第4話 「神」とは

 数多(あまた)ある大学日本拳法の試合(映像)のなかで、一体、なにゆえに彼女たちなのか。 もちろん、たまたま目にとまったというだけのことですが、そこになにを見たか、といえば「絶対を追求する強い心によって形成された、しっかりとした自我(コギト・エルゴ・スム)であり、それこそが「神」である(と思います)。 教会で賛美歌を歌うのも、メッカへ向かって五体投地をするのも、行き着くところの目的は、自分という神と一体化することなのですから。

 ほか(の選手)と比較して技術や試合の仕方がどうこう、という話ではないのです。

 「道を求めて止まざるは水なり」と、「絶対」に向かって永遠に流れ続ける水のようなスピリット(魂)を、私は彼女たちに感じたのです。

 もちろん、絶対に勝つという意気込みで試合に臨まれているのでしょう、そういうファイティング・スピリットが溢れています。 しかし、私が彼女たちに見せてもらえたものとは、それプラス、もっと大きくて重いもの。 それは、「自分という真の存在(神)へ向かって永遠に戦う道で、戦う姿」。

 (彼女たちにとって)それぞれの試合とは、ひたすら、蹴って・殴って・投げて・声を出すことによって、自分という神に行き着こうとしているかのようだ。

 イエス・キリストやアラーの神ではなく、自分のなかにある自我という神を信仰する、のでもない。自分が自分になり切るために(自分と)戦う。彼女たちの姿形・音聲(おんじょう)から、私はそんな(形而上の)姿を見て・感じることができたのです。

 もちろん、大学生になってから日本拳法を始めて2年目の人と、物心ついた頃からやられている人とでは、その姿形に「年季の違い」が現われるのは当然ですが、精神は同じです。

 たとえば、②(この試合当時)2年生の永岡さんの後拳は、①のお二人に比べれば「まだまだ」かもしれません。しかし、この女性は初めのうちは様子見でほとんどパンチを打ちませんが、一旦、勝機となると、執拗に7本も連続して(攻撃の位置を変えながら)後拳を打ち続けます。 私も、1年生で初めて(部員が少なかったので)大会に出場した時、技術も筋力も無い私は、ただただ、直面突きを連発していました。互いに打ち合う相打ちの連続でしたが、たまたまその内のひとつが当たって一本となったのですが、その瞬間、一本取れたとか試合に勝ったではなく、何か吹っ切れたような爽快感があったのを、40年経った今でもはっきりと覚えています。

 5年間の大学日本拳法時代、やることなすことすべてバカでしたが、あの一瞬だけは「神になれた」という気がするのです。 また、4年生(ダブったので3年生)の決勝戦、先鋒で出場した私は、やはり相打ちの打ち合いで7本一方的に取られ「圧倒負け」といういわばコールドゲームで負けました。 しかし、恥ずかしいとか悔しいという気持ちよりも、むしろ爽快感があったのを記憶しています(こんなことを言っては当時の仲間たちに申し訳ないのですが)。


 結果がついてこなくても、死に物狂いで一生懸命ぶん殴り合いをすることで、本当に「自分が自分になれた=神になれた」瞬間、それを5年間で2回しかではなく、2回も経験できたと考えれば、私は果報者であったと思うのです。


 その意味では、彼女たちのように、毎試合「真剣勝負の心に徹することで、自分になり切れる=神を見ることのできる」人というのは、ひとり彼女たちが幸せというだけでなく、(ネオンサインの神ではなく)「本当の神」と呼べるだけの存在感を実感できた私たち観客にとっても福音・御利益がある、といえるのではないでしょうか。


  ①の女性たちは、もの凄いファイトの塊、火の玉のぶつかり合いなのですが、そこには澄んだ水のような透徹感がある。

互いに相手と戦うという彼女たちの姿形を見ながら、同時に、私たち観客はそこに彼女たちが自分自身を徹底的に追求している(内面的・形而上的な)戦いの姿をも見ることができる。

「自分と戦う」という日本武道の精神が、まさにここにあるのです。


2024年3月15日

V.1.1

2024年3月19日

V.2.1

2024年3月21日

V.3.1

平栗雅人

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大学日本拳法の神髄 V.3.1 @MasatoHiraguri

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