第5話「幼馴染はチタン製」
晴れた午後の日、風通しの良い居間にいびきが響く。
隣の寝室で、母親のミラが爆睡しているのだ。まるで夢すらみていないような、これぞまさしく泥のようにといった熟睡ぶりである。
二時間後に起こす約束をして、ヤイバは家事を続ける。
洗い物を済ませ、洗濯物を回収に庭へ出た、その時だった。
「都牟刈君、おつ。これ、今日のプリント。ノートはさっきメールしときました」
妙に抑揚のない、小さく細い声が響いた。
ささやかな空気の震えが、なんとも歯切れよくて不思議な声だった。
「ああ、チイ。いつもありがとう」
「いいの。私、クラス委員長だから」
そこには、学校の制服をキッチリ着込んだ幼馴染が立っていた。
背が高くて、長い黒髪を三つ編みに結ったクラスメイトだ。自分で無自覚な美貌を否定するように、野暮ったい黒縁メガネをかけている。
世が世なら、窓辺の文学少女といった趣だ。
だが、歩み寄る彼女を見上げて、その影に包まれるとヤイバは身長差に驚く。
彼女こそが、文武両道、通称『チタンの女』こと言祝チイだ。
因みに、チイたんと呼ぶと、空手四段の正拳突きが飛んでくる。
「お洗濯? ……ちゃんと勉強は進んでいるのかしら」
「ん、午前中にすませることにしてるんだ、勉強は。まあ、今日はちょっと色々あって」
「色々……その情報は共有する必要がありそうね。勿論、クラス委員長として」
どういう訳だが、昔からチイはグイグイくる少女だ。
一年生だった去年もクラス委員長で、毎日平日はヤイバの家を必ず訪れる。お陰で授業にも遅れないし、ある程度の学校行事やクラスの雰囲気を知ることができた。
なにより、親もそうだが「学校に来なさい」的なことを言わないのがいい。
だが、金属的な冷たさすら感じる無表情は、まるで氷細工のビスクドールだ。
「あ、いや、大したことじゃないんだ。ちょっと……そう、母のお客さんが」
眼の前で腕組み見下ろすチイは、いつもちょっぴり圧が強い。
体格に恵まれ学力も高く、おおよそ美少女と呼べる全ての要素を持ちながら笑顔を見せたことがない。それを夢見て告白った者たちは、男女を問わず無惨に散っていくのだ。
そんなチイに迫られていた、その時である。
「少年、この漫画というものは面白いのう! ワシ、続きが読みたいんじゃが!」
今まさに話題になっていた、イクスが縁側に現れた。
風呂と昼食を終えて、ブカブカのTシャツ一枚でゴロゴロ怠惰に過ごしていたところである。おおよそセンスを感じさせぬシャツには「塩サバ」と大きく書いてある。
この手の趣味が悪いTシャツは全て、父が好んで集めていたものである。
そして、悪戯好きな春風が静かに吹き抜ける。
ふわりとイクスを覆っていたシャツの裾がまくれあがった。
瞬間、チイは無言の無表情でスマートフォンを取り出す。
「もしもし、警察ですか?」
「ちょ、ちょっと、チイ! 違うから、あれは、その」
「……冗談よ。で、どこからさらってきたのかしら? どこの子? 都牟刈君との関係性は? 血縁者か親戚よね? そうに違いないわね! 決して恋人や愛人ではないわね!」
「落ち着いて、委員長。あと、ちょっと怖いよ……ええと、母の知り合いなんだけど」
真顔でグイグイくるので、前のめりなチイに合わせてヤイバはのけぞる。
おおよそ喜怒哀楽を表情に出さない彼女が、こころなしか怒っているように感じられた。
イクスはといえば、おっぴろげた柔肌を改めてTシャツで覆って、しかしオーバーサイズ過ぎて華奢な肩からそれがずり落ちそうになっている。見た目は幼女なのに、やたらと自己主張の強い胸だけが塩サバの文字を盛り上げていた。
「母の知り合い……おばさまが?」
「そうなんだ、ああ見えて彼女は、その」
「なんじゃ、少年。逢瀬か、その娘はお主の好い人か。これは邪魔をしたのう」
空気が凍った。
わずか数秒の沈黙が、ヤイバには永遠にも思われた。
そして、再びチイはスマートフォンを耳に当てる。
「もしもし、警察ですか?」
今度は本当に通話が繋がっていた。
『はい、こちら警察です。事件ですか? 事故ですか?』
「事件です。私の……ええと、ええ、そう、幼馴染。ただの幼馴染なんですが、その人が――」
「待って! 落ち着いて委員長! 洒落にならないから!」
思わず反射的にヤイバは手を伸ばす。
チイとは頭一つ分くらい慎重が違うので、精一杯の背伸びでスマートフォンを取り上げようとした。当然だが、それを避けるチイが眼鏡のレンズに光を反射させていた。完全な鉄面皮、とりつくしまもない仏頂面のクラス委員長がそこにはいた。
それでもと思って、どうにかチイの手に手で触れた瞬間だった。
無理に避けようとしたチイがバランスを崩して、その上にヤイバが覆いかぶさる形になる。咄嗟の転倒に、すぐにヤイバはチイの頭を抱いて庇った。
「……なにしとるんかのう、少年。ほれ、危ないからイチャつくなら寝室にエスコートしてやるんじゃ」
ふわりと風が旋を巻いた。
チイを抱き締めたまま、ヤイバは宙に浮いていた。まるで見えない真綿に包まれたように、空気の層が転倒を防いでくれたのである。
これもまた、魔法だと思った。
さしてなにをした訳でもないのに、イクスの風の魔法が助けてくれたのだ。
そのイクスだが、サンダルをはいてペタペタと歩み寄る。
「このまま部屋まで運ぼうかや?」
「えっと……それは、いいです。もうおろしてもらっても大丈夫。ありがとう、イクスさん」
「ふむ。まあでも、ワシの魔法の冴えたるや、やはり凄いのう。流石はスペリオールの称号を持つ大魔導師じゃ」
「スペリオール?」
「最強ってことじゃよ。文字通り、全ての呪文を習得した者の称号じゃ。ワシの世界では、たった歴史上にたった三人、ワシとツルギと、大昔の大魔法使いくらいじゃよ」
ヤイバの父ツルギは、異世界に召喚され魔法使いになった。そして、イクスや母のミラと一緒に戦い、魔王を倒して異世界を救ったのである。
イクスはそっと、魔法の風を弱めてくれる。
それは、ガシッ! とチイがヤイバを引っ剥がして逆に抱き上げるのと同時だった。彼女は姫君を抱く王子のように着地すると、ほのかに頬を赤らめている。
「今のは……説明を求めます、都牟刈君」
「ああ、えっと」
「よくみれば、あの方……耳が」
「うん、エルフなんだ」
「そうですか、では部屋に行きましょう」
「なにが、では、なの? 日本語の繋がりがちょっと。っていうか、驚かないの?」
「ガチで驚いてますが、なにか? しかし、エルフがいるということは――」
ヤイバを抱き上げたまま、チイはポイポイと靴を脱いで縁側に上がった。
その口から、リアリストな彼女らしからぬ言葉がこぼれ出る。
「これは夢です。ないしは幻覚、妄想……ならば、なんの問題もありませんね」
「えっと、シュールなことになってるけど、現実だよ?」
「いえ、エルフなんて種族がこの世界に存在する筈がありません。つまり、これは非現実」
「異世界にはいるんだよなあ……っていうか、いたらしいよ。今は彼女が最後の一人だって」
「なるほど、ではやはり部屋に行きましょう。都牟刈君の寝室はたしか」
「なにこれ、どうなってるの……ね、ねえ、イクスさん。……イクスさん?」
ふと見れば、イクスはあとから縁側に登ろうとして、ぺたりと庭に座り込んでいた。かぶったTシャツはローブみたいなものだが、その裾から見える白い足がほっそりと眩しい。
慌ててヤイバは、チイに下ろしてもらって駆け寄る。
「イクスさん、大丈夫ですか?」
「いかんのう……ちょっと魔力を使っただけでこれじゃ。身体が弱っておる」
「立てますか?」
「ちと無理じゃ。脚の感覚がないのう。にはは、参った参った」
無理にニパッと笑うイクスの、その表情がかすかに寂しい。
そう思っていると、我に返ったチイが手伝ってくれた。彼女はすぐにイクスを抱き上げると、優しく縁側に座らせる。
「……エルフ。弓や魔法に長け、ファンタジー創作に出てくる定番の異種族。美男美女ばかりで長寿、でも……私とは解釈違いですね。エルフがこんな、こんな」
「なんじゃ、しょうがないじゃろ。三千年も生きてここしか育たんかったんじゃから」
「エルフって、すらっと細身でスレンダーなのが常識、いえ、正義」
「おうい、少年。お主の幼馴染はなんか妙じゃぞ。そりゃまあ、ワシ以外の者たちは概ねそういう感じじゃったが。それに」
イクスの胸を見るチイもまた、ありきたりなセーラー服を内側から大胆に盛り上げていた。立派に過ぎる胸の実りが、セーラー服の丈を短くさえみせている。
イクスは不満そうに、そんなチイの胸を遠慮なく両手で持ち上げゆさゆさ揺らした。
「お主も人のこといえんじゃろ。ま、子が生まれたらよい乳が出そうじゃが」
「……もしもし、警察ですか」
「少年、やはりお主の幼馴染はちと妙じゃぞ。表情も乏しいし、言葉が通じるのに話が通じん」
とりあえず、そっとチイのスマートフォンを取り上げる。
やれやれとヤイバは、ちらりと居間の時計を見た。
母を起こすまではまだ、時間がある。
「とりあえず委員長、秘密……守れる? もしそうなら、上がってお茶でも飲んでって」
「秘密、ですか? それはつまり……都牟刈君と私が秘密の関係を持つということですか!」
「なんでそんなに張り切ってるの。まあ、イクスさんのことをね、しょうがないから少し話そうと思って」
何故かフンス! と鼻息も粗く、すらりとした長身のチイが上がり込んでくる。
同時にヤイバは、縁側のイクスもひょいと抱き上げ、居間のちゃぶ台の前へと運んでやるのだった。
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