第43話 不公平だ

「…………先に帰ってしまうなんて酷いじゃないか…………か弱い乙女を一人で夜道に放り出しても平気な男だったんだな夏樹は…………」


 サイベリアから駅へと続く大通りは一つしかない。隅っこの方で待っていると、十分もしないうちに立華さんはやってきた。考え事をしているのか、ぶつぶつ何かを呟いている。


「ああもう本当にショックだ……今夜は何も出来そうにない…………まあ顔を合わせるのも恥ずかしくはあるけども……」


 立華さんは珍しく背中を丸めてとぼとぼと歩いていた。俺に気が付かず目の前を素通りしていく。


「立華さん」

「うわっ!?」


 暗がりから声を掛けると、立華さんが跳びあがった。それが昨日動画サイトで見た『動くオモチャに驚く猫』に似ていてつい笑ってしまいそうになる。珍しい姿を見てしまったな。


「な、夏樹……?」


 立華さんの目には小さく涙が浮かんでいた。思ったより驚かせてしまったらしい。罪悪感が心を湿らせていく。


「えっと……驚かせてごめん。待ってようかなと思って」


 立華さんは手の甲で乱暴に目元を拭うと、丸まっていた背中をすっと伸ばした。それだけでいつもの立華さんが帰ってくる。


「…………一体どういう風の吹き回しだい? ボクを驚かせて反応を楽しみたかったのなら、それは大成功だと言っておくよ」


 少し棘のある言葉が俺の身体に突き刺さる。立華さんは少し怒っているように見えた。目を合わせてもくれない。


「いや、そういうつもりは全くなくてさ。何も言わずに先に帰っちゃって申し訳なかったなって思って待ってたんだ」

「そうかい。ボクは全く気にしていなかったけれどね」


 立華さんは頬を少し膨らませると、ちらと俺の方に視線を向けてきた。


「で、どうして先に帰るという判断になったのかを聞こうじゃないか」

「それは…………古林さんに誘われたんだ」


 俺は嘘をついた。流石に「立華さんを見るとドキドキして会話できそうになかったから」だなんて本当の事を言う訳にはいかなかった。


「なるほど、夏樹はボクではなくりりむを取ったという事だね」


 何とも嫌な言い方だった。でも悪いのは俺なので反論する余地はない。俺は黙って目を伏せた。


「それで、りりむはどこにいったんだい?」

「さっき帰ったよ。遅くなると両親が心配するんだって」

「それはおかしな話だね。一緒に帰ろうと誘われたんだろう?」

「そうなんだけど、何かちょっと話したかっただけみたい」

「ふぅん…………随分愛されているじゃないか」


 立華さんが踵を返し歩き出す。俺は慌てて立華さんの横に並んだ。ちら、と横目で様子を確認すると、立華さんの頬はまだ膨らんでいた。こんな状況で考えるのは空気が読めてないかもしれないけど、ハムスターみたいで少し可愛い。


「全然だよ。一緒に帰ったのも今日が初めてだし。それで言うなら立華さんの方が絶対愛されてると思う」

「果たしてそうだろうか。ボクはりりむに誘われた事なんてないけどね」

「きっと誘い辛いんじゃないかなあ。好きな人って逆に誘い辛かったりしない?」


 会話のラリーがそこで途切れる。立華さんは真剣な表情で前を向いていた。頬はもう膨らんでいない。暫く時間が経って、立華さんが呟く。


「それは────そうかもしれないね」


 心に冷たい風が吹いた。

 立華さんの雰囲気がまるで好きな人がいるみたいで、その人の事を誘うのを想像してみたような感じで、それが凄く嫌だった。


「…………」


 どうして心が軋むんだろう。俺はやはり立華さんの事が好きなんだろうか。そうだと認めるのは凄く簡単だった。


 でもそれと同時に、凄く辛い人生になる気がした。だってあの立華さんだぞ。高嶺の花なんて次元じゃない。富士山の頂上で決めポーズをしているのが立華一織という女の子だった。


 そんな子に恋をして、一体どうなる。辛い思いをするくらいなら友達として一緒にいる方がいくらかマシじゃないか。都合のいい言葉がどんどん溢れてきて心の隙間を塞いでいく。


「…………一織」

「え?」


 必死に自分を慰めていると、立華さんが何かを呟いた。俺は意識を向けておらず、それを聞き逃してしまう。


「ボクの事、一織って呼んでよ。そういえばボクだけ夏樹の事を名前で呼んでるじゃないか」


 不公平だ、と立華さんが不満そうに呟いた。何がどう不公平なのか全然分からない。


 …………一織。


 心の中で呟くだけで心臓が跳ねた。これは無理だ。全然無理。顔中の筋肉が暴走しそうだった。


「急に言われてもちょっと無理だよ。俺にも心の準備が」

「名前で呼ぶのに準備なんていらないだろう。ほら、早く」


 立華さんが道を塞ぐように相対してくる。期待の籠った眼差しに負け、俺は頬を引き攣らせながら小さく呟いた。


「…………一、織……っ」


 我慢出来ず俺は視線を逸らした。心臓が早鐘を打ち、顔がアホみたいに熱い。


「ふふ、これはいいね。今度から立華さんと呼ばれても返事をしないから。よろしく頼むよ、夏樹?」


 立華さんの顔は見れなかった。でも、絶対に笑っているはずだ。それくらい立華さ…………一織の声は楽しそうだった。

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