死熊の夢
鬱蒼と葉が生い茂る暗い森の中。
日光も月光も全てが青々とした緑に容易く遮られてしまい、まるで地上にいながら地下さながらの風景が広がっている。
今は夜だ。
当然、上を見上げても月なんてものは見当たらない。もはや草葉の天井が夜空で、その隙間から僅かに覗く空が星々に見えるくらい、星空そのものさえも見えなかった。
周囲に人気は全くない。
それどころか、動物の声、果てには虫の声さえも聞こえない。全くの静寂。自身の鼓動の音まで聞こえてくるほどに、この森は異様な静けさに包まれていた。
地面はぬかるんでいる。
足を踏み入れ、そして抜き取るその時に、ぐちゃっ、と嫌な感触と音がした。手に持つ懐中電灯のおかげで、地面が赤茶色をしており、先にはどんな凹凸が待っているのかを見ることはできる。
人一人分の
「……チッ」
舌打ちが一つ。足音は四つ。
先頭に立つバンダナを付けた赤髪の男。
その斜め後ろを歩く獣耳の生えた茶髪の男。
隊の中央を静かに歩く金髪の女。
殿を務めるのは軽装ながらも大楯を構えた紺髪の女。
皆真剣な顔をして、口数少なく、黙々と足を運ぶのみ。それ故に空気は重く沈んでばかりで、とてもご機嫌ようとは声をかけられないような雰囲気だった。
「……兄上の、匂いがする」
茶髪の獣耳男が口を開く。
どうやら彼は鼻が利くようだ。人影の見当たらないこの森の中で、その視線は地面の凹凸ではなく、どこか遠い一点を見つめていた。しかしその顔は、明るい表情でも、暗い表情でもない、複雑な感情に歪んでいる。
彼の兄はきっと生きているのだろう。だがその生き様は、彼が望むようなものではないはずだ。
兄が生きていることへの喜びと、その生き様への悲しみと、怒りと、疑問が、その声に表れる。
「……兄上」
もう一度呟いた。
まるで恋焦がれるように。
別れた人を惜しむように。
同胞の仇を恨むように。
しばらく歩く。
先ほどと変わらず足元はぬかるんでおり、静寂が支配する空気はずんと重たい。
少し変わったことといえば、地面に転がる人型の
どうやら、この方向で間違いないらしい。
彼の兄は、同胞は、きっとこの先にいる。
ぐっちゃ、ぐっちゃ。歩く。
彼の兄は大層腕の立つ剣士だったらしい。
仲間をすべからく守り、正しき道へと導く指導者だったそうだ。性格は温厚で正義感があり、皆を引っ張っていくリーダーというよりは、皆を後ろから支え応援してくれるような人だったという。
そんな兄を誇りに思い、慕い、憧れた弟は、彼の背中をずっと、ずっと追いかけて来た。
彼が突然行方不明になり、そして、
弟は、あの優しかった兄を、ずっと追いかけている。
故郷は焼け落ち、同胞は散り散りになった。
残った仲間は僅かな食料を奪い合い、殺し合った。
最後に残ったのは、この屍の道のみ。
「……兄上……」
彼の兄は、同胞を斬ったとき、何を思ったのだろうか。
またしばらく歩いた。
相変わらず周囲に生き物の気配はなく、人影も見当たらない。
いや。人の面影がある
「……っ」
金髪の少女が、その手に持つ錫杖をグッと握りしめた。吐き気を堪えるような、難しいことを考えるような、そんな表情を浮かべて。
「シャル? どうかしたの?」
一番後ろにいた紺髪の女が、少女へ心配するように声をかける。
「なんかあったか」
先頭にいる赤髪の男も、その会話を聞いて立ち止まった。
「……?」
獣耳の男は無言で少女の方を向く。
少女は、小さく口を開いた。
「……囲まれています」
「!」
その瞬間、周囲にあった人型の凹凸が起き上がった。
ズボボボボ……ベチャッ、グチャッ……
それは泥と腐った血肉に塗れた死体。
顔の皮膚は剥がれ落ち、斬られた胴からドロドロの内臓がこぼれ落ち、筋肉すら腐って骨しか残っていないのに、それは起き上がった。
赤髪の男は背負っていた長棒をすぐさま構えた。獣耳男も鉤爪を、紺髪の女も大楯を構える。
「気を付けて、全方位にアンデッドがいるわ!」
「チッ、誘い込まれてやがったか……!」
「いいえ」
金髪の少女が上を見上げて告げた。
「ここが
「───正解〜☆」
真上から二つの人影が降りてきた。
「いやぁ〜、よくここまで来てくれたねっ! お久しぶりでございます、皆様……アエテトッテモウレシイヨー!!」
一人は、黒いキャスケットを深く被った少年。
元気な子供の声、儚くか細い上品な声、ギャグ調の甲高い声が、彼の口から順に響く。
「………………」
一人は、茶髪で、腰に刀を携えた、袴姿の獣耳男。
「───っ!!?」
彼と似た顔をした茶髪の獣耳男が、声にならない悲鳴をあげて固まった。
「ぁ……あに……う、え……?」
それは恐怖に満ちていた。
それは猜疑に満ちていた。
それは悲哀に満ちていた。
それは歓喜に満ちていた。
「あっ……兄上っ……! 兄上……っ」
それは慈愛に満ちていた。
それは憎悪に満ちていた。
それは怨念に満ちていた。
それは信念に満ちていた。
「む? もしや、知り合いじゃったかのう?」
「それはそれは、なんとめでたきことよ!」
「貴殿らの再会を祝さねばならぬでござるな!」
「ねえ? 兄上?」
「───……あぁ、そうだね」
兄の口から、聞き覚えのある優しい声が発せられる。
しかしそれは、
「……あ、にうえ……?」
その柔らかい微笑みは、己に向けるべきものではないのか。
その低く優しい声は、己に向けるべきものではないのか。
その強く大きい掌は、己に向けるべきものではないのか。
「挨拶をしてくるよ。だから、少しだけ待っていてくれ、
その呼び名は、己に向けるべきものではないのか。
「……まさか」
赤髪の男が呟く。
その声に反応して、少年はにこりと微笑んだ。
「うん! 分かったよ、
その目は赤く光っていた。
───ズダンッ!!
ドゴォォォォォォォンッ!!
何かが、
人影だ。
赤い髪の、長棒を突き出した男。
それが、
「───ヴァルクッ!!!」
叫んで、振り返った。
「やめろぉぉぉぉぉっ!!!」
ヒュッ───
ガガガガガッ、ガキンッ!!
「チッ、くそっ!」
敵は退いた。だが、
「───ぁに、うえ……っ」
木の幹に叩きつけられ、血溜まりに沈んでいた。
「ヴァルク!! ヴァルク、しっかりしろ、ヴァルク……!」
自分は一体、何を見せられているのだろう。
「あにぅ、え……っ」
自分は一体、何をしているのだろう。
「あぁ……あぁ……ヴァルク、ヴァルク……!」
「どうして……一体どうして……!」
「……兄上……?」
目の前の光景が、理解できない。
その顔は、酷く苦痛に苛まれているように歪んでいた。
「ヴァルク、いま、治してやるから、だから……!」
「……ぁに、う、え……」
「……なに、してるんだよ……兄上……」
今にも泣きそうな顔で譫言のように呟く。
「俺は……ヴァルクは、ここに……ずっと、ここにいるじゃないか……」
なあ、どうして、ここにいるのに。
「……ぁにうえ……はや、く……にげて……」
「ヴァルク……!」
「ぼくの、ことは……ぃい、から……はやく……」
「そんな……そんなこと、出来るわけないだろう……!」
ぽろぽろと涙を流しながら、
「頼む……頼むから……この兄を、置いていかないでくれ……っ」
「は、は……なかないでよ……にぃさん……」
「……ごめ、んね……にぃさん……」
その口を、三日月のように歪めながら。
「───っ!!?」
その顔を見てゾッとした。
見覚えがあったからだ。
そう。
あの日、多くの仲間を殺した、あの仇。
あいつも同じ顔で、笑っていたんだ。
「俺の兄上に……お前えぇっ!!!」
もう正気が保てそうになかった。
唯一生き延びてくれた、同胞にして肉親。
それを、それを。
こいつは、それさえも踏み躙ろうというのだから。
「ああああああああぁぁぁぁぁあああぁぁ!!!」
ヒュッ───
音が聞こえなくなった。
「もーーーちょっと頑張ってよ弟くーん!」
少年は不満げにこう言った。
「この時のために君を残し!! このオニーサンを【
赤髪の男は、静かに叫ぶ。
「テメエ……どこまで性根が腐ってやがる……!」
「うむ? どこまで……ですか。うーん」
少年は笑った。
「それは……ヒーロー、君が決めてくれる?」
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