第8話「御隠居エルフの朝ごはん」
不登校児とはいえ、ヤイバの朝は早い。
今日は二人分の朝食を用意するので、新しく皿や茶碗を出して洗っておく。
もちろん、母親のミラのものではない。
「……エルフって、朝はパンなのかな? ご飯でも大丈夫かなあ」
居間には、敷いた布団の上でイクスがダイナミックな寝相を披露していた。浴衣ははだけでほぼほぼ全裸、というか裸よりもちょっと艶めかしい。
でも、局所的にグラマーなだけの子供なので、あまりヤイバは気にならない。
気にしないようにして、まだ起こさないようにそっと通り抜ける。
洗濯機も回し始めて、縁側の鎧戸を開けて大きく伸びを一つ。
「そういえば、月……異世界って月がないんだな」
ぼんやりと青空にまだ、白い月が微かに見える。
地球の衛星である月は、どうやら異世界にはないらしい。
昨夜のイクスは「あれがお月さまかや!」と、月見酒で盛り上がっていた。実に以外なことであるが、異世界なのだからしかたがない。むしろ、創作物では大小二つの月があったり、もっと複数の衛星がある作品だって存在する。
ただ、ヤイバにとってはこの現実が全てであり、イクスもそうだろう。
「ムニャア……ここはワシに任せるのじゃあ」
「ふふ、よく寝てる。さてと、朝ご飯は」
「星砕きの魔法で原子レベルまで粉々にしてやるでのう~」
「……ちょっと物騒な夢みたいだ」
そういえば、イクスのいた世界の文明レベルはどれくらいなのだろう。
ふと気になって、例の異世界ラジオをつけてみる。
原子の発見、錬金術から生まれた科学の発展と、そこそこのレベルにあると見ていいだろう。その証拠に、まだかろうじて電波を拾うラジオから、異世界のニュースが流れてきた。
『さて、次のニュースです。王国は本日、帝国に対しての五度目の停戦交渉に挑むことになりました。その間、国境付近の難民に対しては教会からの施しが――』
あまり明るい話題ではないらしいが、現実世界だってどっこいどっこいだ。
そう思いつつ、炊飯器のご飯を温め直しておかずの準備にとりかかる。片手鍋にもだしの昆布を入れて、今日は野菜モリモリの味噌汁を作る予定だった。
その時、背後でなんとも眠そうな声が響く。
「んなあ……ふう。おはよう、ツルギ」
「僕は息子のヤイバだよ、イクスさん。おはようございます」
「んあ、ん……そ、そうじゃった、すまんのうヤイバ」
「朝からお米でも大丈夫? パンも一応あるけど」
「ん、まずは白湯をいっぱい欲しいかの」
「わかった、ちょっと待ってね」
眠そうにしょぼしょぼと目をこすりながら、イクスが目を覚ました。
ずるずると液体みたいに布団から這い出て、そのまま浴衣が脱げてゆく。
流石にヤイバもぎょっとしたが、相手は三千歳のハイエルフである。老婆の裸、おばあちゃん! 脳裏にそうつぶやいて呪文のように唱えながら目を反らした。
「顔を洗って、歯磨きしてきて。お湯はここにおいとくね」
「ありがたいのう」
本当に見た目だけは、なんとも麗しく美しい。
太古の美術品がそのまま生きているような姿に、周囲の空気さえ輝いて見えた。
そして、どうにもイクスは自分の美貌に無自覚のようである。
加えて言えば、羞恥心も少し鈍い。
それはでも、実の母で慣れているヤイバだった。
「ぷあーっ、昨夜は飲んだのう。日本酒とかいうの、とっても美味しいのじゃ」
「そう、よかった。異世界はやっぱりワインとか? あと、ビールかな」
「まあ、色々あるぞよ。スライム酒とか」
「……あまり飲みたくないね、それ」
まだまだ夢見心地なのか、イクスはゆっくりと白湯を飲む。
湯呑みを両手で持ったその姿は、確かにちょっと年寄り臭い。見た目とのギャップがなんだかかわいくて、自然とヤイバは頬が緩んだ。
だが、イクスはズズズと湯を飲みながらもにっぽりと笑う。
「のう、ヤイバ。昨夜の、コンビニ? みたいな店がほかにもあるかや?」
「うん、まあ……ちょっと行けばディスカウントストアやスーパーもあるし」
「ワシ、杖を買いたいんじゃが」
「ああ、昨日言ってた……こう、やっぱり魔法使い的なのじゃなくて?」
「そう、普通に歩くのに使う杖じゃよ。足腰が弱ってしまって、いつまでもヤイバに迷惑をかけてしまうからのう」
そう言うと、そっとイクスが細い手を伸べる。
その先で空間が渦を巻いた。
よくはわからないが、異空間へとアレコレを収納しておく魔法だ。ポーションだ毒消しだを99個持ち歩けるゲームの理屈は、なるほどこういうものかもしれない。
すると、一振りの剣が現れる。
「あ、間違った。これは龍殺しの魔剣じゃ。これじゃのうて、ええと、あれ?」
「やっぱり魔法の調子、悪い?」
「んー、なにぶん年じゃからのう。ええとこれは……魔弾の弓じゃな、これでもない。ああ、あったあった。あったぞよ」
するりと最後に出てきたのは、イクスの身重を超える長杖だった。
ずいぶん使い込まれた木製で、先端に宝石と女神の意匠が施されている。キラキラの布地が旗のように編み込まれていて、なるほどこれがファンタジーなロッドというものだと説得力がある。
いかにもなその杖を持って、イクスはずり落ちた浴衣を完全に脱いでしまった。
「この杖をの、下取りに出して」
「いや、普通に買えるから大丈夫。昨日の金貨もそうだけど、気を使わないで」
「そ、そうかや? この杖も千年は使ったからのう……それなりの価値なんじゃが」
「魔法使いってやっぱり、杖で戦うんだ」
「うむっ! ……まあ、この杖もお役御免じゃな。そもそも敵などおらん、魔物も魔王も滅んで世は平和になったのじゃ」
だが、異世界ラジオはあいかわらず見知らぬ土地の紛争や移民問題を謳っている。
ちょっと気になって、ヤイバは料理を続けながら少し聞いてみた。
「魔法使いは……戦争とかには使われないの?」
「そういうのは、エルフでは少ないのう。ダークエルフの部族たちは好きみたいじゃったが」
「じゃあ、イクスは人とは戦わないんだ」
「野党や盗賊の類は懲らしめるが、まあ、そうじゃな。魔法は基本的には、魔を滅する術……人に向けるものではない。それにほれ、最近は科学があるからのう!」
ひょっとしたらイクスは、異世界で最後のエルフになってしまって、居場所を失ったのかもしれない。時間も場所もなくして、今は終活の一環として旧友を訪れたという訳だ。
父の仏壇にもお茶をあげて、さてとヤイバは魚を焼き出す。
定番の紅鮭が、パチパチと静かに炙られいい匂いが広がった。
「あとは、そうじゃなあ。もう少し服がほしいかのう」
「母さんのも僕のも、サイズがあわないもんね」
「んむ! それと……本屋! 本屋に行きたいのう! もっと異世界のことが知りたいのじゃ。あと、この、たぶれっと? とかいうのも便利じゃ、ワシもほしい」
昨日からイクスは、知識欲を隠そうともしない。
今も、まるで魔法の鏡を手にするようにタブレットを抱き締めている。
彼女から見ると、現代の日本がまさしく異世界なのだった。
そうこうしているうちに、酷く一般的でド定番な朝食の準備が整った。同時並行して作っていた味噌汁も、余り物の野菜を遠慮なく全投入したので、ちょっとした鍋物みたいなできだった。
イクスは食卓に料理が並ぶと、パアアアっと笑顔を輝かせた。
「いい匂いじゃのう! あ、ちと顔を洗ってくる! 急がねば……冷めてしまうのう!」
「そう慌てなくても大丈夫だよ」
「……顔を洗う魔法とかあればいいんだがのう」
「タオルと歯ブラシ、コップを出しておいたから使って」
「歯ブラシ……ああ、昨日のコンビニとかいう場所で買ったやつな! こっちではそういうものを使うんだのう。そういえばあっちの世界でも人間はそういう小道具をどんどん作っておったわい」
因みにエルフは、ある種の薬草を持ち歩き、定期的に噛み噛みして虫歯を防ぐらしい。文明圏が違えばこうした些細なことでもヤイバには驚きだった。
とりあえず熱いうちにと、先に朝食を取るよう勧める。
その間も異世界ラジオは次々とニュースを続けていた。
『さて、キルライン伯爵の捜索が打ち切られて一週間が過ぎましたが……氏の船と思しき飛行艇の残骸が発見されました。王国側ではこれを事故として処理し――』
この時はまだ、この小さなニュースにヤイバは関心を持たなかった。
地球でだって、飛行機の黎明期には墜落事故が多発したのだ。ただ、なんとなく産業革命直後の世界観を想像したが、それは同時にファンタジーな時代の終焉をも意味していた。
今は逆に、自分の生活、現実世界が異世界ファンタジーである。
半端に浴衣をはおりなおして、眼の前ではハイエルフの大魔導師が朝食を食べているのだ。
「どうじゃ、箸の扱いにも慣れてきたぞよ」
「はいはい、箸を人に向けないでね」
「しっかし、美味い朝食じゃのう。新鮮な食材で、あっという間にアツアツじゃよ」
「これもまた科学なんだけどね。こっちじゃ少しだけイクスの世界より科学が発達してるんだ。多分、百年くらいは進んでる」
ふと、百年という言葉を口にして思い出す。
モモモッと健啖家ぶりで旺盛な食欲を披露するイクスは、あと百年しか生きられないという。エルフにとってその時間は、長いのか短いのか。
少なくとも、自分よりは少し長生きするだろうなとは思うヤイバ。
人間にとっての百年、それは平均的な寿命よりも遥かに長い。
長寿といわれる日本人でも、そこまで生きる人は稀だ。
少し想像してみる。
しわしわの老人になった自分と、変わらぬ美しさのイクス。彼女はそこまで一緒にいてくれるかはわからないが、自分もまたイクスにとっては「見送る人」になるのだろう。
それはそうと、彼女は今後はどうするのだろう?
とりあえずは、朝食と掃除洗濯を終えたら、買い物にでかけようと思う。ヤイバはヤイバで、勉強もあるし今日も忙しい一日が始まるのだった。
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