雨が降る
綺麗に染まった灰色の髪は長く、後ろで一つにまとめられている。斑鳩さんみたいな白いコックコート姿で、汚れるのも構わずに、おじさんは片膝を地面につけていた。
「はい、吸って、吐いて、吸って、吐いて」
「……」
「大丈夫、私がいる。今は何も気にしないで、呼吸に集中するといいよ」
「……」
「君?」
心配そうに顔を覗き込まれて、思わず目を逸らした。
誰だ、この人。
見たことない人だ。けれど、ここは白熊さんの店の前であると同時に、斑鳩さんが働いている洋食屋の前だ。コックコート姿だし、斑鳩さんと一緒に働いている人だろうか。
……余計なこと、しないでほしい。
ふつふつと込み上げてくる怒り。白熊さんじゃなく、赤の他人に構われている現状が、嫌で、嫌で、嫌で、気が付けば僕は、
「──ほっといてください!」
おじさんを突き飛ばしながら立ち上がり、駆け出していた。
後ろから聞こえてくる、だっはは、若いね、という笑い混じりの声に、頭を掻きむしりたくなった。
うるさい、うるさい、うるさい!
駅に着き、電車に乗る。窓にいくつか水滴が付着していた。どうやら雨が降ってきたらしい。カバンの中には折り畳み傘が入っている。家の最寄り駅に着くまで、ひたすら無言で窓を眺めながら、白熊さんのおにぎりの味を、味噌汁の味を思い出していた。
毎日摂取してきたものを、今日は口に運べない。その事実を確かめただけだった。苛立ちが増していく。
駅を出る頃には雨はそれなりに降っていた。誰も彼も傘を差し、傘を持たない人は駆け足に屋根のある所へ。僕は傘を差さなかった。傘を取り出すのが億劫だった。ゆっくり、晴れている時と変わらぬペースで歩く。
また視線。
傘を差せばそんな視線を向けられないと、冷静に頭が回ったのは、水が滴るほどに髪が濡れた頃。服もけっこう濡れた。もう傘を差しても遅い。
足は、家に向かう。
この状態ではどこにもいけない。早く着替えてしまわないと、風邪を引くかもしれない。そうなったら、学校に行けない。人鳥に会えない。バイトに行けない。白熊さんに会えない。白熊さんのおにぎりや味噌汁を口にできない。
そんなの、絶対に嫌だ。
右足を前に、左足を前に、そんな動きを繰り返した末に、家に着く。とうさんと母さんが再婚した時に買った、クリーム色の、二階建ての一軒家。
……ああ、着いたな。
入らないといけないけれど、すぐに入るのが嫌で、天を仰ぐ。雨粒が顔に当たり、鬱陶しい。口なんて開けてられない。
「……っ」
けれど口は、急速に開いていく。
ベランダには洗濯物がいくつか干してあった。その中に、あってはならないものが目に入る。
そこからのことは覚えていない。
どのタイミングで家の鍵を取り出したのか。二階のベランダに向かうまでに誰とすれ違ったのか。何もかも。
「──にい、さん」
乙音の声を耳が拾い、そこでやっと、自分が家の前から移動していることに気付いた。
僕は、家の二階のベランダにいた。靴は履いたままだ、カバンも下ろしていない。髪も服も濡れている、当然手も。
濡れた両手の中には、白熊がいた。
白熊さんからもらった白熊。黒ずんだ白いその身体を、何があろうと見間違えたりしない。
何で、洗濯物と一緒に干されていたのか。洗濯カゴに入れた覚えはないし、昨日の夜に洗った覚えもない。
それなのに、何で。
「にいさん、濡れてる。タオル、持ってくるから」
「……乙音ちゃん」
彼女に視線を向けないまま、訊ねた。
「僕の部屋に、また勝手に入ったの?」
「……その」
「僕の白熊を洗ってくれなんて、頼んだ?」
「……それは」
「──ふざけるな!」
彼女のいる方を睨み付ける。部屋の中、立ち尽くしていた乙音の肩がびくりと跳ねたのが目に入った。
視線。
ここしばらくずっと向けられてきた視線。いつも通りの無表情。苛立ちが、怒りが、身体中に巡る。
「いつもいつも、じろじろと。何なんだ。僕は、白熊の話を君としたいと思ったことはないよ。なのに勝手に部屋に入って、勝手に僕の白熊を洗うだなんて……やっていいことと悪いことの区別もつかないのか!」
「……っ」
こんな風に乙音を、誰かを、怒鳴ったことはなかった。身体が徐々に震えていく。呼吸も荒くなっていく。
乙音は黙ったまま俯き、何も言ってこない。僕も言いたいことはもうない。彼女に構うよりも、白熊を部屋に戻してしまいたかった。
靴のまま室内に入り、乙音の横を通り過ぎる。廊下に出ようと扉に手を伸ばしたら、勝手に開いた。
母さんがいた。
僕の姿を見て眉をひそめる。全身が雨で濡れているからだろう。
「怒鳴り声が聴こえたから来てみたら、なんなのあんた、その格好。……いいわ、早くお風呂入っちゃいなさい。母さんもやるけど、お風呂から上がったら廊下の濡れてる所を拭いて……ちょっと! 土足厳禁!」
早く脱ぎなさいと怒りだす母。すぐ目の前から聴こえてくる声なのに、何故だか遠くから聴こえているような感じがする。
お風呂、お風呂だけど、先に白熊を部屋に……。
「……おかあ、さん」
「──乙音ちゃん!」
母さんは僕を押し退けて、乙音の元に行く。乙音にしては珍しく、涙混じりの声で母さんを呼んだからだろう。
よせばいいのに。
背後を振り返ると、乙音はしゃがみこんで泣いていた。嗚咽も溢している。そんな彼女の背中や頭を何度も撫でながら、母さんは乙音に全ての意識を向けていた。
よせばいいのに。
僕は部屋に戻ることも忘れて、じっと二人の様子を眺めていた。
「どうしたの乙音ちゃん、何かあった? 大丈夫よ、落ち着いて。大丈夫だから。おかあさん傍にいるからね。大丈夫。大丈夫、ね?」
「おかっ、おかあっ……ごめん、なさっ」
「謝らなくていいのよ、乙音ちゃ」
「──にいさっ……ごめん、なさい!」
「……」
ゆっくり、ゆっくり、母さんの視線が僕に向けられる。──能面のような無表情だった。
「あんたは……何でこの子に怒鳴ったのよ?」
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