しゃがみこむ、背中を撫でられる

 気のせいであれば良かったのに。


 視線を感じる頻度は日を追うごとに増していく。最初は無視していたけれど、気になって振り向けば、真顔の乙音といつも目が合った。

 彼女は、じっと僕を見続けてくることもあれば、顔を背けてその場から離れていくこともある。何かを口にすることはない。

 何? とは、訊けそうになかった。きっと白熊のぬいぐるみについて、ひいては白熊について話したいんだろうけれど、僕にその気はない。

 そういう話をしたいのは、やっぱり。


「……」


 ある日の朝、食卓にラピュタパンが出た。映画のようや素朴なパンはそこにない。

 薄いトーストの上から溢れるほどにとろけたチーズ。カリカリに焼かれた目玉焼きの上には、刻んだパセリが振り掛けられている。

 別に体重を気にして生きてはいないけれど、少しカロリーが高そうなパンだな……。

 嬉しそうなとうさん。無表情ながら目をキラキラとさせている乙音。笑みを浮かべながら、分かってんでしょうね? と言いたげな母さん。

 皆、僕を見ていた。

 ほんのり気持ち悪さを覚えながら、誰よりも先に口をつける。柔らかい。味は、よく分からなかった。それでも言わないといけない言葉が何かは分かっていたから、それを皆に向けて言う。

 美味しいです、の一言は、とうさんに安堵の吐息を溢させた。


「あざらし君、少し早いけど休憩にしよう。味噌汁も何杯でもいいから飲んで。多めに作ってあるから気にしないでいいよ」


 バイトしている時、白熊さんからよくそう言われるようになった。平気です、と言っても、問答無用で味噌汁を渡してきて、二階の、着替えに使わせてもらっている寝室に行くよう言われる。

 休憩から戻れば今度はおにぎりを何個か渡されて、それ食べ終わったらお願いねと言われるから、気持ち休憩時間が増えた気がした。

 白熊さんの味噌汁は美味しい。おにぎりだって格別だ。二階の寝室には誰も来ないから、視線を感じなくて、とても、落ち着く。


「あっざらしー! あざらしあざらしあっざらし!」


 最近、人鳥に肩を叩かれることが増えた。

 両手でぽんと叩かれることもあれば、片手で気持ち強めに叩かれることもある。何? と訊いても笑うばかりで、何なんだろうなと思うけど、別に嫌ではないから、今の所は拒んでいない。

 あざらし呼びを相当気に入ったのか、人鳥は僕をあざらしと呼ぶようになり、自然と他の人にも、あざらしと呼ばれるようになってきた。ついでに人鳥もペンギンと呼ばれている。

 僕もそう呼ぶべきだろうか。


「……なあ、あざらし」

「何ですか、斑鳩さん」


 放課後になり、白熊さんのお店に入ろうとした瞬間、きっと煙草休憩を終えて戻る途中であろう斑鳩さんと鉢合わせる。見慣れてきた三白眼だけれど、この日はいつもより細く、いや鋭くなっているように見えた。


「……」

「……えっと、何か?」

「……大丈夫か、お前。ここ最近、顔色悪いけどよ、ちゃんと飯食ってんのか?」

「食べてます」


 被せるように返事をすると、何か言いたそうな顔をする斑鳩さん。三白眼の鋭さが増すけれど、以前のような怖さは感じない。きっと、つい顔に力が入っただけなんだろう。

 ごめんなさい、急ぎますので、と言うと、斑鳩さんは横に退いてくれて、ありがとうございますと早口に言って店内に入る。


 視線が背中に刺さった。


◆◆◆


 その日全ての授業が終わり、放課後になる。家に帰る人、部活に行く人、それぞれの場所へ向かう人達の足音を耳にしながら、僕はスマホの画面を見ていた。


『イラストの仕事でかなり急ぐものがあって、お店開ける余裕がないから、今日はお休みにするよ』


 今朝届いたメッセージ。何度も何度もこうしてスマホを確認しているけれど、内容が変わっていたり、やっぱり今日は午後からお店開けようと思うみたいなメッセージは来ていなかった。

 急なバイトの休み。普通なら、嬉しいことなんだろうな。

 椅子から立ち上がれずにそうしていると、ふいに肩を叩かれる。はてと振り返れば、頬につんと何かを押し込まれる。


「……何やってんの?」


 僕にそんなことをしてきた下手人に訊ねてみると、彼はにっこり笑って、僕の頬を突いていた指を引っ込めた。


「たまにはいいじゃん。なんかやりたくなったんだよ」

「痛かったんだけど」

「嘘だー」


 下手人こと人鳥は笑いながら隣の席に座り、僕と向き合う。笑みを浮かべているのに、その目にふざけた様子はない。何となく、背筋が伸びた。

 じっと僕を見つめながら、人鳥が口を開く。


「今日の昼飯のサンドイッチさー、美味しかったー」

「そう? コンビニで適当に選んだやつだから、美味しかったなら良かったよ」

「……白熊さん、何かあった?」

「……他の仕事が忙しいみたいで、お店、開けなかったみたい」


 高校に入学してから、毎日ずっと白熊さんのおにぎりを食べてきたのに、今日だけコンビニのサンドイッチだったから、気になってたんだろう。

 人鳥の顔から笑みが消える。頭を掻いて、溜め息をついた。


「今日さ、部活あるんだよね」

「そう」

「なんか卒業した先輩が遊びに来て、対戦したり指導したりしてくれるんだと」

「そうなんだ」

「……せっかくさ、あざらしのバイトが休みなのに。今日みたいな日は遊びにいけたらいいんだけど」


 僕は首を横に振り、椅子から腰を上げる。

 外部から人が来るなら、部員じゃない人間がいたら駄目だろう。そういう日じゃなかったら、部室に招いてくれたり、部活を休んでどこか遊びにいけたんだろうか。

 タイミングが悪かっただけ、それだけ。


「帰るよ」

「……海豹」

「また明日ね、人鳥。明日は白熊さんのおにぎり、食べられるといいね」

「──海豹、何かあったら電話して。寝る時間遅いから、いつでも話せると思う」

「……ありがとう」


 そんな言葉を残して、教室から出る。行き場なんてないけれど、ずっとそこにいるわけにはいかない。人鳥が部活に行けなくなるから、だから……。

 足早に学校を出て、商店街を通る。バイトがない時の帰り道はいつも遠回りだけど、つい、この道を選んでしまった。


「……」


 白熊さんのお店は、シャッターが閉まっていた。二階の窓も閉まっているし、屋上に煙は昇っていない。

 一目でいいから、その姿を見たかった。

 本当に、見るだけでいい。声を掛けられたらすぐに逃げる。仕事の邪魔になってはいけないから。

 イラストの仕事、今日中に終わってくれたらいいのに。それで明日は普通に営業してほしい。白熊さんのおにぎりを食べたいし、働きたい。そうじゃないと……堪えられない。

 シャッターを見ていると、だんだん呼吸がしづらくなってきて、胸元を擦る。早くここから離れないと。どこか、公園とか、時間潰せそうな所に行かないと。そう思うのに足は動かなくて、息はどんどんしづらくなる。

 しゃがみこむ。視線が背中に刺さる。手で口を押さえて、上手く呼吸ができるように努める。

 視線視線視線。どこへ行っても視線。

 家の外にいても、家の中にいても、視線が突き刺さる。……見ないでほしい。ほっといてほしい。何でほっといてくれないんだ、僕は何も言いたくない、関わりたくない。何も求めてこないでほしい。

 ──白熊さん。

 顔を上げたいけれど、無理そうだ。こんなこと、前にもなかっただろうか。寒い日だった。踞って、動けなくなっていた所に、確か……。


 背中を撫でられた。

 あの時も──今も。


 ふいに与えられた、あたたかな手の温もりに、それまで全く上げられなかった顔が瞬時に上がる。

 ──白熊さん!

 心の中で呼んだその名は、実際に口から溢れていただろうか。果たして、僕の目に映ったのは、


「大丈夫大丈夫! そんなに慌てなくていいからさ、ゆっくり呼吸してごらんよ、君」


 知らないおじさんだった。

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