2
柱に取り付けられた駅名が書いてあるはずの白塗りの板には、ただ「途中停車駅」とだけ書かれていた。
「もうちょっとどうにかならなかったのかね?」
僕が言うと、隣で看板を見上げていた日比谷は苦笑いした。種類は色々だが、彼女は今日、笑ってばかりだ。「ほんとだよね。適当過ぎるよね」
「……っていうかここは結局どこなの?」
「どこなんだろうねー。大丈夫、ちゃんと帰れるから」
その返答には揺らがない、確かさのようなものがあった。彼女は今のこの状況について全部わかっているんだなと悟る。それなら僕がなにかを心配する必要はないのかもしれない。きっとどうにでもなるのだろう。
ホームから見た駅舎は小さくて、木造のようだった。もしかしたら無人駅なのかもしれない。初めて見る場所であるには違いないが、古き良きという風な、どことなく懐かしいような感じがした。それを眺めながら、ゆっくりと歩いた。足を踏み出すたび、物が入っている分だけ右ポケットの側が少し重いのを感じた。
やがて僕らは水色のベンチに並んで腰掛けた。焼けるような空気が、トタン屋根の影の下では少しだけ緩やかだった。すぐ横の小さな花壇には、誰が植えたのかはわからないが、ハイビスカスに似た形の薄紫の花が可憐に咲いていた。家の近所でもよく見かけるが、名前は知らない花。
「なんだか変な感じだね」
僕がなにもない空に向かって声に出すと、日比谷は「なにが?」と同じように前を向いたまま問い返してきた。
「こんなところでこんなことをしていると、なんていうかアニメとかドラマみたいだ。ザ・青春、みたいな。僕らっぽくなく」
「1回私たちだって青春したじゃん」
なんの邪気も含んでいなさそうな彼女の切り返しに、僕は内心で苦笑する。「1回だけね?」
そして、あれ?と思った。なにか引っかかった気がした。あれがいつだったのか。最近? それとも遠い昔? わからない、うまく掴めない。……だがそれを考え込む前に日比谷が「そうだね」と話し出して、僕の思考は引っ張られていった。
「1回だけだね。だって部誌作り以外のことをする気ってあんまりないから。部室引きこもりの文芸部に明るさとか清々しさって皆無だもんね」
僕は頷いた。「陰キャとオタクの集まりだって周りからは思われてるよね、多分」
「だろうなあ。でもそれって合ってるような違うような……。いや全体的に合ってるか」
「だね」
グラウンドから聞こえる運動部の声も、音楽室から響いてくる吹奏楽部の練習も、全部全部無視して、僕らはいつも正方形の形をした埃っぽいあの部屋にいる。3人でトランプで遊んだり、塚本と僕が言い合いのような議論のようなものになることもあるが、基本的には執筆作業だ。たまに誰かが──多くの場合は塚本が独り言を呟いて、たまに誰かがそれに反応して、そして沈黙に戻る。
それが僕らの青春なのかもしれないとも、まあ思う。
「来年後輩が入ってこなかったら、また文芸部にカッコがついちゃうね」
日比谷がからからと笑った。
うちの高校では、入部できる部活動はあらかじめ種類が決められている。所属している生徒がいなくなったとしても廃部になることは特にないが、ただし部活動一覧にはカッコ付きで書かれる。僕たちが入ったのは「(文芸部)」だった。そして今年度、ろくに勧誘活動をしなかったこともあり、後輩が入ってくることはなかった。
「別にいいよ」
と、僕は言った。
「僕らと共に始まって、また終わっていくっていうのもありだよ。変にじたばた足掻くのって、僕らっぽくないし。繋げていく意味もまあ、特にないのかなって」
「君がそう思ってるのはわかったけど、ちゃんと塚本とも話し合ってね?」
「話し合おうね、じゃないの? 部長もでしょ」
「言葉の綾っていうやつだよ。あ、そういえば」
日比谷は少し呆れたような顔になった。なんかやらかしたっけ?と僕は思った。
「なに」
「年賀状、返事っていうか、送ってくれたでしょ?」
「急だな。送ったけど。……あっ」
思い出すことがあった。「謹賀新年の話だ」
日比谷はビンゴ、と言って僕を指差した。
「そうそう、謹賀新年って言葉と明けましておめでとうございますは同じ意味だから、一緒に書くのはダメなの。気づいてたんだ?」
「うん。送ってから、あって気づいてショックだった。屈辱」
「6回見直さなかったんだね」
「見直しても、その時は気づかなかったよ。謹賀新年の意味知らなかったんだから」
「知らない言葉使うなよ」
そんなやり取りをしながら、僕は少し驚いていた。ついさっき僕は年賀状について思い出したばかりのように思う。彼女も同じようなタイミングで思い出すとは、偶然の一致もあるものだ。
✵
「ねえ、住所教えてよ」
部室のドアを開けると、中にいた日比谷はぱっとこちらを向いてそう言った。その突然さに、僕がなんで?と首を傾げると、彼女は目を細めた。
「年賀状出したいから。あ、喪中とかじゃなければだけど。塚本にも訊いたよ」
塚本が「訊かれた訊かれた」と言う。鉛筆でノートになにやら言葉を書きながらだ。シャープペンじゃなくて鉛筆とはまた古風だなと思ってみていると、彼はガシガシと文字を消しゴムで消した。推敲中なのかもしれない。
「ふうん」僕は日比谷に向き直った。「別に喪中じゃないよ」
「ほんと? 良かった」
僕がつらつらと自宅の住所を暗唱するのを、日比谷は復唱しながらスマホのメモに書き留めたようだった。オッケーありがと、と親指を立てて、僕と塚本を見る。「別にお返しは求めてないからね」
「んー、でも多分僕も送るよ」
「ほんと? じゃあ待ってる」
「俺はその時のフィーリング次第!」空気の読めない塚本はそう言って、1人でケタケタと笑った。
「これ、お前宛て」
兄にハガキを渡されたのは、元日の朝、リビングのソファーに座って小説を書いていたときだった。兄は笹野家に届いた年賀状の束を宛名別で仕分けつつ、ニヤニヤしていた。「ヒビヤユウカって、彼女?」
「違うよ、文芸部の部長だよ」
僕はくるりと裏返した。そして、わっと軽くのけぞった。文面、というほどのものでもない。「明けましておめでとう」も「今年もよろしく」もなしに、白い紙に黒で書いてあったのはたったの1文だ。
──きみは、観想する人。
たったそれだけが、まるで1枚の絵のように、凝った字体で描かれていた。
兄は意味がわからないのか、一瞬つまらなそうな顔をしてから、少し馬鹿にするような目で年賀状を見下ろした。
「宛先書いてる文字、結構ひどいよな。ミミズがのたくったみたいな」
「うん」僕は表側の面を見返すこともなく頷く。「日比谷は、字が下手なんだ」
おそらく気にしているから、彼女はあまり人前で文字を書こうとしない。小説は手書きではなくスマホだし、部室のホワイトボードも、部誌発行後の反省会ですら使われることなくただ立っている。
それでも、日比谷はセンスがいい。
緩やかに踊るように揺れていながら、黒々としてしっかりと地に足をついたようなデザインの文字たちを見つめて、僕は頷いた。いつかに塚本に「文芸部部長のくせに字が汚い」とからかわれて、「その分わたしはレタリングを覚えたよ」と話していた声が頭の中によみがえった。
それが彼女の愛する言葉のうちの1つであることを、僕は哲学にはちっとも詳しくないけれど、交わしてきた会話から知っている。観想、テオーリア。偏った主観や取り繕われた体裁の裏にある「普遍的で正しいなにか」を、曇りない
……部長、あなたはどうしてこの言葉を僕にくれたんだろう。わからないけれど、僕にはその意図を見通し切れないけれど、あなたは本当にセンスがいい。僕は感嘆して、あなたを目指そうと志すことしかできない。
その日のうちに、僕は彼女宛てに年賀状を書いた。家が近いのを知ったのは、住所を書き写しているときだ。駅を挟んで反対側であるとはいえ結構近い。全然知らなかった。日比谷は気づいただろうか。
塚本からはメールが来た。
[あけおめことよろ!!! ところで部長の年賀状すごくね??]
ご丁寧に送られてきた写真を見れば、僕のとはがらりと違う雰囲気で、カラフルにペンで飾られた字が紙面に散っていた。言葉は、「idea」。
[すごいね、でもなんでアイデアなんだろ]
[知らね。俺の日頃のアイデアってか発想力がすばらしいって言ってくれてんだろ。照哉だけに照れるや、なんて]
僕はスマホを机に伏せて置いた。メールでこんなにくだらないことを送って来るとは、やはり塚本は古風だ。
✵
去年の冬のことだというのに、それらが遠い昔のように感じられた。
再び電車に乗り込んだ僕らは、今度は座席に着くことなく扉の前に並んで立って、なにかを話すでもなくただ沈黙を共有していた。ガラス窓の向こうには、海と空の純粋な青が広がっている。どうしてかノスタルジックな気分になって瞬きをした。
カタンカタン……。
カタンカタン……。
全部あっという間だ。まるで昨日のことのように全て鮮明に覚えているのに──それでもなぜだか遠い。ほんの一瞬目を閉じただけなのに、いつの間にか僕らは高校2年の夏を前にしている。そんな不思議な感覚。
その時、ふわっと風が吹いた。
意外なほどに涼しく冴えていて、髪を柔らかく持ち上げるように揺らす。
電車の中なのに風なんて吹くわけない。気のせいだ。僕があの日の記憶を、ただなんとなく心に思い浮かべただけなのだ。海に船を浮かべるように──いや、もっと優しく、コップの水面に花びらを浮かべるように。
あれは、ある初夏の日だ。でも今だって初夏じゃないか? ……そうだ。僕は思わず無意識に隣の日比谷の横顔を見つめた。そうしてから、いけないと思って気づかれまいとすぐに視線を逸らす。もっとも、反応を示さなかっただけで、彼女は僕が見やったことに気づいたかもしれないけれど。
ああ、どうしてさっきはこんなことすら忘れていたんだろう。あれは、僕ら文芸部がただ1度はっきりと「青春した」のは、つい昨日のことじゃないか。
✵
帰りの会の後、いつものように僕は部室に行った。日比谷はやはり既にそこでスマホを操作していて、しばらくしたら塚本も「よーっす」と入ってきた。部室に3人が揃い、だからと言ってどうするということもなく、それぞれがそれぞれの作業に入るのだと思ったとき。
「海に行こう」
唐突ににこっと笑って日比谷が言った。
「急に?」「マジ?」
高い窓の外には、空しか見えない。上に向かってぽっかりと空いた穴のような、深い深い空だ。
あまりの脈絡のなさに僕と塚本がそれ以上の声を上げられずにいると、「なにその反応」と彼女は大げさに肩をすくめて見せた。
「ずっと部室に籠もってても、独りよがりな文章しか書けません。晴れてるしちょうどいいよ。後日海を題材に詩か短編書かせるから、そのつもりでいてね」
電車に乗って2駅。そこからさくさくと歩いて5分。
空とは確かに違う、海の色が見えたときには、さすがに胸が高ぶった。僕の心の半分の、まだ子供である部分がはしゃいで震えている。柄にもなくそんな詩的なことを考えた。
「着いたね!」
砂浜に1歩足を踏み入れて、日比谷が嬉しそうに声を上げた。
「ファンタジーッッ!!」塚本がいきなりまっすぐに駆け出して、あっという間に点のように小さくなったかと思うと、どうやらザブザブとスニーカーのまま海に入っていったようだった。
「あいつ、やば」
僕が呆れて呟くと、日比谷は「楽しそうでいいじゃん」と微笑んだ。
「笹野は入んないの?」
「僕は見るので十分。部長は行くつもり?」
「んー、わたしもいいかな」
日比谷は自分の足元を見下ろした。「ローファーで来ちゃったし。裸足になっても後で拭くハンカチもなにも持ってないや。わたしは女子力がないのです」
「知ってます、部長」
「うるさいうるさい。っていうか意外と風って冷たいもんだねえ」
髪が、白い長袖ブラウスの余分な布がひらひらと動いていた。スカートに至っては、はためいているという表現のほうが正しいぐらいだ。あおられて浮き上がるように裾が持ち上がるのを、彼女は少し笑って手で押さえつけた。
僕は頷いた。「海風だね。陸側のほうがあったかいから、海から風が吹く。……海をテーマに小説って、どんなの書こうかな」
海は力強い日の光に照らされて、輝いていた。乱反射する青の色は1種類ではない。色なんて細かく分けたなら無限にある。海面は平らではないからだろう。小さい頃、折り紙セットに入っていた金色の紙をぐしゃぐしゃにして広げたことがある。なんとなくそれを連想した。
小説、か。
青さだとか、風の強さだとかをただ描写しても、なんだかありきたりなものになってしまう気がした。それが駄目というわけではないが、誰でも書ける文章を書くのは容易い。それでは僕が書くということの意味がない。でも、あまりに独特でも良くない。誰にでも想像して、文章から感じてもらえるような感覚が書きたい。小説を書くのって、実はすごく難しい。
考えこもうとしたら、日比谷は屈託もなく「あ、嘘だよ」と言った。
「あ、嘘なの?」思わずオウム返しに聞き返す。「なにが?」
「短編とか書いてもらうって言ったの」
「ええっ? じゃあなんで今日はこんなところに……」
日比谷は手を後ろで組んで、俯いてでこぼこした砂浜を1歩ずつゆっくりと歩いていたが、不意にしゃがみ込んだ。指先でなにかを拾い上げたと思ったら、それは真っ白な貝殻のようだった。日比谷は背中を伸ばして立ち上がり、僕に向かってにやっと口の端を上げた。
「青春の
「青春」
「うん。……なーんて」彼女は猫のようにぐーんと伸びをした。「格好つけてもしょうがないね。わたしが3人でこうやって海に来たかっただけだよ。それ以上の理由は特にないや。あとで塚本にも謝っとかなきゃね」
それならそうとはじめから言ってくれればよかったのに、と言おうとして、やめた。僕は口を閉ざして立ち止まった。日比谷は止まらずに、輝ききらめく海に向かって歩いていく。
1歩ずつ、1歩ずつ。
向こう側の明るさと対象的に影のように見える背中は、これまで意識したことがなかったが、意外なほどに細くて華奢だった。1歩ずつ、1歩ずつ遠ざかって、1歩ずつ、1歩ずつ小さくなっていく。
日比谷、と呟くように僕は呼んだ。不思議と、自然に声は出た。
あのさ。
「好きだよ」
風が、強く吹いた。耳元でボオオオと唸るように鳴る。細かい砂が舞い上がる。僕はぎゅっと目を細めた。波が寄せて、返した。
再びすっと体勢を戻すのと、日比谷がくるりと体ごとこちらを向くのが同時だった。逆光でも、彼女が少し驚いたように目を見開いているのがわかった。光と影。理想と現実。過去と今、今と未来。
綺麗で切なくて青い、数秒の果てに。
「今、なんか言った?」
そう、日比谷は言った。
✵
昨日のことだ。そうだ、昨日のことじゃないか。あれから僕らは何事もなかったように適当な会話をした。日比谷は僕の言ったことが聞こえなかったに違いないし、僕もまたなにも言わなかったふりをした。
海から帰って、僕らは別れて、1日が終わり、週末がやってきた。そして。
僕はなにをしていた? 彼女はなにをした?
はっと閃くものがあった。ぼやけたイメージ。予感のような、胸のざわめきのような、そんな振動を伴った閃きだった。
手ぶらだなんて思っていたが、違う。さっき歩いたときに右ポケットに物が入っているのを感じた。スマホだ。他の荷物はなにも、財布すら持っていないのに、僕はスマホをポケットに入れている。
僕が急かされるようにスマホを取り出してメール画面を開くのを、日比谷は黙って見つめていた。僕を眺めながら、しかし遠くを見ているような。彼女はまたよくわからない不思議な表情をしていた。
カタンカタン、カタンカタン。
[まもなく、終着駅、終着駅]
カタンカタン、カタンコトン……。
きっと夕方だった。確実だ。兄はまだ大学から帰ってきていなくて、母は台所で夕飯を作っていた。僕がやることもなくリビングのソファーに座っていたとき、横に置いていたスマホがバイブした。メールが来たのだ。彼女からの。
[駅に来て]。
確かに見たはずのその文字を今再び確認して、僕は息を吸い込んだ。ああ、全部思い出した、と思う。それならまさか。つまり、そういうことなのか。あり得ない、あり得ないとそう思うのに。思いたいのに。だが……。
──知りきれないことも伝えきれないことも一杯あるだろうな。誰かのとこに化けて出ようかなあ。
──わたしは世界を作っているんだよ。
カタン、コトン。カタン、コトン……。
電車が停まる。まるで孤島のように海にぽつりと浮かんだ駅舎。真っ白な看板の上の文字は、「終着駅」。
扉が開くのと同時に、日比谷はなにも言わずにすっと体を逸らしてホームに降りる。僕はそれを追って、彼女の背中に向かって問いかける。あなたは。
「いつ、死んでしまったの?」
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