第2話 自我の覚醒と、それを邪魔するものたち

日本が開国したことで、唯一よかったこととは、ロシアを初めとする多くの欧米文学に触れることができるようになったこと。

  そして、それらをいち早く読むことができた一部の先進者たち(文筆家たち)は、神を意識することによって「コギト・エルゴ・スム 自我の覚醒を得る」という、西洋人の特性に気がついた。桁違いに大きな神を意識するからこそ、小さな自分の存在を明確にできるのだ、と。

  更には、多くの人種・民族がごちゃ混ぜになって動いている欧米社会では、明確な自我が無ければ生きていけないということを理解し、さまざまな文芸作品によって日本人を啓蒙したのです。

日本人は何十万年もの単一民族だけの安穏とした生活に慣れきり、特に、戦国時代から江戸期にかけての数百年間は、「天皇」というものを全く意識することなく、日本人(縄文人)だけの歴史で生きてきたので、「神を意識する必要」がなかった。

朝鮮半島由来の天皇とその取り巻き(貴族)という、全日本人の1%程度の外来種を除けば、在来種純粋日本人全員がひとつの家族みたいなものなのですから、取り立てて「自我 コギト・エルゴ・スム」など意識することなどなかったのです。


武士は殿様を現人神と崇め、百姓町人もまた自然信仰をベースにしながら、やはり、地元の殿様(将軍)を一番偉い人」と崇める(恐れる)。

全日本国民の神ではなく、各地の大名がそれぞれの領民たちの神的な存在でしたので、大した神にならないですんだ。

  江戸時代、毎年どこかで一件は百姓一揆があったというくらい、人間の神(領主)は絶対的な存在ではなかった。へたに逆らうと斬られるから、とりあえず頭を下げておこう、という程度だったのです。

ところが、明治維新によって、京都に封印されていた天皇という悪魔が復活した。そして、日本国民全員がこの「生きた神・ネオンサインの神」にひれ伏すことになってしまい、祖国防衛戦争という名の侵略戦争を行い、数百万人もの優秀で健康な若者を自らの手で殺してしまった(戦死の6割が餓死)。

日本の指導者たちが明治維新の時、キリスト教でもイスラム教にでも改宗していれば、少なくとも現在のような、何でもかんでもいい加減に作っては壊しという社会にはなっていなかったでしょう。

たとえば、ドイツのニュールンベルグという町は、第2次世界大戦中、アメリカの空爆によって町の80%を焼失しながら、戦後30年間かけて元通りに復旧しました。これが「絶対という神」を、真に信仰する人間の生き方(社会)なのだ、と無神論者であった私は40年前にこの地を訪れた時に思いました。


自分たちが絶対に正しいと信じて作った家並みや街並みは、火事や地震、或いは戦争によって破壊されたくらいで、そう簡単に「はい、それまでよ」と、捨て去るわけにはいかない。そういうドイツ人(ユダヤ人ではなくゲルマン民族)の魂を見た思いでした。

今でも私はイエス・キリストやムハンマドが神とは思っていません。イエスやムハンマドは、徹底的に神を信じ切ることができたという意味では、確かに常人離れした偉大な人間だとは思いますが。

神とは、あくまで人それぞれの心(自然)のなかにあるものであり、私の場合、教会やモスクで、ではなく「殴り合い」という真剣勝負の中で励起される「無意識の存在」なのです。

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