんですか?」
問いかけると、女神様は優しく微笑んだ。
「その為に与えた人生よ。心を活かして生きなさい──存分に。そして今度こそ、懸命に生きて流す涙と汗が、あなたの心の中の幸せの芽を大樹に育て上げる栄養水になるように見守っている」
栄養水──栄養も水も過ぎれば芽を腐らせる。私は、前世で悲しみや苦しみで流すものが多すぎて幸せの芽を腐らせたのかとも思う。あるいは流す事を耐えすぎて芽を枯らしたか。
今生についての疑問は多々ある。
けれど、神様は幸せに生きろと言って私を新たな人生に送り出したのだと、はっきり確信が持てた。
それをどう活かすか、どう生きるか。全ては私次第なんだと思う。
「神様……私が本当に私らしく生きれば、その先に光があると信じます」
「そう……ダフォディル、幸せになりなさい」
「ダフォディル。そなたは輝ける魂をもって新たな人生を始めた。曇れる時は磨き、割れる事なく全うするがいい。──その為に、そなたの知る世界に介入した」
「ノベルゲームの世界ですよね……?」
「既に、そなたが知るばかりの世界ではなくなっているが……ダフォディルとして生き抜けるようにはしたつもりだ」
つまり、攻略とか破滅ルートが変わっているのだろうか。私からして、ダフォディルなのに髪と瞳の色がアウロラのものだし。
「一歩ずつ生きなさい。世界の広さを見て、愛の深さを味わうといい」
「は、はい。今度こそ最後まで頑張って生きてみます」
創造主の言葉に応えると、女神様が代わりに私を抱き包んで下さった。白い衣は柔らかく、百花の香りがする。
「さあ、目覚めなさい──新しい朝へ」
──その一言で、私ははっきりと目覚めた。部屋のベッドに横たわっていた私は、そろそろと身を起こしてみた。
そこには存分に眠れた後のような満足感と体の軽さがある。
「あら、ダフォディルお嬢様、良い夢をご覧になられたようですね。とても明るいお顔をしておりますわ」
「そうかな?すごく、あかるいものをみたの」
前世では、自分の人生を自分の為に生きようとしても、ことごとく潰されてきた。
けれど、今度こそ私は私の人生を生きて私を幸せにしてみせる。叶うなら、それが私を大切に思ってくれている人の幸せにも繋がればいい。
まずは、出来る事から学んでいって、私は両親と兄に褒められ、愛されながら、時にこそばゆい気持ちにもなったけれど──すくすくと成長していった。
そして時は流れ、六歳になり、文字の読み書きを覚えた私は、お兄様に「書庫へ連れて行って欲しいです」と頼んでみた。
「もっとお勉強を頑張ってみたいんです、お兄様」
「いいよ、ダフォディルは偉いね。常に自分から学ぼうとする姿勢で」
お兄様は剣術の鍛錬の合間に、わざわざ連れて行ってくれた。
「わあ……すごく古そうなご本が並んでいます」
「この棚の本は全て古代文字で書かれてるから、ダフォディルには早いね。あっちの棚に子供向けの小説が並んでるから、そこから読んでみたら良いんじゃないかな?」
「古代文字……ちょっとだけ見てみたいです。いいですか?」
「もちろん。興味を持つのは良い事だよ」
お兄様に言われて、私は適当に書物を手に取った。古い紙の匂いがして、表れた文字が懐かしいものである事に衝撃を受ける。
……この古代文字って……日本の漢文そのままだ。私は仕事で漢文と和訳が併記された書籍を、嫌というほど担当してきたから、大抵の漢文は読めるんだよね。
神の教えや魔法書が漢文で記されているとは、あまりにもご都合的な設定だとは思うけど……ゲーム内では古代文字について詳述されていなかったから、そこを利用して女神様が設定をいじって下さったのかな。
どちらにせよ、読めるなら使わない手はないよね。
「ええと、この教えの本の内容は……あっ」
この漢文で書かれた教えは論語そのままだ。これも仕事で担当したから、内容は何となく覚えてる。
「孔子といえば、確か愛弟子が処刑されてしまうんだよね……。愛弟子の遺体は無惨にも塩漬けにされてしまって、それを知った孔子は食卓から塩漬けのものを斥けるようになったと記憶してるけど……」
ぶつぶつ呟いていると、それをお兄様に聞かれてしまっていたらしい。とても驚いた様子で問いかけられた。
「コウシ?ダフォディル……まさか、コウシの教えを読めているのかい?まだ古代文字も教わっていないのに、どこで覚えたの?」
「えっ……あ、その……お兄様、私は何となく頭に入ってくるのです……」
我ながら苦しい言い訳になってしまった。
しかし、屋敷の書庫の書物を手当り次第に開いてみたところ、古文書もまた、日本の古典文学と同じ文字に同じ文法で記されている事を知った。
これは、高校生の時に源氏物語と出会って、バイト代で文庫の原典や現代語訳を少しずつ買い集めて、夢中になって読みふけっていた私にとって、本当に都合良く作られた設定でもあった。
──女神様は私の生涯の全てを把握していた上で、こうした世界に転生させて下さったのかなあ……。無双じゃない、私。
だけど、次々と本を開いては小声で読み上げてみる私を前にして、お兄様は信じられない光景を見てしまったといった面持ちで固まってしまった。
「ダフォディル……まだ六歳だよね?まだ習ってもいない古代文字や古文書を読み上げられるなんて、君は創造主から英智を授かったとしか思えないよ」
これには返答に困った。創造主や女神様から祝福を受けてはいるものの、それを明かす訳にもいかない。
慌てる私をよそに、お兄様は我に返った様子で「父様と母様に言わなきゃ、ダフォディルは素晴らしい才能を持ってるって」と興奮しながら言って、書物を手にして当惑する私を促した。
「ダフォディル、適当な書物を選んで。父様と母様の前で、読んでみて差し上げてくれないかな?二人とも、きっとすごく喜ぶよ」
純粋に喜んでもらえるなら、それは嬉しい事だけど……この世界では、そんな単純に物事が進むのかな。
「え、でも、お兄様……」
「僕でも、まだ古文書さえ読めないんだよ。ダフォディルは偉いよ。大丈夫、読める事はすごい事なんだから」
「お兄様が、そう言って下さるなら……」
結局、私は勧められるままに家族全員の前で、漢文、漢詩、古文を読み上げて、読んだものが何を意味して書かれているかも話した。
完全に記憶頼りなので、部分的にたどたどしくもなったけれど──それは尚さら、私がまだ幼い事を活かした。
私が口を閉じると、一拍の間沈黙があった。お父様もお母様も、私の事実に衝撃を受けているのが分かる。
やっぱり、まずかったんじゃないかな。六歳児が古代文字や古文書を読んで内容を理解出来てるとか、もし悪魔付きの子とでも思われたら、良くても幽閉される事にはなるよね……。
私はびくびくしながら反応を待った。やがて、お父様がお母様と視線を交わして頷き合い、口を開く。
「まさか……単なる夢ではなかったとは……」
「お父様、……夢とは何ですか……?」
何だろう、ただならぬ雰囲気なのは感じるけど……。
「ダフォディル、お前が生まれる三日前の夜に、父様と母様は夢で女神様から言われたんだよ。「これから生まれてくる子は神の祝福を受けた、いわば世界の寵児だと理解なさい」とね」
「そう、そしてダフォディルは、虹色の髪と黄金色の瞳をもって生まれたのよ」
まさか、女神様が根回しして下さっていたなんて。
お母様は、ようやく微笑んで私の髪を撫でてくれた。それは我が子を慈しむ為の手つきで、緊張していた心がやわらいだ。
「ダフォディル……生まれた姿こそ珍しいものだったけれど……あなたは神にまで愛されて……この先は、いつしか世界から必要とされる事になるのね」
「世界、ですか?よく分かりません……」
「安心しなさい、ダフォディル。お前に無理は強いない。誰からも強いさせはしない。お前の事は、この辺境伯家の全員が守ってみせる。ダフォディルはダフォディルとして幸せな生き方を見つければいいんだ」
まるで、私が過去に見た夢で神様達が仰って下さった事の、全てを見ていたかのように言ってくれる。
「私は私として……」
「そうよ、何よりダフォディルの人生は、ダフォディルが自分らしく、幸せに生きられる事が大事なの」
改めて、認められた気がした。自分を大事にしていいと。自分の人生を潰される生き方はしなくていいんだと。
私はゲームの世界観の中に生まれたとしても、それでもゲームのシナリオに呑まれずに生きていいんだ。
「私を当たり前のように愛してくれて、私に様々な喜びを与えてくれて、ありがとうございます。お父様、お母様。お兄様も、私を大切にしてくれて、ありがとうございます。私は幸せです」
私は転生して初めて、心から、一点の曇りもなく笑顔になれた。
家族全員が、眩しそうに私を見ている。瞳に愛情をたたえて。
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