肆の弐 花渡神社

 この辺りも久しぶりだな。


 花渡はゆっくりと歩を進めた。


 繁華な寛永寺の門前町を離れてしばらく歩き、辿り着いたのは、人家が途切れ、雑木林と野原と畑、時折百姓が使う小屋がぽつぽつ建っているような、寂しげな一角だった。


 記憶にあるよりも開けた場所が多くはなっているが、目的地に近付くにつれ、記憶に違わない緑に覆われた人気のない、武蔵野そのままの雰囲気が濃厚になる。

 それでも昔に比べて緑の威圧感が足りないように感じられるのは、やはり花渡自身の体が大きくなったからだろうか?


 長身の頭すれすれ、場合によっては屈まなければならないくらいの高さに木々の枝が張り出し、袴に繁茂し始めの夏草が絡み付く。

 その神社は、一際深い緑に囲まれて、ぽっかりと島のように浮かび上がっていた。

 雄大豪壮な寛永寺の境内を見た後では、ひどくささやかに感じられるが、それでもその神社は寂しい場所にあるにしては、かなりしっかりした敷地を持っていた。

 本来なら禰宜宮司が常駐し、沢山の神人を抱えてそれなりの社務をこなしているのが相応しい構えだ。

 しかし、そこはしんと静まり返っていた。荒れ果てているのが、離れた場所からも窺える。


「母上……」


 呟いた花渡の胸を、痛みが走った。

 ここを離れてもう十年。

 母がこの世からいなくなって、もう十年なのだ。


 思い出す。

 咲き乱れる花の中で倒れ伏す母。

 周囲の花びらがその人の流した血で染まっている。

 苦痛に満ちた死であったろうに、死に顔は綺麗で物静かだった。


 母が育て、そしてその死の床になった花々の中で母の遺骸にすがって泣いている幼い花渡を見付けた赤星が、花渡を引き取った。

 母を、百合乃を不意討ちで殺した刺客は既に逃げ去って見付からなかった。


 結局あの日を最後に、花渡は二度とこの神社には戻らなかった。

 色々気になることはあったのに、何故だったのだろう。


 花渡は大きな石の鳥居を見上げた。

 傍らに建てられた石柱に目を走らせる。


花渡はなわたり神社」と、薄れかけた文字が見えた。

 忘れるはずがない。花渡の名前に、それは刻まれているのだから。


 雑草の生えた石段を、数段花渡は登った。

 境内は一面に雑草が繁茂し、かつての面影はなかった。


 母はいつもこの境内を手入れし、花でいっぱいにしていた。

 季節折々の花が必ずどこかに咲いていて、どんな季節でも何がしかの花を見ることができたものだ。

 花が完全になくなるのなど、真冬のほんの僅かな期間でしかなかった。


「母上……」


 ほんの一瞬、かつての鮮やかな境内が甦り、花渡はくらりとした。


 雑草に埋もれた参道の石畳、かつての花に寿がれた境内の名残を残すのは、どうにか生き残った僅かな花木が見せる花の彩り。


 と、瞬時にそこは溢れ返る色彩に包まれた花園と化した。


 奥に在りし日の母親が見える。

 後ろから駆けてくるのは、幼い日の自分だ。

 娘が側で何事か囁くと、母親は微笑んで言葉を返し、花渡の髪に摘んだ花を差してくれるのだ。


『こちらの神様はね、お花がお好きなの』


 母がそっと花渡に教えてくれる。


『神様は、こちらの神社で江戸の鬼門を守って下さっているの。だから、神様を喜ばせるためにも、江戸の町のためにも、ここから花を絶やしてはならないのよ』


 幼かった花渡には、「鬼門」の意味はよく分からなかった。

 だが、神様がいらっしゃること、そしてその神様が自分や母と同じように、花が好きだという事実が、たまらなく嬉しかった。


 ずっとずっとここで母上とお花を育てていこう。

 それはとても良いことなのだ。

 自分たちばかりでなく、この「えど」の町の人々にも。


 幻を破ったのは、ふと鼻についた異臭だった。

 ある意味、花渡にとっては慣れ親しんだ匂い。


「誰かいるのか!?」


 花渡は抜き身の神刀を手にしたまま、周囲を見回した。

 ふと、繁茂し放題の雑草の中に、明らかに踏み折られた跡が見えた。


 最近のものだ。

 結構幅が広い、ということは、一人や二人でない人数が、ここに出入りしたということ。


 花渡はその跡を辿った。

 雑草を踏み分けた跡は、拝殿をぐるりと廻り、その背後に向かっていた。

 心臓が早鐘を打った。


 この拝殿の背後にあるものの記憶が明滅する。

 子供の頃、母には滅多に近付いてはならないと言われていた……


 鬱蒼とした鎮守の森の手前に、それはあった。


 常に黒々とした木陰に覆われて、所々苔むしたそれは、白っぽい灰色に青い筋が、立ち昇る天の川のように入った大きな岩だった。

 ちょっとした小屋くらいありそうなそれは、元からそこにあったのか、それとも遠い時代に誰かが運んで来たのか判然としないまま、そこに鎮座していた。


 この花渡神社の、ご神体の磐座だ。


 花渡の記憶では注連縄が巡らされていたはずだが、十年の間に朽ちてしまったらしく、見当たらない。

 しかし、その代わりに。


「何だこれは……?」


 思わず声が出た。

 ご神体の磐座の周囲に、何か紐のようなものが巡らされている。

 所々札のようなものが貼り付けられたそれは、花渡の記憶に全くないものだ。

 しかも、真新しい。


 もっと近くで確かめようと踏み出した花渡の足が、何か嫌な柔らかさのものを踏みつけた。


 ぎくりとして足をどかす。


 足下を見下ろした花渡の目に入ったものは……下生えに埋もれた、何か肌色のもの。


 曲がった指の生えた、それは、紛れもなく人の手首から先だった。


 花渡の背筋に戦慄が走った。

 いい加減に作り出すのにも慣れた死骸への嫌悪などではない。

 ここに、この神域に、人の死骸が転がっている、その意味は。


 花渡は神刀で下生えを掻き分け、周囲を確かめた。

 伸び放題に伸びた草のせいでぱっと見にはわからなかったが、そこら中が死骸だらけだった。


 一揃いの体が揃っているものはない。


 あそこには草履を履いたままの足首、そこには恐らく肋骨の一部、向こうには毛が生えた頭皮の切れ端。

 無茶苦茶な力で破壊され、そして付いている歯形らしいものから推測するに、何かに食い散らかされた人体が、無数に転がっていた。


 既に元は何人いたのか、確かめることなど不可能だ。

 ただ、まとわり付いている衣服の切れ端から、その死骸が元々は寺社奉行所の同心たちであろうことが見当がつく。


 母の言葉が甦る。


 ここは、汚してはいけない場所だ。

 大いなる女神の神域は、常に清浄に保たれることで、背後に控える江戸の町をも浄化し続ける。

 女神の力は強く、他のもっと大きな聖域にも影響を与え、鬼門に位置することでその反対側にある江戸城を、ある穢れから守っているのだ。


 それを、死骸で汚す。

 ここに祀られている女神は伊耶那美命いざなみのみこと。死の女神。

 単なる死体ぐらいでは、伊耶那美命の神威は衰えないかも知れない。

 しかし、ここにあるのは、ただの死骸ではない。

 十中八九、モノに食い散らかされた死骸だ。


 そればかりか、ご神体そのものに、何やら術の跡がある。

 花渡が見たこともない、そして汚された死骸の側にあることから、真っ当な術ではないことが明らかだ。


 もしや――


 江戸の騒乱の原因はこれか。


 花渡は僅かな記憶を辿る。

 母は、この社が、江戸をモノから守っていると言ってはいなかったか。

 どういう仕組みか、モノが侵入しやすい方向である鬼門、うしとらには、特に厳重な守りが施されている。

 そんなことも、記憶の水底から甦ってくる。


 寛永寺かんえいじ浅草寺せんそうじ神田明神かんだみょうじん、そんな錚々そうそうたる鬼門守護の面子の中に、実はこのささやかな花渡神社も含まれているとは、近隣住人ですら知らないに違いない。


 黄泉よみの女神、伊耶那美命、かの女神を祀る神社を、元よりその巫女であった母は守っていたのだ。

 そもそもどういう経緯であったのかは分からない。

 だが、それは事実ではあった。


「そうだったのか? こうして鬼門の守りが崩されたから、江戸にモノが?」


 思わず呟く。

 だが、しっくりは来ない。

 いくら急に鬼門が汚されたからと言って、あれだけ大量のモノが湧き出すだろうか?


 恐らくまだ何かある。

 しかし、この神社への侵害が、それらと無関係であるということもないだろう。


 花渡はご神体の磐座に歩み寄った。

 この巻き付けられている、汚穢な術を解かなければ。


 手を伸ばした途端、指先に衝撃が走った。


 慌てて引っ込める。見れば指先が赤くなっていた。

 何かで強く叩かれたか、或いは何かに擦ったかのように。


 素手では危ないと判断し、花渡は神刀を構えた。あの紐を切れば、貼り付けてある札も一緒に落ちるはずだ。


 神刀が、薄い光を鋭く跳ね返した。

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